懐かしき真空管AMP制作 ---師としての真空管技術の思い出---

森  政 弘

1.はじめに

ラジオ受信器は今はポケットに収まるくらいに小さくなりましたが、僕が小学校の頃(1937年頃)には、横幅が30cmもある、大きなものでした。当時、僕の家の受信器は、アンプ(Amplifierの略、以下AMPと記す、増幅器のこと、ラジオの場合、正確には検波器も含む)とスピーカーが別々の箱に入っていて、スピーカーはアンプの上に乗せてあったのです。
そのスピーカーをけて、アンプの箱の蓋を開けると、暗い中に、電球のようなガラスの球があり、その中にほんのりと赤く光る所がありました。僕はその薄暗く赤く光るガラス球の幽玄さにすっかり魅了されてしまい、これが僕に、将来は、電気技術者になろうと決意させたのです。この、薄暗く赤く光るガラス球こそが「真空管」(光る部分は陰極)というもので、半導体が出現するまでは、電子回路の主要部品の位置を占めていました。
その頃、近所にU君という中学生の友人が居て、彼が僕に「子供の科学」誠文堂新光社、を貸してくれたので、その中を見たら、111Bという真空管1本だけの、1球式ラジオの作り方という記事が見付かり、僕は、その記事を穴が開く程読みふけったのです。言わずもがな、その先には、実際に作ってみたくなる心が待ち受けていました。しかし、当時、111Bは低電圧で働く(電池用)特殊管ということもあって、その値段は、4円50銭もしたのです。市電に乗るには6銭の当時としては、今日の4,500円位に相当する大金でしたから、親にねだっても、直ぐには買っては貰えませんでした。が、ともかく頑張ってねっだったのでしょう、111Bを手に入れることに成功したのです。言うまでもなく、コイルにする銅線(当時はエナメル線でなく、綿巻か絹巻の絶縁線)や少数の抵抗器、バリコン、電池などは、高価ではなかったので簡単に入手できました。大事な同調コイルも、円筒状ではなく蜘蛛の巣の形に巻くので、スパイダーコイルと言う名前も付いていました。
そして、苦心の末に、ともかくイヤーフォンででしたが、ラジオ放送が受信できて、聞こえた時の感動は、僕の進路を決定的なものにしました。
その後僕は中学校へ進学し、読む雑誌も「子供の科学」から、大人向けの「無線と実験」誠文堂新光社に代り、僕のその方面の知識も増えて行きました。家のラジオ受信器は時々故障し、ラジオ屋が修理に来た時には、僕は横から覗き込んで、いろいろ質問して、ラジオ屋が故障について説明する事柄が分かるようになっていたのです。そうこうする内に、また受信器が故障したので、「ラジオ屋を呼ぶのを止めて、自分で直そう」と思ったのです。ところが祖母に聞いても母に聞いても、内中で誰もOKとは言ってくれませんでした。これは当然だと思います。高価な受信器を修理できずに、むしろいじり壊してしまったら・・・・との気持が誰にもあったのでしょう。
しかし、僕は決心して、自分で直すことにし、そのラジオ受信器の中身を取り出し、先ず配線図を書きました。これはとても良い勉強になったのです。お分かりのように、ラジオの修理には「テスター」という、導通や電圧などを測るメーターが要りますが、それがありません。そこで僕は豆電球と電池を組み合わせて、導通だけならば、何とか判定が付くようにして、故障個所を見付けたのです。故障はコンデンサーのパンクで、同じものをラジオ屋から買って取り替え、ラジオが鳴った時の感動は格別でした。ただ半田付けの道具を持っていなかったので、導線をねじって縛り付けたのです。中学校の二年生の時のことです。
それ以来家中が、僕の幼い技術を信用してくれるようになり、半田ごて・ラジオペンチ・ニッパーなどを買ってくれるようになったのです。またNHKに電話して、「鉱石ラジオから、スーパーの6球まで」という、ラジオ屋を対象とした解説本も買ってくれました。
こうして、次第に僕の技術的腕前は伸びて、このGijutu.comの中に入れて頂いている、

わが掘っ立て小屋 -ロボコンの根源が培われた、戦前から戦後まで10年間の物語

へと、続くのですが、中学校5年生の頃には、どんなラジオでも修理できるようになっていました。勿論テスターも高級品を持っており、道具もそれなりに揃っていたのです。ですから、上記ネットの記事に書いたように、終戦直後に米国進駐軍から頼まれて、そのダンスホールの電気蓄音機(当時の略称、電蓄)を直す位のことは、何でもないことでした。
言わば、ラジオいじりは僕の趣味として定着したのです。

2.夢よ、もう一度

僕は、上記、「わが掘っ立て小屋」に書いたように、中学校時代に下の図1の様なシャック(無線機を置く掘っ立て小屋)を作って貰うことができました。(そのいきさつについては上記のネットをお読み下さい。)

図1 わが掘っ立て小屋(シャック)

工作には、「傷を付けること」を避けて通る訳には行きません。例えば、ドリルで穴を開ければ、貫通した瞬間、下に敷いた物にくぼみが出来てしまいます。半田ごてをうっかり台から落したことに気付かなければ、しばらくして煙が立上がります。これは板や机についてですが、自分の体を傷つけることも少なくありません。まだ上図のようなシャックがない頃のこと、畳の上でアンプを作っていた時、周囲は部品や工具が散らかって、足の踏み場もなくなっていましたから、立上がった途端、焼けた半田ごてを踏んで足の裏を火傷したこともあったのです。
戦後、小さな町工場を世界的大企業「本田技研工業 株式会社」に育て上げられた、本田宗一郎様の著書「私の手が語る」講談社、の序文(序にかえて)の次の頁に、私の手という図がありますので、ここに図2として、引用させて頂くと、下記の様に傷だらけで、特に、矢印で示した個所のお話しは、凄いと思います。

* 本田様は、「序にかえて」の文章に、こう書いておられます。
・・・指の先なども、ずいぶん削りとった。右と左の人差し指や親指の長さは、いまでも1センチはちがう。左手のほうが削りとられて短くなっている。すこしばかり指をつめたかたちになっている。左手はほんとうによく支えてくれた。
私はまた、人一倍ケガに強いのかもしれない。手足ぐらいなら、どんな傷ができても医者に手当てをしてもらったことがないのだ。チュッチュッと傷口から雑菌を吸い出しておいて、終わりである。それで痛みもしないし、化膿もしなかった。

図2 本田宗一郎様の左手

いつかは、(旋盤作業で、重切削の時)バイトの先が(折れて)手のひらから手の甲へ(図2の上の矢印で示した所から、下の矢印で示した所へ)つきぬけたことがある。ふつうなら、大騒ぎになるところだろうが、私は近くにいた者に、
「おい、オキシフル出せ」
といってそのままにしておき、バイトを万力にはさんでじわじわと引き抜きながら、オキシフルの液を傷口に注いだ。さいわい、骨と骨の間を貫通していたようなので、そのまま包帯を巻き、やりかけの仕事をすませたあと、夜には一杯やりにいったものである。・・・・。
僕は本田様のように猛烈ではありませんが、しばしば切り傷くらいの怪我や一寸した火傷とか感電は何回もしました。上記の、焼けた半田ごてを踏みつけたなどは、その一例です。感電については、当時は、今日のように安全一辺倒で避けるのではなく、むしろ積極的に電圧の判定にも使っていました。触ってビリビリ感じるのが指の第2関節までならば、100V、指の付け根までならば200V、という訳でした。幼い子供を大火傷から守るには、熱いものに指先を、わざと一瞬触れさせておくのが良い、という教訓と同様、軽い感電を経験しておくことは身を守ります。少々の危険を恐れていたのでは、もの作りはできません。もちろん、怪我を推賞するつもりは全くありませんが。
それが図1のシャックが出来てからは、専有の工作台もあり、その傍らには、地面からコンクリートで固めた「たたき台」もあったので、かなり安全にまた自由に、伸び伸びと工作にいそしむことが出来るようになりました。そのことは、僕の人生に大きな、貴重なものを与えてくれたばかりか、上記のネットに書いたように、終戦直後の食料や経済の混乱期(僕は旧制高等学校2年生)に、食料や収入という糧までも得られたのです。
当時僕は名古屋市に住んでおり、このシャックは、戦争も済み、僕が、名古屋大学工学部電気学科を卒業し、昭和28年(1953年)に東京大学生産技術研究所へ転勤するまで、僕を育ててくれた大恩人でした。
* 大学生時代は別として、中学校と旧制高等学校での授業には、僕は興味が沸かず、このシャックでの工作にのめり込んで行ったのです。僕は工作を始めると、直ぐに「われを忘れ、精神集中した」ようでした。精神集中だけではありません。根気が培われ、種種の失敗が不撓不屈の精神を養ってくれ、部品や工具の不足が創意工夫を育て、更にそれ等が融合して、僕には「物の声」が聞こえるようになったのです。特に中学校での、受験準備としての学びは、苦しく、いやいやするので、楽しくないですし、知識は得られるものの、創造性に必要な「智慧」の発動がないのです。差し障りがあるかと思いますが、満93歳になった今でも、学校教育は本当の教育をしてはいないと熟慮しているのです。大づかみに言えば学校教育は、人間が生きて行くのに不可欠な「主体性」を養ってはくれないのです。それが不登校を出した根本理由だと考えられます。しかし有り難いことに、僕はこのシャックのお陰で「主体性」という宝を身に付けることができました。
ですからこのシャックは僕の大恩人で、図1の写真は、最も大切なもので、今でも書斎の机の前に飾ってあります。
僕の工作への、この、のめり込みを示す例として、ドリルをお目に掛けましょう。図3をご覧下さい。長短2本のドリルがあり、長い方は、ここ10年くらい使っているもので太さはφ4.2mm、短い方が終戦直後から使い込んできたもので、φ4.0mmです。この右側のドリルは75年間働いてくれたものです。左側のとくらべて、短くなっているのは、研いでは使い、研いでは使い、を繰り返したからです。


図3 使い込み、短くなったドリル(右)

例えば図1のシャック左部分に、オッシロスコープが見えますが、そのパネルは、住友金属に山積みになっていた零戦のための廃材から拾い出して貰ってきたものであり、シャーシーはB29の空爆の時、油脂焼夷弾を束ねた鉄板(六角形の数本の焼夷弾が束ねてあり、落下する途中ではじける構造になっていた)を、焼け跡から拾ってきたもの、またブラウン管は日本軍の放出品ですが、そのブラウン管の画像面が見える様にするには、パネルに直径10cm程の大きな穴を開けなければなりません。それには、今日ならばサークルカッターという工具があり、それをボール盤かフライス盤に取付け、最低回転数で回しながらするのが普通ですが、当時はそんなものはなく、手回しハンドドリルのチャックにφ4.0のドリルを取付けて、何十個もの小穴を開けてから、ニッパーとヤスリで中部を切り落とし、更に別のヤスリで仕上げた訳です。シャーシーに真空管用の穴を開けるのも同様でした。これはほんの一例に過ぎませんが、殆どの大きな穴は、このようにして開けたのです。ドリルの刃先は、このように酷使すれば、当然痛んで切れが悪化しますから、研ぎながら使うので、遂にそのドリルは、図3の右側にあるように短くなってしまった訳です。考えてみれば、この作業は簡単なことではありません。これが若しも「主体性」なしで、上からの命令でやらされていたとすれば、労働問題の火種になったでしょうが、好きで、のめり込んでやっているので、楽しいのでした。多少、仏教を学んでからは、このような苦労を伴った主体性のある楽しみこそが本物で、苦労のない楽しみは享楽にすぎず、堕落だという確信を持つことができるようになりました。ここで、簡単に「主体性」について説明しておきます。
「主体性がある」とは、やさしく言えば、「やらされている」という気持がない状態です。たとえ命令でやらされていることでも、逆転の発想をして、「自ら進んでやっている」という気持に転換するのです。これは、人間が生きて行く上で、一番基本になることで、誰しも、自分が生まれたくて生まれてきたのではありませんし、生きて行くのも大変なことですし、とはいえ自殺するのにも抵抗がありますから、殆どの人々は、この板挟みになりながら生涯を終えるのです。完全な「主体性」は、この矛盾を解くもので、ひとたびそれを身に付ければ、一切の行為は「遊び」に転換でき、遊ぶように仕事ができるのです。
ついでに、一寸脱線した話をさせて下さい。ドリルの刃先の研ぎ方は、穴開け作業中に切りくずが左右に2本出るように研ぐのは難しいです。熟練していないと片方に1本しか切りくずは出て来ません。この事は、趣味でやっている内はどうでも良いのでしょうが、金稼ぎの工場では大問題なのです。本田技研工業では、切りくず1本では能率が半分に落ちるので、非常にやかましく管理され、すべて、切りくずが左右に2本対称に出るようになっていました。
話を戻します。ネットの「わが掘っ立て小屋」に書いたように、その後僕は故障したラジオ受信器の修理や、頼まれて作った電気蓄音機など、100台以上を、シャックで手がけたと思います。僕はこのような技術だけでなく哲学的に物事を掘り下げて考えることも楽しんでいましたので、河田光浩君と言う東大の文学部美学科で音楽美学を勉強している友人を持っていました。彼は卒業後、今の「日本テレビ」の前身会社に就職し、後にはクラシック音楽の録音技術では頭角を現した男ですが、彼からAMP制作を依頼されたのです。その時僕は「この男ならば、AMPの良さも分かってくれる」と思い、損得などは度 外視し、またAMP自体の作り方も従来のには捕われず、大げさに言えば、全身全霊を傾けて作ったのです。それが図4と図5でした。シャーシーはアルミでなく、銅板にメッキを掛け、スピーカーには戦後初めて現れたマシュルームベルという名のツイーターまで着け、パネルはアルミ板に黒塗装して業者に頼んで焼き付け、文字はそれ専門の彫刻業者へ発注するなど、できる限りのことはやったのです。例えば、図4の左側のメーターは、当時はまだ電力事情が悪く、100Vが90Vに落ちるなど茶飯事でしたから、その電源電圧を監視するためのもので、そのメーター左側のつまみは、電源電圧切り替え用なのです。その甲斐あって、心に響く素晴らしい音のAMPが出来、河田君も「これ以上言うことなし」と、満足してくれました。

図4 河田君のAMP 外見

図5 河田君のAMP 裏側

前記のように、昭和28年秋には、東京大学生産技術研究所への転勤話が持ち上がってきましたので、この河田君のAMP制作が、僕のシャックでの最後の仕事になったのです。今振り返ってみると、このシャックでの毎日は、楽しい夢でした。そしてこの夢は、僕の心に焼き付いて、今なお鮮明に当時の記憶がよみがえって来るのです。
話は飛んで、それから50年。僕が東京工業大学を停年退官して15年ほど経ってから、この夢を再び見たいという欲求がつのって来たのです。死ぬまでにもう一度、ぜひこの楽しさだけは味わっておきたいと。

3.人事を尽くして天命を待つ

3.1 直接動機

その頃には、僕は東京は目黒区に家を建て、僕の寝室には下記図6のような工作コーナーを持っていました。そこには中型旋盤があり、工作台の上には小型旋盤もありました。共に、フライス盤としても使うことが出来たものです。この中型旋盤は停年の時、後輩たちが記念に贈ってくれたものです。ご覧になるとお分かりのように、図1のシャックは電子的だったのに対して、この工作コーナーは、機械めいています。
それは世の中がディジタル時代に入ってからは、電子ものはホビーの役を果たさなくなってしまったからです。僕を魅了した、あのほんのりと赤く光る真空管は姿を消し、すべてはブラックボックス化され、中身が見えなくなってしまった寂しさには、計り知れないものがありました。


図6 わが工作コーナー

それは、肉親が、たとえ側に居たとしても、黒い箱に入れられ、声は聞こえはするが、顔を見ることができないような気持でした。僕の心底からは、何れこのディジタルは、われわれ人間の精神に悪影響を及ぼすかも知れないという危惧が払拭できなかったのです。果たせるかなネット上では、やれウイルスだ、やれスパムだと、恐れられるようになってしまったではありませんか。また、新型コロナウイルスで外出を控えるようになってからはゲーム依存症が若者に広がったと聞いています。力(ハタラキ)の強いものは、善として作用すれば大きな利便をもたらしますが、ひとたび悪として作用すると大変なことになるのです。ネットはその適例のひとつです。これはアナログ時代には見られなかった現象ではないでしょうか。先にドリルの写真の所で、「僕は物の声が聞こえる」ということを書きましたが、ディジタルものからの声は「ちゃち」なのです。煎じ詰めれば、その作者が「ちゃち」だ、ということです。
これはディジタルが出現してから、気付いたことですが、ディジタルものと握手しても、手の握りしめ方が頼りないのです。ところがアナログものとの握手は、手をギュッと締めてくれたんだ、ということが分かりました。すなわち「神の声」が聞こえていたのです。別の表現をすれば、バーチャルリアリティー(Virtual reality)と現物との違いです。
それで僕は、2002年に、「死ぬまでに、この本物の声を是非もう一度聞きたい」との念願を抱いたのです。これが、損得・効率・時間などは問題にせず、心ゆくまで手間暇かけて、可能な限り上等のオーディオAMPを作ろうと思い立った原因だったのです。

3.2 機械も動員して徹底的に

これがわが人生最後のAMP制作だと思うと、当然やれるだけのことは、やっておきたいと言う姿勢になります。それで、下記の様な基本姿勢を立てました。
(A)先ず、本物を作る前に、「習作」AMPを作って、長く空白になっていた腕前を挽回してから、本物を制作する。
(B)肝心な部分の部品は、最高級のもの(放送局が使っているもの)を使う。
(C)音声電流が流れるリード線は、メッキした銅線にビニール被覆をしたものでなく、銀の単線にエンパイヤチューブを被せたものを使う。
(D)真空管の(陰極部)ヒータ-は、可能な限り直流点火とする。
(E)「1点アース」を徹底させる。
(F)迷容量(Stray capacity)が極力小さくなる配線をする。また、たとえ迷容量が存在しても、それが邪魔をしないような工夫をする。
(G)配線には半田付を使うが、付ける両者は直に接触させ、余計な熱起電力が生じないように、半田を介さずに電流が流れるように気を配る。(図7参照)
(H)機械的にも頑丈なものを作る。

3.3 簡単な説明

これについて、簡単な説明をすれば、
(A)については、音質については3極管よりは劣るが、小型で高能率のパワー管(スピーカーを駆動する最終段階の真空管)6V6GTが幸運にも2本入手できたので、それを活かす意味もあり、また昔には考慮していなかった下記の(E)~(H)も試してみたかったから、ということもあったのです。この習作6V6PPAMPの配線図も300BAMPの配線図と共に添付しておきます。なおPPとはプッシュ・プルの略記です。このPPは、トランジスター回路でも使われています。
(B)に関しては、一番気になるのは、いわゆる「ガリガリ・ボリューム」です。AMPが古くなると、音量調節のつまみを回した時に、ガリガリと雑音を発生するようになります。あの現象は、ボリュームコントロール用の可変抵抗器が安物の場合に、発生しますので、そう言った問題外のことを避けるためです。
(C)については、理論的裏付けがあるわけではありませんが、オーディオマニアの間では、「AMPからスピーカーへの導線を、ホースの中に水銀を入れたものを使ってみたら、明らかに音が良くなった」という、半分迷信的なことが言われた時期があったのです。それ以来、秋葉原のオーディオ専門店では、銅の結晶が一方向に揃った銅線を売り出すようになりました。僕は金属の専門家ではありませんが、銀を使えばこの辺のことは安全らしいのです。
(D)に関しては、僕は、AMPの入力に近い真空管を交流点火したために、ハム(ブーンという雑音)に苦しめられたことが少なくなかったので、今回はそのハムを皆無にしたかったからです。配線図を詳しくご覧頂けばお分かりになると思いますが、出力管300Bのドライバーに使ってある1/2・6AU7だけは、電気的位置と使用目的から、ハムの問題はないので、交流点火にしてあります。
(E)の、「1点アース」は、電子技術者の腕が問われる重要問題です。
機械の図面と違って、電気ものには、((F)に書いた「迷容量」はその一例)図面に書き切れないL・C・R(L:インダクタンス=コイル、C:キャパシタンス=コンデンサー、R:レジスタンス=抵抗)が存在し、その図面に書き切れないLCRが見えることが電気・電子技術者の資格なのです。例えば「」と言って、モーターや変圧器などでは鉄心から外へ漏れ出た磁場があり、また、それ等は負荷に応じて変化しますが、「それが絵に描いたように見えなければ駄目だ」と言われながら、僕らは大学教育を受けてきました。
「1点アース」はこの図面に書き切れない抵抗の悪影響を避ける唯一の手段なのです。
300BAMP配線図をご覧になると、その中に幾つかのアース記号(短い横線に斜線3本)がありますが、「この記号はシャーシーに接続せよ」という意味です。だからと言って、機械的に接続が楽な点でシャーシーに接続すると、たとえシャーシーがアルミニウムという電気抵抗の少ない材質で出来ていても、そのシャーシー上のA点とB点の間には、何がしかの、mΩかμΩレベルの電気抵抗は存在します。すると、自分が行った配線が、たとえ配線図の通りであったとしても、実体はそれとは異なったものが出来上っていることになります。そのために結果は期待通りではなくなってしまい、ひどい場合には、増幅器を作ったら発振したとか、発振器をつくったが発振しない、などということが珍しくありません。
(F)についても同じ事で、上記(E)の図面に書き切れない抵抗が、コンデンサーになっただけです。絶縁物を介して2つの導体が存在すれば、必ず電気容量が出来上ります。この電気容量は図示できませんので、(Stray capacity)と言います。AMPでは百本以上もの配線をしますから、その中は迷容量だらけで、この迷容量を介してAMPの出力が入力にフィードバックされるので、下手に増幅度の高いAMPを作ると発振器になってしまうのです。それを防ぐために「シールド()」ということをするのですが、うっかりシールドすると、高音域(周波数の高い音域)が増幅されず、モヤモヤの音というか、明瞭度・分離度の悪いAMPが出来てしまうのです。
これは電源トランスからの漏洩磁束や、入力側のマイクトランスなどについても同様で、電源トランスは出来る限り漏洩磁束を出さないもの(鉄心とコイルとを外巻きにする銅板を取付けた工夫が施されているものが良い)を選び、マイクトランスは、シャーシーへの取付け方向を、電源トランスの漏洩磁束を拾わない向きに取付けることが大切です。
(G)については、図7をご参照下さい。
端子板に付けてある端子(ラグと言う)には抵抗やコンデンサーを半田付するための穴(図7で青色部分)があります。図の上半分はその平面図で、下半分は側面図です。
この図は、良くない半田付を示しています。ラグからリード線までを金属素材の観点から見た場合、銅-半田(主成分は錫)-銅となっています。つまり異種の金属が触れ合った状態になっているのです。異種の金属が触れ合って閉回路を構成すると、2点間の温度差に応じた「熱起電力」が発生します(ゼーベック効果)。ラグの穴くらいでそんなことは生じないと言ってしまえば、話は終りですが、別に費用が掛かる訳でなく、可能な限りのことをしようと意気込んでのことなので、リード線は直にラグの銅部分に接触させて、つまり穴の側面にピッタリと付着させて半田付をすれば、余計な熱起電力は発生しませんから、その分、安全側なのです。


図7 小穴の半田付にも注

(H)については、こういう体験がありました。高増幅度のAMPを作った時、初段の増幅真空管を指先ではじくと、スピーカーから「カンカン」という音がした経験がありました。真空管の電極が揺れたためです。機械的にも頑丈なものを作るというのは、その様なことを防ぐという意味です。そのためには、秋葉原のシャーシー屋で売っておるような弱々しいシャーシーでなく、側面は、厚さ12mmの、切削性能の良い5052というアルミ材を、東京工業大学現職中に知り合った機械工具店へ発注し、フライスで仕上げて自作したのです。

4.結果の成績

上記のような徹底した姿勢で、2002年9月5日に習作の設計に着手し、それを同年11月4日に完成させ、本物の方は、ほぼ1年後の2003年9月14日に完成させることが出来ました。
本物の方の要点は、
(1)出力管は、音質が柔らかいとの定評のある3極管で、「300B」というのがあり、チェッコや中国でも模造品が作られていますが、本物は米国のWestern Electric 社製で、秋葉原では(ステレオ用に)2本の特性が揃ったものは、16万円という高値が付いており、僕の手は出せなかったのですが、幸い、大分合同新聞社の(当時の)社長がオーディオマニアで、その社長にねだったら、Western 製の300B2本を貰うことが出来、有り難い限りでした。他の真空管は2千円くらいで、秋葉原の裏通りの電子古物商他で入手できました。
(2)トランス類は、NHKが使用している田村製作所製を使い、ボリュームコントローラーと、音声電流が流れる抵抗器は、東京光音電波の製品を、またチューブラコンデンサーで大事な場所のは、銀箔を手巻きした自作品か、アメリカ製を使いました。
(3)コネクターはすべて、キャノンプラグ(米国Cannon社が開発したXLR型オーディオコネクター)です。このコネクターは接続の時、アース(シールド)側が先に繋がる構造をしているなど、信頼性ばかりでなく、行き届いた構造をしているので、プロ用機器に使われています。去年(2019年)僕はNHKテレビに出演しましたが、その時のロケ班が携えてきた機器にも使ってありました。
(4)スピーカーは、秋葉原の専門店「テレオン」のショウウインドウに飾ってあった、TANNOYのDIMENSION-12を半値で買いました。
(5)専門的な話に踏み込んで恐縮ですが、オーケストラでドカーンと鳴る様な所では、300Bに流れる電流もインパルス的にガクンと流れるので、B電源が踏ん張り強くしっかりしていなければ、それに応じた雷が落ちたような音は出ません。それで、B電源の整流後のΠ形平滑回路の出力側のコンデンサー回りは電源部シャーシーでなく、一寸でも出力管に近く配置した方が良いので、無誘導巻をした75μFのペーパーコンデンサーを2個並列につないで、AMP部シャーシーの方へ取付けました。これは配線図にも記してあります。(ご参考:A電源=真空管の陰極を熱する電源、B電源=真空管の陽極から陰極へ流れる音声電流の電源、C電源=真空管のバイアス電圧を作る電源)。
やり過ぎとか、無駄なこととかもあるとは思いますが、このように、可能なことは全部行ったおかげでしょう、結果は上々で、ここまで性能の良いオーディオAMPを作ったのは、僕も生まれて初めてでした。
最初に掛けた曲はラベル作曲のボレロで、ご承知のように、この曲は出だしが打楽器が小さな音で刻むリズムに乗って、フルートのソロの小さな音から始まりますが、それが、雑音は皆無の、完全な静寂の中から聞こえてきた時の感動で、1年以上の細心の注意と苦労は一度に吹っ飛びました。大きな音を出すAMPを作ることはそれほど難しいことではありませんが、蚊の鳴くような音を綺麗に、忠実明瞭に出すAMPの制作は簡単ではありません。僕は満足しました。その次にベートーヴェンの田園交響曲の嵐の場面を掛けてみたら、あの落雷の音が従来のAMPの倍くらいの迫力で再生出来、平滑コンデンサーの位置までが物を言ったのが分かりました。

5.あとがき

僕はその後、このAMPでいろんな音楽を、臨場感と迫力をもって味わい、図1のシャックでの夢を思い起こしながら楽しみました。また、努力を惜しまなければ、技術は確たるものになることも復習出来たのです。
しかし、この宇宙は「動」を根本に出来上っていますから、僕の体も老化し、次第に耳が遠くなって行きました。聞こえる音域も狭まり8,000Hzは聞こえなくなったばかりか、2~300Hzが大きく響くようになったので、このAMPは満93歳の僕には無用の長物と化してしまいました。今では音楽は携帯用のCDプレーヤーにドイツ製のヘッドフォンをつないで聴いていますが、この拙文は、そんな僕がしたためたAMPの制作記事ですから、お分かり難い所もありましょうが、お読み頂けたら、望外の幸せです。
最後に、僕を育ててくれたシャックや工具類に感謝を捧げて、ワープロを閉じます。

2020年5月26日

(新型コロナウイルスによる緊急事態宣言解除の日)  森 政弘  しるす

森先生よりお送りいただいた原稿ファイルです。


 

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懐かしき真空管AMP制作 ---師としての真空管技術の思い出---” に対して1件のコメントがあります。

  1. 佐藤知己 より:

    味わいのある御文章、内容で、興味深く拝読させていただきました。好きこそ物の上手なれ、とは言いますが、これほどのレベルにまで到達する方は多くはないと思います。しかも、とても謙虚。なかなか、できることではないと思います。私自身、老年に至り、自分のふがいなさに落ち込むことが多い日々ですが、自分自身はできないですけれども、こういう方の存在を知ると、こちらの心も明るくなるような気がいたします。若い世代にとっては、大きなはげみになると思います。偉大な森先生に幸あれかし、と心よりお祈りする次第です。

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