碓氷峠鉄道施設マップ |
人物 |
橋梁 |
隧道(トンネル) |
丸山変電所 |
|
|
|
|
鉄道車両 |
横川機関区検修庫
工作機械 |
線路
ラックレール |
横川火力発電所
横川火力発電所沈砂池 |
|
|
|
|
熊ノ平駅跡
(熊ノ平信号所) |
熊ノ平変電所 |
横川機関区給水タンク
沈砂池 |
横川駅
旧・跨線橋 |
|
|
|
|
丸山信号所
待避線 |
高圧送電線
(三相交流6600V) |
軽井沢駅構内
給水煉瓦サイロ |
煉瓦刻印 |
|
|
|
|
矢ヶ崎変電所
(矢ヶ崎信号所) |
流油パイプ
(パイプライン) |
碍子 |
|
|
|
|
|
碓日嶺鉄道碑
アプト式開通の碑
復元模造碑「碓日嶺鉄道碑」 |
招魂碑 |
熊ノ平殉難碑 |
刻苦七十年碑 |
|
|
|
|
|
横川駅舎 |
(旧)軽井沢駅舎 |
|
|
|
|
|
碓氷線に関するおもな基本史料
・渡邊信四郎「碓氷嶺鉄道建築略歴」 帝国鉄道協会会報 第9巻5号 1908(明治41)年 PP.465-539
・内田録雄「鉄道工事設計参考図面」共益商社書店 1897(明治30)年
※京都大学工学部土木系図書室所蔵 碓氷線の橋梁、隧道、停車場、機関車等の図面
・Pownall,C.A.W.:"Usui Toge.Surveys
for the Inclines on the Abt System"
1890(明治23)年
※虫明博之「碓氷峠アプト式鉄道建設に伴う英人ポーナルの報告書について」 天理参考館報 第5号 1992年 PP.131-156
・Pownall,C.A.W.:"The Usui Mountain
in Railway,Japan"Processdings of the
Institution of Civil Engineers,Vol.CXX,1895,PP.43-53
・吉川三次郎「碓氷鉄道線路概況」 工学会誌 第115号 1891(明治41)年
・吉川三次郎「アプト式鉄道」 工学会誌 第143号 1893(明治26)年 PP.587-638
PP.639-649
・Elektrifizierung der Usui-Toge-Bahn(Japan),AEGZEITUNG,Nr.8,Feb.1914
S.8-12 Nr.9,Marz 1914,S.10-15
・「碓氷線橋梁図面 1912(大正元)〜1920(大正9)年 東日本旅客鉄道株式会社高崎支社工務部施設課所蔵
・鉄道院東部鉄道管理局編「信越線碓氷電化工事概要」鉄道院東部鉄道管理局 1912(明治45)年
・平井喜久松「碓氷あぶと式軌道改造案及ビ改造実験ニ就キテ」 土木学会誌 第5巻第1号 1919(大正8)年 PP.215-248
・田邊朔郎編「明治工業史 鉄道編」 1930(昭和5)年
・「日本鉄道請負業史 明治篇」 1944(昭和19)年
・財団法人 文化財建造物保存技術協会
「重要文化財 碓氷峠鉄道施設 変電所(旧丸山変電所)2棟 保存修理工事報告書」松井田町 2002(平成14)年
※旧丸山変電所をはじめ、橋梁、隧道等の史料や図面を網羅
・ユネスコ東アジア文化研究センター「資料 御雇外国人」小学館 1975(昭和50)年
・山田直匡「お雇い外国人 4 交通」鹿島研究所出版会 1968(昭和43)年 |
おもな文献資料等
・八木富雄「碓氷線物語」あさお社
・高崎財務事務所地域振興室・松井田町「信越本線横川駅周辺鉄道文化財調査報告書」1990(平成2)年
・高崎財務事務所地域振興室「碓氷峠に残る鉄道文化財〜峠路に残る鉄道文化を訪ねて」
・中村勝実「碓氷アプト鉄道」櫟(株) 1988(昭和63)年
・松井田町教育委員会「碓氷線煉瓦造構造物を訪ねて〜重要文化財・碓氷峠ガイドブック」1997年
・アプト式写真集編集会(国鉄高崎鉄道管理局横川機関区内)「阿武止氏機関車」1983年
・JR東日本横川運転区「車轍66.7パーミル」1987年
・JR東日本横川運転区「碓氷線(横川・軽井沢間)の歴史とEF63形電気機関車の概要」1987年
・「さよなら碓氷線」あかぎ出版 1997年 ※写真集
・浦野護「碓氷線アプトの道」あかぎ出版 1998年 ※昭和21年に撮影された碓氷線の航空写真など
・日本国有鉄道「日本国有鉄道百年写真史」(財)交通協力会 昭和47年
・(財)観光資源保護財団(日本ナショナルトラスト)「鉄道文化財調査報告」(観光資源調査報告Vol.13)1985(昭和60)年
・萩原進「碓氷峠」有峰書店
・小林収「碓氷峠の歴史物語」櫟(株) 1997(平成9)年
・文化庁歴史的建造物調査研究会編著「建物の見方・しらべ方〜近代土木遺産の保存と活用」ぎょうせい 1998(平成10)年
・(財)碓氷峠交流記念財団「甦る碓氷線 鉄路が峠を越えた〜峠の鉄路を支えた人々 1〜4」2000(平成12)年〜2003(平成15)年
・JR東日本高崎支社「開業120周年 高崎線物語」2003(平成15)年
・小野田滋「鉄道構造物探見〜トンネル、橋梁の見方・調べ方」(JTBキャンブックス) JTB 2003(平成15)年
・「さようなら碓氷峠の鉄道」展 交通博物館 1998(平成9)年9月23日〜11月24日
・清水昇「碓氷峠を越えたアプト式鉄道 66.7‰への挑戦」(交通新聞社新書076)交通新聞社 2015年 |
産業考古学会 推薦産業遺産「碓氷アプト線遺跡(推薦遺産番号3号)」 追跡調査報告 追跡調査票
|
YouTube ->
・特急「あさま」軽井沢〜横川 車窓(デッキ)1996年11月22日
・碓氷線(信越本線 横川〜軽井沢 間)を通過する列車 1996年11月4日
・碓氷線(信越本線 横川〜軽井沢 間) 1997年9月27日 刎石山から撮影
・アプト式電気機関車 ED42 1 復活運転(碓氷峠電化75周年記念 1987年10月18日撮影)
・JR 横川運転区 一般公開 EF63解体展示 1987年10月18日
・信越本線 軽井沢駅構内の側線で待機するEF63(碓氷峠専用補助機関車)1996年11月3日
・信越本線 横川駅構内の側線で待機するEF63(碓氷峠専用補助機関車)1997年9月21日
・碓氷線(ありがとう さようなら 碓氷線 1893-1997)1997年9月23日
・碓氷線(信越本線 横川〜軽井沢 間)を通過する列車 廃止3日前
手を振る機関士
・碓氷線(ありがとう さようなら 碓氷線 1893-1997)廃止3日前
丸山〜1号トンネル付近 1997年9月28日
・碓氷線(信越本線 横川〜軽井沢 間)を通過する列車 廃止3日前 旧
横川鉄道官舎 付近
・1997年9月30日 信越本線 横川〜軽井沢 廃止前夜 最終列車
・信越本線横川〜軽井沢間 専用補助機関車EF63が碓氷峠を去る日(廃車回送 EF62 牽引)1997年10月8〜9日 撮影 |
信越本線 碓氷峠(碓氷線)
明治政府による東京−京都間の幹線鉄道計画は、東海道と中山道の2つのルートで比較検討された。1870(明治3)年6月、土木司員の小野友五郎、佐藤政養(与之助)は東海道ルートの視察によって、在来の運送手段(東海道沿岸には東京−神戸間の蒸気船など舟運が機能していた)や内陸の地域開発の観点から中山道に幹線鉄道を計画すべきであるとして1871(明治4)年1月に「東海道筋巡覧書」で報告した。これをうけて政府は1871(明治4)年3月、小野友五郎、山下省三らに中山道を踏査させ、さらに1874(明治7)年5月と1875(明治8)年9月にはイギリス人の鉄道局建築師長R.V.ボイル(Richard
Vicars Boyle)が、京都から高崎までを中山道に沿って往復4ヶ月半で実地調査を進め、1876(明治9)年4月に測量上告書、9月に調査上告書を提出した。しかし、緊迫した国内外情勢による軍事費支出等の増加による建設資金不足のため幹線建設計画は停滞することになった。
1883(明治16)年になって中山道鉄道の敷設が決まり、11月に技師の本間英一郎とともに高崎−横川間の鉄道工事に責任者として派遣されていた技師の南清が1884(明治17)年3月から入山村と和美峠を結ぶ道路に沿って測量を行い平面図と縦断面図を作成し、この図面を基に技手の武笠江太郎が1884(明治17)年11月まで高低測量を行った。そして、政府は「中山道鉄道公債証書条例」(七分債公債2千万円の発行)を1883(明治16)年12月に公布し、建設に向け準備が進んだ。
南清らの測量による調査は、1885(明治18)年3月に鉄道局長官に報告された。さらに、1886(明治19)年4月から5月にかけて技師の南清、小川資源によって実地中心線選定測量が行われ、横川−軽井沢間について25〜100パーミルの勾配路線である入山線(ループ線)、入山線(スイッチバック線)、和美線(ケーブル線)、獅子岩線、オヤン沢線が比較検討された。その一方で、鉄道局長官の井上勝は、技師の南清に命じて、3ヶ月にわたる東海道幹線の測量を行った。
1884(明治17)年5月1日、日本鉄道株式会社により上野−高崎間が開通し、さらに1884(明治19)年10月20日に、官設の中山道幹線の区間の一部として高崎−横川間が起工し、1885(明治18)年10月15日に開通した。
ところが、中山道幹線の建設計画が具体的になると、中部山岳地帯および碓氷峠を通過することが予想外に難工事であり、1886(明治19)年7月19日閣令第24号で、幹線鉄道計画は中山道から東海道にルートが変更されることが決定した。中山道幹線鉄道の建設資材を輸送するための路線として計画された直江津−上田間の直江津線は、幹線ルートが東海道に変更された後は、中部横断鉄道として工事が進められた。そして鉄道局長野出張所に派遣された本間英一郎技師が直江津−軽井沢間全線の工事の指揮を行い、1885(明治18)年3月起工、1888(明治21)年12月1日に開通した。こうして東京−京都間の幹線鉄道計画にかわって、太平洋側と日本海側を結ぶ、本州を横断するルートとしての役割を担い、碓氷峠越えの鉄道建設が再び計画されることになった。そこで、鉄道局は1889(明治22)年6月に建築師長のパウネル(Charles
Assheton Whately Pownall)を派遣し現地の踏査が行われ、7月から12月にかけて測量が実施された。その間の9月には調査報告が提出されている。
また、当時ドイツに留学中の鉄道局技師、仙石貢と吉川三次郎が、1885(明治18)年に開通した、ドイツのハルツ山鉄道に採用されていたアプト式(アプト式区間7km、勾配60パーミル)の紹介や、元建築師長で、1877(明治10)年に大阪停車場内に「工技生養成所」を開設して、日本人技術者の養成に尽力し、1881(明治14)年4月に解雇され、その後は在英の顧問技師を委嘱されていたシャービントン(Thomas
R. Shervinton)が、アプト式鉄道を横川−軽井沢間に採用するように推薦したこともあって、これまでの測量と調査をふまえて、入山線、和美線、中尾線の三路線が比較検討されることとなり、1890(明治23)年に再び測量が行われた。1890(明治23)年9月にアプト式を用いて和美線とすることが決定し、10月から測量を開始したが、建設費用等の理由から11月になって鉄道局長官の井上勝は本間英一郎技師に中尾線の詳細な測量と調査を命じ、1891(明治24)年1月に、鉄道局技師の松本荘一郎、本間栄一郎、建築師長C.A.W.パウネル(C.A.W.Pownall)らが和美線、入山線、中尾線を再び測量して比較検討した結果、1891(明治24)年2月4日に中尾線を本線として66.7パーミルの勾配をアプト式を採用して建設することに決定した。横川−軽井沢間の建設工事には、イギリス人の鉄道局建築師長C.A.W.パウネル(C.A.W.Pownall)と本間英一郎技師が統轄し、横川−熊ノ平間は吉川三次郎技師、熊ノ平−軽井沢間は渡辺信四郎技師がそれぞれ担当し、技手の井上清介、佐藤吉三郎、林通友が工事を助けた。横川−軽井沢間約11.5kmに隧道(トンネル)26、橋梁18(疎水橋等を除く)が建設されることになり、1891(明治24)年3月に軽井沢から起工し、6月には全線が着工された。そして25ヶ月間の建設工事を経て1893(明治26)年4月1日に開通した。建設費は199万1710円218銭(碓氷線建設に伴う直江津線改築費1万2735円194銭を含む)であった。建設資材(煉瓦、セメント、川砂、切石、松丸太、杉丸太、アプト式軌条など)の運搬は、1888(明治21)年9月に開通し、すでに営業運転を行っていた碓氷馬車鉄道(横川−軽井沢間、軌間500mm、東京馬車鉄道に次いで日本で2番目の鉄道馬車会社)や、新たに軽便軌条を敷設したり、19号と26号隧道の工事にはロープで運搬できるようにするインクラインのための斜面を建設している。
隧道や橋梁は、施工中に工事現場の状況や工事の進捗状況、1891(明治24)年10月28日に濃尾大地震が発生したことから耐震性を考慮して設計の修正が行われている。たとえば、碓氷峠の中間地点にあたり、蒸気機関車の給水や単線での列車のすれ違いを行うために設置された熊ノ平の停車場の一部は、設計段階では隧道(トンネル)であったが、転轍器を隧道内に設置することを避けることと、列車が停車した時に蒸気機関車からの煤煙を避けるため隧道を切り取った。熊ノ平は開通して13年後の1906(明治39)年10月1日に熊ノ平駅として開業した。また、第7号隧道や第25号隧道は工事期間の短縮のため、それぞれ2つの隧道に分けたり、第21号隧道の横坑や第5号と第6号隧道は頂坑(竣工後の煤煙の排出も兼ねる)を設けて隧道の中間地点から掘削できるようにした。隧道の大きさも、アプト式機関車を運転するためには、従来の型式では小さいため、高さ4.8m(15.2cm拡張)、幅4.8m(30cm拡張)の新しい型式の隧道が設定された。第1号〜第7号および第25号〜第26号隧道は直轄工事(鹿島組、有馬組)、その他の隧道工事は、第8号〜第14号隧道は佐藤成教(工部大学土木科卒業の工学士で、埼玉県技師、海軍技師、明治工業会社、その後独立して請負業を営む。太田六郎に次いで工学士が業界に進出した2番目の人物)、第15号〜第20号は日本土木会社、第21号〜第24号は近松松次郎(近松組)が請負者となり工事を行った。また碓氷線工事には切取盛土の土木工事が大規模に行われ、間知石空積による土留石垣がつくられている。
橋梁は、アプト式のラックレールを鋼製枕木に固定して敷設するため、枕木全体を支持できる道床のある路盤の構造が必要であるため、沼地に建設された第18号橋梁(矢ヶ崎)を除き、碓氷線の17の橋梁すべて煉瓦造アーチ橋で、鉄道局建築師長C.A.W.パウネル(C.A.W.Pownall)、技師の古川晴一と本間英一郎が設計を行った。
隧道(トンネル)や橋梁等の建設に使われた煉瓦は、日本煉瓦製造会社(現在の埼玉県深谷市上敷免)が1891(明治24)年2月に1250万個を受注し、1892(明治25)年まで納入されており、軽井沢の塩沢などでも煉瓦の焼成が行われ、専用線が敷設され工事現場へ運ばれていた。さらに埼玉県の川口、長野県の小諸、長野からも供給されたという。碓氷線の建設に使われた煉瓦は1800万個と記録されている。セメントは浅野セメント株式会社(1872(明治5)年に設置された大蔵省土木寮のセメント工場が工部省深川製作寮出張所と改称し、1883(明治16)年に浅野セメント株式会社となる。日本最初のセメント工場で、現在の東京都江東区清澄)などの製品が使用された。川砂は神流川、碓氷川、千曲川、犀川から運ばれている。(建設に使用されたセメントは1万7500樽、川砂1万2021?、切石3651?、松丸太約3万本、杉丸太約3万本)アプト式軌条材料一式は、ドイツのアプト商会に発注され、1892(明治25)年に横浜港へ到着している。隧道は明治25年末までに竣工し、11月から軌道敷設が着手された。丸山信号所と矢ヶ崎信号所に設置された連動機は鉄道局神戸工場で製作された特殊な型式のものが使われていた。
建設工事に技師として従事し、1908(明治41)年に「帝国鉄道協会会報」に「碓氷嶺鉄道建築略歴」の報告した渡辺信四郎によると、碓氷線の建設工事に伴う犠牲者は、1892(明治25)年の梅雨時期の大雨による土砂崩れで工夫の宿舎が埋まり、その家族数名が死傷したのを含め、火薬の爆発で飛散した石片に不注意から接触したり、少量の土砂に埋められる事故、負傷がもとで病気になった工夫を合わせて約20名と報告されている。
アプト式蒸気機関車3900形(機関車の形式番号は1909(明治42)年10月1日に整理され、3900形は改称後のもの)はドイツ(エスリンゲン(Esslingen)機械製造所)から輸入し、1892(明治25)年12月に横浜港へ到着、新橋工場で組み立てられたのち、横川へ回送された。試運転は鉄道庁新橋汽車課汽車監督フランシス・ヘンリー・トレビシック (Francis
Henry Trevithick)、職工長ジョン・(マクドナルド)グレイ(John
(Mcdonald)Gray)らによって1893(明治26)年2月から3月にかけて行われ、初めは失敗したものの、試運転を重ね、1列車で60〜70tの牽引が可能であることが確かめられた。当時の横川駅−軽井沢駅の運転時間は75〜80分であった。その後、アプト式蒸気機関車は、イギリスからベイヤー・ピーコック製の3920形、3950形が輸入され、さらに国産の大阪汽車製造合資会社製3980形が導入された。しかし、最高速度9.6km/h、1日24往復、1列車10両(客車)が限度であったために、輸送力の面で飽和状態となった。このような状況を示すものとして、1906(明治39)年5月〜1914(大正3)年10月まで、軽井沢−横川間で碓氷線に沿って敷設された流油鉄管による石油(新潟で産出)の輸送が行われていた。こうした輸送力の飽和状態を改善するため、最高速度19.2km/h、1列車15両連結が可能で、トンネルの多い碓氷線での蒸気機関車による煤煙対策や、機関車乗務員の窒息事故が相次いだことにより、安全性等の面から電気機関車の導入が計画された。ところが、当時の日本の電気技術の水準や、発電所建設の費用の面から決定が遅れ、1910(明治43)年になってから着工された。横川火力発電所(石炭火力発電所、出力3000kW)を新設し、ボイラー8基で出力1000kWの蒸気タービン直結発電機3基によって、3相交流6600V、25Hzで発電し、地中ケーブルによって丸山変電所および矢ケ崎変電所で直流650Vに降圧して給電した。建設計画の初めの段階では、碓氷線の中間地点にあたる熊ノ平に変電所を設置することが給電には望ましかったが、山間地のため適当な平坦地が得られなかったため、碓氷線の両端の丸山と矢ヶ崎の2か所に変電所を設置することになった。こうして碓氷線は1912(明治45)年5月、日本初の幹線電化区間となった。
日本で営業用としては初めての電気機関車となった10000(EC40)形電気機関車はドイツのエスリンゲン(Esslingen)機械製造所およびアルゲマイネ(AEG:Allgemeine
Elektrizitaets Gesellschaft)社から購入された。初めは旅客列車に電気機関車、貨物列車は蒸気機関車が使用されていた。輸入した機関車を参考に国産の機関車を設計・製造することが繰り返され、ED40形(鉄道省大宮工場、現在は鉄道博物館に保存展示)、ED41形(スイス・ブランボベリ機関車製造会社)、ED42形(日立、芝浦、三菱、川崎、東洋、東芝、汽車会社、現在は碓氷峠鉄道文化むらに動態保存、軽井沢町立西部小学校に静態保存)が順次使用されていった。こうして幹線鉄道として電化されたものの、ED42形機関車を1列車に4両用いても碓氷峠では約49分かかり、1日に66本の列車を通すことが限界で、1960年代はじめには、再び輸送力が飽和状態に達してていた。1956(昭和31)年に国鉄高崎鉄道管理局は「碓氷白書」で碓氷線の改善について報告し、これを受けて国鉄関東支社は勾配25パーミルの新線建設案を提示した。国鉄本社は25パーミルの路線を建設した場合25.2kmで建設費42億円、工期は単線でも約3年となり、碓氷線を複線化して粘着運転方式を採用した場合、11.2kmで建設費20億円、工期は1.5年とした。建設費や工期の面から、碓氷線を複線化し、アプト式に変わって粘着運転方式を採用することが決定された。粘着運転が可能な高性能電気機関車を開発し、ルートも上り線(降り)を新線とし、下り線(登り)はアプト線のルートを一部変更して複線化するため、1961(昭和36)年に着工された。1963(昭和38)年にアプト式は廃止されアプト線で使われていた隧道の一部を改修して1966(昭和41)年に複線化工事が完成した。急勾配区間のため、270kg(平坦地では一般に160kg)のPC枕木が25mあたり44本敷設された。碓氷峠専用の補助機関車(補機)、EF63形電気機関車や、信越本線用本務機のEF62形電気機関車の登場によって、横川−軽井沢間の所要時間は登り(下り線)17分、降り(上り線)24分と大幅に短縮された。さらに、1968(昭和43)年には、電気機関車と電車を協調運転させるシステムを導入し、12両編成の電車も運転できるように改良がなされ、輸送力も向上した。しかし、碓氷線の貨物輸送力は400tが限界であったため、貨物は篠ノ井線、中央本線、上越線経由となり、1984(昭和59)年2月に貨物列車が廃止された。さらに、長野新幹線の開通によって1997(平成9)年9月30日に信越本線・横川駅−軽井沢駅間(碓氷線)は廃止された。
アプト式鉄道時代に使用されていた橋梁、隧道(トンネル)、電気機関車、ラックレール、変電所や記念碑等が、現在も数多く残されており、当時の面影を今に伝えている。復元された旧丸山変電所や碓氷第三橋梁等のアプト線時代の煉瓦造アーチ橋は1993(平成5)年8月17日に国の重要文化財に指定され、1994(平成6)年にはアプト線時代の隧道(トンネル)も国の重要文化財に追加指定され、信越本線の「碓氷峠鉄道施設」は、旧横川機関区(横川運転区)の施設を活用した「碓氷峠鉄道文化むら」(碓氷峠交流記念財団)や群馬県安中市、長野県北佐久郡軽井沢町などによって保存と活用が進められている。2007(平成19)年1月には文化庁が「富岡製糸場と絹産業遺産群」(「碓氷峠鉄道施設」はこの遺産群を構成している)を世界遺産国内候補に選定し、ユネスコ世界遺産暫定一覧表に追加記載された。
こうした歴史をもつ「碓氷峠鉄道施設」は、日本の産業技術史における産業遺産として、重要な価値を持っている。
この原稿は、大木利治「急勾配に挑んだ軌跡〜信越本線碓氷峠アプト式鉄道跡〜」
(『技術と教育』第215号 技術教育研究会 1990年7月)を加筆・修正したものです。
|