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エドモンド・モレル Edmund Morel 1841-1871 イギリス

 1841(天保12)年11月、イギリスのピカデリー・ノッチングビルで生まれる。
 初代の鉄道兼電信建築師長として1870年4月1日にネルソン・レイ(イギリス公使ハリー・S・パークスの推薦による)に雇用され、セイロン島の鉄道建設を完了した後に来日した。ネルソン・レイが日本政府に解任された後に、モレルはお雇い外国人技師として日本政府に雇用され、新橋〜横浜間の鉄道建設に従事した。モレルは、ダイアック(John Diack イギリス人)、イングランド(John England イギリス人)、小野友五郎らを指揮して汐留付近から測量を開始するなど、新橋〜横浜間の鉄道事業はモレルの監督によって着手された。結核が悪化し、微熱がつづくなかでも工事現場を巡視するなど、鉄道建設に尽力したが、転地療養が許可された矢先の1871(明治4)年9月23日病歿(29歳)、モレルの看病に尽くした夫人(日本人)も後を追うようにして結核で病歿、横浜外人墓地に埋葬された。。



ボイル Richard Vicars Boyle イギリス

 初代・建築師長エドモンド・モレルの後任として招聘された、お雇い外国人技師。明治5年9月に来日。2代目・建築師長として神戸に在勤し、京都〜神戸間の建築工事を指導する一方で、1874(明治7)年5月と1875(明治8)年9月に中山道幹線鉄道の踏査を行った。1877(明治10)年2月、京都〜神戸間の鉄道開通により解任、帰国した。


シャービントン Thomas R. Shervinton イギリス

 1873(明治6)年10月8日に建築師として雇用され、12月5日に横浜に到着。鉄道建設のために京都以東の測量に従事、さらに京都〜敦賀間の測量にも従事した。1875(明治8)年8月、建築副役シェパード(Charles Shepherd)の病歿により、その後任として新橋〜横浜間の工事を監督。1877(明治10)年2月からボイル(Richard Vicars Boyle)の後任として建築師長に就任、京都〜神戸間の工事を主管した。1877(明治10)年、大阪停車場内に「工技生養成所」を開設して、日本人技術者の養成に尽力した。1881(明治14)年4月に解雇。帰国後も日本の鉄道顧問を委嘱され、横川〜軽井沢間にアプト式鉄道が採用されたのは、シャービントンの推薦によるものであった。


パウネル Charles Assheton Whately Pownall イギリス

 建築師長ホルサム(Edmund Gregory Holtham イギリス人、1873(明治6)年〜1882(明治15)年まで在職)の後任として、1882(明治15)年3月15日から建築師長となり、神戸に在勤し橋梁の設計などに従事、シャービントンの帰国後は、ほとんどの橋梁設計を担当した。碓氷線の橋梁もパウネルの設計による。1889(明治22)年、東海道線の全線開通とともに東京へ転勤。1896年に辞職し帰国。1896年7月1日から3年間にわたって、日本の鉄道在英全権顧問を委嘱された。


山縣有朋


佐々木高行


井上勝


小野友五郎 

 幕末に、海軍長崎伝習所でライケン(Pels Rijcken ,1810-1889 )らのもとで伝習生となる。
 1870(明治3)年、民部省・大蔵省に「鉄道掛」が設置され、小野友五郎らは、土木司として配属され、日本人技師として、お雇い外国人技師の指揮のもとで草創期の鉄道建設を支えた。モレルの指揮のもと、新橋〜横浜間の建設に従事し、測量を行う。1870(明治3)年6月、小野友五郎は佐藤政養とともに、幹線鉄道計画のルートとして候補に上がった東海道と中山道の2つのルートについて調査を依頼され、明治4年1月に復命書「東海道筋巡覧書」で、中山道幹線計画の必要性をまとめた。この報告書の作成にあたっては、小野、佐藤らは東海道を視察しただけで、実際には中山道を視察していなかったが、蒸気船の便があるなど比較的便利な東海道ルートに比べて、不便な中山道ルートこそ、その必要性があるとした。明治4年3月、中山道ルートの具体的な調査を山下省三とともに行った。



佐藤政養(さとう まさよし)

 1821(文政4)年、山形県生まれ。1869(明治2)年、工部省に入り、1870(明治3)年、小野友五郎とともに東海道幹線の踏査にあたる。1871(明治4)年、京都に設置された「鉄道掛出張所」の責任者となり、京都〜敦賀間の測量を行った。1876(明治9)年5月退官。1877(明治10)年8月病歿(56歳)。佐藤政養の文書、地図は鉄道記念物となっている。


山下省三

 中山道幹線計画の必要性を述べた、小野友五郎の「東海道筋巡覧書」にもとづき、明治4年3月、中山道ルートの具体的な調査を小野友五郎とともに行った。



南清

 1856(安政3)年福島県生まれ。1869(明治2)年、開成学校、福沢塾で学ぶ。1872(明治5)年に測量司技術見習生として工部省に入り、1873(明治6)年に工部大学校へ入学。工部大学校卒業後、1879(明治12)年にイギリスのグラスゴー大学への留学を命じられる。1883(明治16)年に帰国、工部省御用掛となり、中山道幹線の高崎〜横川間の建設に従事する。1886(明治19)年に東海道幹線への変更とともに、沼津〜天竜川間の工事に従事。1890(明治23)年5月、山陽鉄道会社の技師長に就任。1891(明治24)年、筑豊鉄道会社の技術顧問。1893(明治26)〜1894(明治27)年には播但鉄道会社の技術長を兼任。1896(明治29)年、山陽鉄道会社顧問技師、阪鶴鉄道会社の総務顧問ののち社長となる。徳島、中越、七尾、唐津、阪神電気、北海道鉄道などの技術顧問を兼任した。1904(明治37)年1月病歿、49歳。



本間英一郎
 1853(嘉永6)年、福岡生まれ。1867(慶応3)年、マサチューセッツ工科大学で学び、1874(明治7)年に帰国して、海軍省、京都府に勤務したのち、1880(明治13)年2月に鉄道局に入る。1881(明治14)年に敦賀線の工事を担当し、1886(明治19)年に直江津線工事のために関山に在勤して、1887(明治20)年には長野出張所長として長野〜軽井沢間の工事を担当。1891(明治24)年、横川出張所長として碓氷線の工事を担当し、1893(明治26)年、碓氷線アプト式鉄道開通後、鉄道庁青森出張所兼福島出張所長に着任した。1894(明治27)年退官。昭和2年9月病歿(74歳)。


武笠江太郎


小川資源


井上清介


佐藤古三郎


林通友


傭林強一郎


仙石貢


吉川三次郎


渡邊信四郎



松本荘一郎

 1848(嘉永元)年岐阜県生まれ。1870(明治3)年米国留学、1876(明治9)年に帰国して東京府の御用掛となり、1878(明治11)年8月から開拓使御用掛として北海道の鉱山・土木・鉄道の開発にあたる。1882(明治15)年2月の開拓使廃止とともに、工部省御用掛となり、1884(明治17)年から1885(明治18)年にわたって、中山道幹線と直江津線の調査にあたる。1893(明治26)年3月、鉄道庁長官に就任。1903(明治36)年3月19日歿、56歳。


近松松次郎(近松組)


太田六郎

 工部大学土木科卒業、工学士。1884(明治17)年、島根県土木課から鉄道局へ転じる。当時の鉄道局は工部大学校出身者に不公平であるとして、「日本土木会社」に入るが、まもなく退社した。弟の中野欽九郎とともに1889(明治22)年に請負業を始めた。工学士が業界に進出した最初の人物となった。誠実な委託工事を行うことを信念とした。1889(明治22)年8月に横須賀鎮守府、1891(明治24)年からは碓氷線の工事を請け負った


佐藤成教

 工部大学土木科卒業、工学士。埼玉県技師として橋梁工事で手腕が認められ、のちに海軍技師となって呉軍港の創設に尽力した。1889(明治22)年に辞職して「明治工業会社」に入社し、山陽鉄道の工事を行う。1890(明治23)年に「船坂隧道」の竣工を契機として退社し、のちに独立して請負業を営む。太田六郎に次いで工学士が業界に進出した2番目の人物となった。1891(明治24)年からは碓氷線の工事を請け負った


小松正一

 碓氷線の建設に必要な木材の供給を請け負った。


斉藤利貞(現業社)



毛利重輔



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