鹿島組
招魂碑
鹿島組 招魂碑
龍集明治二十五年春三月二日
兵庫県加古郡草谷村
魚住八十松
外五百名
明業舎 願人 魚住政吉
碓氷線の工事にかかわるといわれている鹿島組の招魂碑です。この碑には「鹿島組 招魂碑 龍集明治二十五年春三月二日 兵庫県加古郡草谷村 魚住八十松 外五百名 明業舎 願人 魚住政吉」と刻まれているのみで、詳細は不明です。
碓氷線の工事にかかわる犠牲者の記録は残っていないといわれますが、全く無いというわけではありません。1891(明治24)年、横川出張所長として碓氷線の工事を担当した本間英一郎の助手として吉川三次郎とともに碓氷線の施工監督を行った渡邊信四郎が、1908(明治41)年にまとめた<渡邊信四郎「碓氷嶺鉄道建築略歴」 帝国鉄道協会会報 第9巻5号 1908(明治41)年 PP.465-539>には、次のような記録が残っています。
「・・・工事中二十五年四五月ノ頃ハ大雨降リ続キ国道ニハ山涯崩落シテ工夫小屋等ヲ潰シ其ノ家族数名ノ死傷セシモノアリタレドモ隧道等ニハ大害ヲ及ボサズ多少ノ死傷ナキニアラザリシモ其ハ坑夫ノ不注意ヨリ爆発ノ石片ニ触レ或ハ少量ノ土砂ニ埋メラレタルモノニシテ其他負傷等ヨリ余病ヲ惹起シタル者ヲ合セ約二十名ニ過ギザルベシ・・・」(前掲書p.534)
この招魂碑の碑文を根拠にして、碓氷線の建設工事の犠牲者が500名と述べられている場合がほとんどですが、この数字の違いをどのように解釈したらよいのでしょうか。また、工事に地元の人が従事せず、遠方の兵庫県から来ているということについて、あまりの難工事に地元の人たちが恐れをなしたといわれることがありますが、これはあまり正しい見方ではないと考えられます。当時、鉄道建設の実際の工事に従事した工夫たちは、経験が必要であり、「逢坂山隧道」では銀山や銅山の坑夫を動員しています。また、草創期の鉄道建設でトンネル工事を行ったのは、京都〜大阪間や京都〜大津間など関西地方であって、そのため熟練した工夫たちがそののちも全国のトンネル工事に派遣されていきました。鉄道建設を請け負える業者は限られていた時代でした。
碓氷線の建設工事以前にも当時としては長大トンネルの建設が行われていました。たとえば1878(明治11)年11月着工、1880(明治13)年 6月竣工した「逢坂山隧道」は全長664m、1880(明治13)年着工、1883(明治16)年竣工の日本人技術者による2番目のトンネルである「柳ヶ瀬隧道」は全長1352mありましたが犠牲者はありませんでした。「琵琶湖疎水」の「第1トンネル」は全長2436mに及びます。琵琶湖疎水では工事全体での殉職者は17名でした。碓氷線はトンネルの総延長が約4450mありますが、一番長いものでも第26号隧道の432.5mです。
多くの犠牲者を出した1918(大正7)年着工、1934(昭和9)年竣工の「旧・丹那トンネル」(全長7900m)工事では、67人が犠牲になりました。トンネル1kmあたりに換算すると実に8.5人となります。この工事では、実際にはトンネル崩壊などで犠牲になったのは35名で、その他の犠牲者は作業中の不注意や過失であったということです。また全長7900mという長大トンネルであったことと、地質が非常に悪かったということが原因と考えられています。碓氷線のトンネル工事で、もし犠牲者が500人であったとすると、トンネル1kmあたりに換算して9人ということになります。これは橋梁工事を含めて考えても突出した犠牲者の数といえます。
また、当時流行したコレラについて考えてみる必要もあります。日本でのコレラは、1822(文政5)年に西日本を中心として流行し、その後日本全国に拡大し、1858(安政5)年、1877(明治10)年、1879(明治12)年(死者約10.5万人)、1882(明治15)年(死者約2.5万人)、1886(明治19)年(死者約11万人)、1891(明治24)年(死者約4万人)、1895(明治28)年(死者約4.5万人)と流行を繰り返しています。
鹿島組・招魂碑は「明治25年3月2日」に建立されたと碑文にあります。碓氷線の工事は、1891(明治24)年着工、1893(明治26)年に竣工しています。トンネル工事は1892(明治25)年末に竣工したことを考えると、工事中に招魂碑が建立されたことの意味をどのように考えたらよいのでしょうか。また、碓氷線の工事には鹿島組の他に、有馬組、日本土木会社、佐藤成教や近松松太郎の会社が請け負っていますが、鹿島組の招魂碑だけが残っているわけです。鹿島組は有馬組とともに鉄道庁の直轄工事部分に工夫を派遣していました。
数多くの疑問を残しながら「招魂碑」は現在も線路を見下ろす位置に静かに立っています。