産業技術遺産探訪 2003.12.14.

野蒜築港

土木学会選奨土木遺産

宮城県桃生郡鳴瀬町、矢本町、宮城県石巻市

日本で初めての近代港湾計画


土木学会選奨土木遺産

 東北地方の開発のために、明治政府は宮城県桃生郡野蒜村(現在の宮城県桃生郡鳴瀬町)を拠点とした近代的な港湾計画と、運河による交通網の整備を計画しました。石巻湾に注ぐ鳴瀬川の河口に内港をつくり小型船舶の繋留地とし、野蒜と宮戸島の間の入江を外港とする大型船舶の停泊地を設ける計画でした。また、北上川から内港へ通じる運河と、内港から松島湾へ通じる運河をつくり、阿武隈川とも結ぶことによって、野蒜港を拠点とした東北地方の岩手県、宮城県、福島県、山形県を経済圏としてまとめようとする構想でした。
 この築港計画のために、1876(明治9)年9月、お雇い外国人技術者(内務省雇長工師)ファン・ドールン(C.J.van Doorn)によって調査が開始されました。1877(明治10)年2月 ファン・ドールンは、野蒜が港湾に適地であることを内務省へ報告し、1878(明治11)年5月に野蒜築港第一期工事の関連として「北上運河」建設が決定し、蛇田村高屋敷(現在の石巻市)に「土木局出張所」が開設されました。この「北上運河」は、鳴瀬川河口の内港と北上川(現在の旧北上川)を結ぶ運河で、1878(明治11)年6月に開削工事が始まりました。1878(明治11)年10月には、北上川分疎(閘門)の起工式が行われ、土木局長の石井省一郎にちなんで「石井閘門」と命名されました。1879(明治12)年7月、野蒜内港が着工し、突堤工事がオランダ式工法(粗朶沈床工)によって着手されました。海底に敷いた「粗朶沈床」に石を積み上げていくオランダ式工法による突堤工事は急深な海底の地形と荒波のために非常に難航し、初期の計画を縮小して3年以上かかり1882(明治15)年10月に竣工しました。内港に鳴瀬川からの土砂が堆積するのを防ぐため、1879(明治12)年11月に新鳴瀬川の開削工事を着工し、鳴瀬川、新鳴瀬川、北上運河に囲まれた湿地は埋め立てられて市街地(現在の鳴瀬町浜市桶場)として造成されました。1881(明治14)年10月「北上運河」12.8kmが完成し、1882(明治15)年8月には小蒸気船「米沢丸」が石巻−野蒜−塩釜間に就航しました。
 1883(明治16)年3月には内港と松島湾を結ぶ「東名運河」の開削工事が着工し、1884(明治17)年2月に「東名運河」3.6kmが竣工しました。
 第一期工事が落成してまもない1884(明治17)年9月、台風の襲来で東突堤の1/3が崩壊し内港が閉鎖されてしまいました。1884(明治17)年11月、野蒜内港の被害を調査した雇工師ムルデル(A.T.L.R.Mulder)らは、外港の築港がなければ内港は使えず、さらに外港の建設には数百万円(当時)の予算が必要であることを報告し、この報告をもとにして第二期工事の予算も計上されることなく野蒜築港計画は中止が決定しました。
 こうして野蒜港を拠点とした近代的な築港計画は挫折せざるを得ない結果になりましたが、日本初の近代港湾計画や現在も使われている運河・閘門など当時の近代的な土木技術を示す貴重な土木遺産がほぼ当時の状態をとどめて保存されています。

西突堤跡、東突堤跡 (竣工時には西突堤80m、東突堤150m)
・東名運河
北上運河
新鳴瀬川煉瓦造橋台(3ヶ所)
野蒜築港市街地跡
黒沢敬徳紀功之碑、工事用石製ローラー
野蒜測候所跡・・・東北地方初の測候所

石井閘門(1880(明治13)年竣工)・・・国指定重要文化財(宮城県石巻市水押3丁目6)
北上川運河交流館水の洞窟

     


野蒜築港・北上運河の歴史
1875(明治 8)年 8月 東北6県の県令が意見書を提出
1876(明治 9)年 6月 明治天皇の東北巡幸に伴い、大久保利通内務卿、石井省一郎土木局長らが現地入り
1876(明治 9)年 9月 大久保利通の命により、お雇い外国人技術者(内務省雇長工師)ファン・ドールン(C.J.van Doorn)が現地の調査を行う。
1877(明治10)年 2月 ファン・ドールン技師、野蒜が港湾に適地と報告
1878(明治11)年 5月 野蒜築港第一期工事の関連として「北上運河」建設が決定
                 蛇田村高屋敷(現在の石巻市)に「土木局出張所」開設
                 大久保利通、暗殺される。
1878(明治11)年 6月 「北上運河」開削着工
1878(明治11)年10月 北上川分疎(閘門)起工式、「石井閘門」と命名
1879(明治12)年 7月 野蒜内港着工、突堤工事に着手
1879(明治12)年11月 新鳴瀬川開削着工(明治15年12月竣工)
1880(明治13)年 2月 ファン・ドールン雇用任期切れで帰国
1880(明治13)年 7月 「石井閘門」完成、北上川低水工事着工(明治35年竣工)
1880(明治13)年11月 鳴瀬川潜堰、船溜工事着工
1881(明治14)年 1月 「北上運河」通船式
1881(明治14)年 7月 「野蒜電信分局」開設、「内務省野蒜測候所」観測開始
1881(明治14)年 8月 新鳴瀬川渡り初め式
                 天皇代巡として有栖川宮、伊藤博文、大隈重信ら視察
1881(明治14)年 9月 報知新聞記者 原敬 野蒜築港を取材
1881(明治14)年10月 「北上運河」12.8km完成
1882(明治15)年 8月 小蒸気船「米沢丸」が石巻−野蒜−塩釜間に就航
1882(明治15)年10月 野蒜内港突堤落成式、山田顕義内務卿臨席
1883(明治16)年 3月 「東名運河」着工
1883(明治16)年11月 浜市市街地の分譲を開始する。
1884(明治17)年 2月 「東名運河」3.6km竣工
1884(明治17)年 9月 台風襲来で東突堤が崩壊し内港閉鎖
1884(明治17)年11月 野蒜内港の被害を調査した雇工師ムルデルらは、外港の築港がなければ内港は使えず、さらに外港の建設には数百万円(当時)の予算が必要であることを報告(第二期工事の予算が計上されず野蒜築港計画は中止が決定した)
1887(明治20)年 8月 「野蒜測候所」が宮城県に移管し、石巻に移転
1902(明治35)年    北上川低水工事竣工
1907(明治40)年 4月 定川大曲に閘門新設
1910(明治43)年 8月 鳴瀬川洪水により野蒜船溜閘門が流出する。



JR仙石線・陸前小野駅付近の国道45号線には、
「野蒜築港跡」(日本初の近代港湾計画の跡)
の表示がありました。


(資料)

お雇いオランダ人技術者とかかわりのある明治時代の土木事業

(関連)

・坂井港(三国港)築港

安積疎水

利根運河

琵琶湖疎水


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