産業技術遺産探訪 2003.12.26.

利根運河 

千葉県流山市・柏市・野田市

1890(明治23)年竣工、お雇い外国人技術者ムルデルの指導による全長8.5kmの運河

・国土交通省江戸川河川事務所運河出張所 利根運河交流館(千葉県流山市)
※利根運河、お雇い外国人技師ムルデルほか明治期のオランダ人土木技術者に関する資料展示


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ムルデルの碑

A.T.L.Rouwenhorst Mulder

A・T・L・ローウェンホルスト・ムルデル(1848−1901)は、オランダのライデンに生まれた。土木技師となり、来日したのは明治12年(1879)ムルデルが31歳の時であった。それからおよそ11年間、ムルデルは日本政府のお雇い外国人技師として利根川、江戸川、鬼怒川の改修や新潟港、三角港の建設計画等にあたった。明治23年(1890)に完成した利根運河は、わが国土木史上、屈指の大事業で、ムルデルが日本で手がけた最後の仕事であった。

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この碑は昭和59年(1984)4月8碑、流山市民が中心となって結成したムルデル顕彰碑建立実行委員会によって建立され、流山市に寄贈されたものである。
1985年4月28日


ムルデル碑
明治のはじめ、日本はオランダから優れた土木技術をもつ技術者や工手を招き、各地で調査や近代的な工事を進めていました。ローウエンホルスト・ムルデルも、そうした技師のひとりとして明治12年に初来日し、各地での工事に携わりました。明治21年から運河の設計・工事監督として工期の2年間、深井の民家に宿泊して指導に当たりましたが、明治23年2月末の通水後、6月の開通式を待たず任期満了のためオランダへ帰国しました。その功績をたたえ、昭和60年、流山博物館友の会を中心とする有志が顕彰の碑を建てました。


一級河川

利根運河
山縣有朋書

国土交通省


LOVE RIVER
運河水辺公園
流山市

流山市西深井368-1地先
平成8年10月〜
38129m2

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建設省が利根運河を”ラブリバー”に認定
住民と行政が一帯となって河川を整備する「ラブリバー制度」の平成2年度適用地域が、平成2年7月17日、建設省から発表され、利根運河を含む全国の39河川がラブリバー地域の認定を受けた。ラブリバー制度は、住民に河川への親しみを持ってもらうことや、潤いのある水辺空間をつくることなどを目的に、平成元年度からスタートしたもので、住民が清掃活動などを積極的にすすめている河川が対象となる。認定を受けると河川管理者(国土交通省)は、市町村や河川愛護団体などが策定した計画を支援するため、河川敷を整地したり、張芝、草刈、植樹、立木伐採などを行うことになる。今回、利根運河がラブリバー制度の適用地域となったのは、清辺北岸自治会(疋田光一会長・185世帯)が、運河水辺公園の安全点検や清掃、芝草刈りなどの施設管理を行ってきたことや、市が建設省(当時)と共同で利根運河の景観整備事業をすすめていることが認められたもの。この認定により、今後さらに市民と行政による良好な水辺空間づくりが期待される。なお、平成2年7月24日には、都内で「ラブリバー認定式」が行われ、近藤徹建設省河川局長から秋元市長に、これまでの河川愛護活動に対して感謝状が手渡された。


運河公園
利根運河は昭和16年にその役目を終え、翌17年には政府に売却されました。すぐに堤防の拡幅やかさ上げを行い、利根川口はふさがれてしまいました。その後35年を経て、野田暫定導水事業として、運河に再び水が流されます。昭和50年のことでした。その10年後、昭和62年に、東武野田線「運河駅」からすぐそばの運河畔が水辺公園として整備され、以来桜並木と共に人々の集いの場となっています。


利根運河解説板

利根運河のいわれ
徳川家康が江戸に入府して最初に手がけた事業は利根川、江戸川の大改修であった。この2つの河川は、関宿を分水点として銚子と江戸へ流れを変えたので航路として重視された。この川筋の町々は、物資の集散地として一躍脚光をあびるようになった。江戸末期になると利根川中流の野田〜関宿間に中洲ができたため、柏から流山の間は陸送となり、ここに運河を開削する気運が芽生えていった。治になると、運河開削の運動は具体化し、茨城県会の廣瀬誠一郎と茨城県令(知事)人見寧の2人が中心となって活躍した。時の政府や千葉県庁にも強い要請が行われ、政府はオランダ人技師ムルデルを派遣して運河の設計にあたらせた。明治21年5月、事業は様式を公募して民間事業の方法で工事が始まった。工費57万円(当時)、実に220万人の労働者を動員して、明治23年6月全工区が竣工した。ムルデルは西深井の民家を宿舎として全工事を監督したという。総延長8km余、河底幅18m、平均水深は、1.6mであった。利根運河が完成すると水運は益々活発になり、ピークには、年間3700余隻、1日平均103隻もの船がここを利用した。しかし、大正の頃になると運輸の花形は貨車輸送となり栄華をきわめた利根運河は、時の流れにとり残されていった。昭和16年の大洪水によって運河は国に買収され、治水及び利水上重要な役割を果たしながら、四季折々に豊で静かなたたずまいを見せている。その栄光の歴史は明治41年河口に建てられた1基の石碑が教えてくれた。利根運河のあゆみを振り返り、後世にその”あかし”を伝える為この石碑は昭和56年3月、運河橋のたもとに移された。その後、利根運河が大公園として見直され風光明媚な公園として整備されいま、その景勝を楽しむと共に、運河の歴史をより多くの人に知ってもらうため、石碑をこの地に移設し解説板を設置した。
昭和62年3月吉日
建設省江戸川工事事務所長 小宮山克治
流山市長 秋元 吉郎


運河水位観測所
利根川水系利根運河 江戸川合流点から2.5km
一:千葉県流山市西深井
零点高:YP0.000m
観測開始:昭和52年3月

過去の最高水位 8.220m(平成11年8月15日)
問い合わせ先 国土交通省関東地方整備局江戸川工事事務所
TEL 0471(25)7318


西深井第1配水樋管展望回廊
利根川運河通水百年記念
平成3年8月竣工


利根運河交流館
利根運河は通水してから112年目(2002年3月29日現在)を迎えました。「舟運路」、「洪水分派」、「都市用水の導水路」と、時代と共にその役割を替えながら今日に至っています。今、利根運河はたくさんの生き物たちが棲み、人々が集い憩う安らぎの水辺になっています。利根運河交流館は、「利根運河」の歴史、自然、文化、オランダ国と水工技術者等を知っていただくための、ささやかなスペースです。
国土交通省・江戸川工事事務所長


利根運河の誕生
明治23年、利根川と江戸川を結ぶ全長約8kmの運河が、人見寧、広瀬誠一郎らの設立による「利根川運河株式会社」の資本で完成。
オランダ国のA・T・L・ローウェンホルスト・ムルデル(1848−1901)一等工師の設計・監督により施工。

利根川と江戸川を結ぶ全長約8.5kmの運河(水路幅は河底で標準18m、深さ平均水位下1.6m、運河両岸の堤防内側には幅1.8mの舟曳道が設けられた)である。オランダ人ムルデルの設計により明治21年着工し、明治23年完成した。この運河の完成により船運業界は黄金時代を迎えたが、鉄道の発達により、その使命は終わった。


徳川家康が江戸に入府して最初に手がけた事業は利根川、江戸川の大改修であった。この2つの河川は、関宿を分水点として銚子と江戸へ流れを変えたので航路として重視された。(江戸湾の入口にあたる野島崎沖の危険な航路を避けた安全な内陸水路)この川筋の町々は、物資の集散地として一躍脚光をあびるようになった。東北地方の米などの物資は銚子で高瀬舟に積みかえられ、このルートで江戸に入った。銚子を経由した米の最も多かったのは天明年間(1781〜1789)で、年平均8万7000俵にものぼったという。
江戸末期になると利根川中流の鬼怒川との合流点である野田と関宿の間に浅瀬が現れ始め、中洲ができたため、船の航行が著しく妨げられて、柏から流山の間は陸送となり、ここに利根川と江戸川との間に掘り割り(運河)を開削し、航路を短縮できたらという気運が芽生えていった。

いよいよ工事がはじまった。のべ200万人もの人たちが、川を掘り進めた。
現場監督にあたったムルデルが腕を振るった。
政府との間で取り決めた工期は約2年で、工事がはじまったのは、1881(明治21)年5月。工事は3つの工区にわけてすすめられました。1つめは江戸川口から西深井までの1.2km、2つめは西深井から三ヶ尾までの2.4km、そして3つめはさらに利根川までの4.3kmです。運河の設計にあたったムルデルは、現場監督として腕を振るいました。ムルデルは内務省土木局の「お雇い工師」でしたが、この運河は国家的事業だ
ったため、その資格のまま工事にあたることができたのです。このほかにも、運河会社は国からかなりの援助を受けました。そして、工事にかかる費用は、当時のお金でおよそ40万円の予算となったのです。

それは明治21年7月のこと。
すでに工事ははじまっていましたが、明治21年7月14日には、千葉県と茨城県の知事を迎えて利根運河開削式が行われ、これには現場監督のムルデルも出席しました。こうして、工事はいよいよ本格的にすすんでいったのです。なにしろいままでにない大事業です。掘り出した土(掘削土量)は東京ドームの1つ半近くにあたる約178万立方メートルにもなり、これらの土は西深井あたりの堤防づくりに役立ったほかは、大部分が三ヶ尾沼の埋め立てなどに使われました。土を掘りぬくうえでいちばんたいへんだったのは、低い湿地に「化土(げど)」といわれる土があったことです。この「化土」は、豆腐のように軟らかく、水を多く含んだ土で、この土のために工事はますます難しいものとなりました。さらにこの工事でたいへんだったところは、運河とぶつかる「今上落し」の部分です。これは水田の余分な水や排水を集めて江戸川に流すためにつくられた水路ですが、江戸川口近く運河とぶつかるために、ここでたち切られてしまいます。そのため、この「今上落し」を運河の下にくぐらせるという工事をしなくてはならなくなりました。その長さはなんと724mにもなり、工事にはおよそ1年もかかってしまいまったのです。これらの工事の他にも、土を捨てるための買ったり借りたりしたこと、物価があがったことなどで、お金がかかり、結局、工事費用は57万円以上にまで膨れあがってしまいました。

鍬やツルハシ、モッコによるたいへんな工事でした。
このような大工事となったため、人を集めることが大切な仕事となりました。このころの茨城県や千葉県では、鉄道の工事が盛んだったので、人がとても不足していたのです。工事に従事した人夫の数は約220万人、1日平均3000人の労働力を必要とした。工事はまさに人海戦術で鍬やツルハシで堀、モッコで泥を運ぶという原始的なやり方で進められた。工事のため軽便鉄道を敷くことを政府に申し入れたが断られている。ただ工事費の内訳書に「掘削用機械5444円80銭5厘」という項目があるのである程度の機械が使われていたものと思われる。工事の中で最もムルデルを苦しめたのは「今上(いまがみ)落し」の暗渠工事であった。「今上落し」は、水田の余剰水や雑排水をここに集め、江戸川へ排水するために作られた水路で、現在の野田市の今上から始まって流山市3丁目まで延々11km続くもので、これが江戸川口近くで運河と直交するのである。このため運河の下に「今上落し」をくぐらせることになったが、この長さは724mにも及び、工事にほぼ1年を費やしたのであった。また、低湿地の掘割工事では「化土(けど)」と呼ばれる豆腐のような軟弱土に悩まされるなど、ここでも余分な金がかかり、当初40万円の予定であったものが最終的には57万円余りを費やした。利根運河の工事で働いた人の数は、のべ200万人とも220万人とも言われています。1日平均約3000人にもなります。また、働く人の数は時期によっても大きく変わりました。農家が忙しくなる時にはどうしても人が足りません。こんなことも工事を遅らせる原因となりました。しかもこの人たちは鍬やツルハシ、モッコによって、人力で工事を進めました。工事費の内訳書の中に「掘削用器械」と書いてあることから、いくらか機械は使われていたのでしょうが、ほとんど人力だけで工事が進められたと言ってよいでしょう。工事にはおよそ2年かかり、1890(明治23)年2月25日には運河に水を通しはじめ、5月10日ですべての工事を終えました。6月18日には竣工式が行われましたが、広瀬は急死、ムルデルはすでにオランダに帰る船の上であったため、式に出ることはできませんでした。


「利根運河」の役割・機能の変遷
1.「利根運河」
「利根運河」は、銚子方面から関宿を経由して東京へと荷を運ぶ舟運の航路短縮のために計画され、利根川と江戸川を結んで掘削されたもので、長さは8.4km、現在の千葉県柏市船戸から流山市深井新田まで、野田市と柏市、流山市の市境に沿うように建設された運河である。明治21年、オランダ人技師ムルデルの設計・監督のもと着工され、明治23年2月完成した。工費は57万円、工事に従事した人は約220万人、1日平均約3000人の労働力により、まさに人海戦術で進められた。それまでの銚子〜東京間(利根川の河口、千葉県銚子から遡り、従前の「関宿」、「宝珠花」を経由しての、北関東、東北、北海道の物資の輸送路)を、距離にして約40km、時間を3日から1日に短縮した。貨物として、東京から地方へは日用品、肥料などが、地方からは薪、炭、米穀などが焚かせ舟や汽船により運ばれ、明治から昭和の初期にかけて、航路として栄え、運河閉鎖までの実質48年間で総通船数は汽船と和船で約100万隻(995600隻)、37500の筏、年平均約2万763隻が航行していた。運河の東西の両口、船戸と深井新田には通航料金所があり、これを中心に運河周辺に旅人宿、回漕問屋、酒屋、菓子屋などの商店、床屋、大工、鍛冶屋などが並び、たいへんな賑わいを見せていました。

2.「派川利根川」
明治29年の洪水被害を経て、昭和16年の台風により水堰橋が損壊し、航路機能が停止し、また鉄道(総武、常磐、成田線など)や自動車などによる陸送網の発展に押されて昭和16年、52年間の使命を終えた。。昭和16年、利根川の洪水分派を目的に国が買収し管理するようになった。。昭和18年、「派川利根川」(9km)で千葉県知事告示。昭和40年、「派川利根川」(6.8km)に建設大臣が指定。

3.「流況調整河川」
利根川からの都市用水の補給を目的とする、日本では初の「流況調整河川」として「野田緊急暫定導水路」(昭和47年に着工、昭和51年に完成)の名称・機能を持った。

4.「洪水分派河川」
「野田緊急暫定導水路」と同時に着手した「流況調整河川」の、「北千葉導水事業」(都市用水の開発、水質浄化、内水排除などを目的とする)が、平成12年3月に完成したのを受けて、「派川利根川」の目的・機能は、初期の「利根川の洪水分派」(最大500t/s)の役割に戻った。

5.現在の「利根運河」
昭和60年「ムルデルの碑」が市民の手で建立される。昭和62年「運河水辺公園」開園。平成2年、利根川運河通水100周年記念の祝祭が、オランダ大使館と地元3市・産・学・民・県・建設省・関係機関ほか協賛団体により、通年で開催された。これを契機に、地元の市民の要望により、「派川利根川」から「利根運河」に政令の改正により名称が変更された。平成14年3月、運河出張所内に「利根川運河交流館」を開設。4月1日から一般公開。


1879(明治12)年 3月29日 明治政府は国土建設のために当時、土木技術で優れていたオランダ国からお雇い外国人技術者(土木工師)としてローウェンホルスト・ムルデル(A.T.L.R.Mulder)らを日本に招聘する。
1881(明治14)年 春   千葉県や茨城県を中心として、利根川と江戸川との間に、船で荷物を東京府に運搬するための掘り割り(運河)を開削し、航路を短縮できたらという気運が起こる。この運河の必要性について先頭になったのは茨城県会議員(茨城県北相馬郡)の廣瀬誠一郎で、茨城県の産業振興には水運に利する利根運河の開削が有効であると茨城県令・人見寧に開削の建議を行う。
1885(明治18)年     東京府、千葉県、茨城県の1府2県の3県令による内務大臣への上申書が提出される。
1885(明治18)年 2月25日 運河計画立案のために内務省から派遣されたムルデルは綿密に調査を行い、「利根運河計画書」を内務省土木局長に提出する。
1885(明治18)年 6月   政府のはたらきかけを受けて、茨城県と千葉県が共同して利根運河の測量と設計にあたることに合意する。その直後、茨城県令、人見寧が解任される。
1887(明治20)年 4月11日 多額な費用がかかるため政府では容易に実現しないので、民間資本による「利根運河創立協議会」を開催し社長に人見寧がなる。
1887(明治20)年11月10日 利根運河の「開削免許命令書」がおり、「利根運河株式會社」創立する。
1887(明治20)年12月 日 「利根運河株式會社」株主総会開催。社長に人見寧(茨城県令退官後)、筆頭理事に廣瀬誠一郎(茨城県会議員を辞職後)が就任。
1888(明治21)年 5月 9日 利根運河の開削に着手。3工区に分けて請負制で施工。ムルデル工師は西深井村の矢口伊之助宅の離れを宿舎として滞在し監督する。
1888(明治21)年 7月14日 利根運河開削式(江戸川口)。千葉県知事、茨城県知事、内務省土木局長、ムルデル工師等出席。
1890(明治23)年 2月25日 利根川運河通水。延長8km(利根川の船戸から江戸川の西深井まで)、底幅18.2m、水深1.6m、日本有数の運河が誕生する。
1890(明治23)年 3月25日 通船を開始して営業を始める。これまでの関宿回りより航路で38kmの短縮、日程も3日から1日に短縮された。
1890(明治23)年 5月10日 水堰橋が完成する。利根川の洪水流入防止と渇水時に利根運河の水位の堰上げを行う。 
1890(明治23)年 6月18日 利根運河竣工式(江戸川口)。山縣総理大臣、西郷内務大臣、1府2県知事等臨席盛大に祝典。ムルデルは任期切れによりオランダへ帰国中。工事費57万円(当時)、土工人夫220万人、掘削土量178万m3(東京ドームの1.5倍)、築堤土量26万m3。
1891(明治24)年 3月 日 利根運河会社が運河堤上に3040株の桜の植樹。その後、6000本ともいわれ桜の名所となる。
1891(明治24)年     最盛期、1日103隻もの舟が運河を通過する。
1893(明治26)年 月 日 水堰橋の改良工事を実施。利根運河に汽船就航。銚子〜東京間6時間短縮。
1896(明治29)年 4月 8日 旧・河川法(法律71)公布
1896(明治29)年 9月 9日 台風の大洪水により甚大な被害を受ける。利根運河は当初、江戸川から利根川へ流れていたが、この洪水により利根川の川底が堆積により上昇し、利根川から江戸川へ逆の流れとなる。
1908(明治41)年 8月 9日 利根川運河石碑を江戸川口に利根運河会社が創業20周年記念で建立する。(題額は山縣有朋、運河経歴顛末)
1913(大正 2)年 5月21日 利根川運河会社支配人が沿岸有志に呼びかけ、利根運河霊場88ヶ所の礼所の開設。
1913(大正 2)年12月 1日 運河法発布後、内務大臣が「命令書」を利根運河会社に下布する。運河位置、免許年限、敷地等。
1914(大正 3)年12月 1日 江戸川改修事務所設置。(野田町中野台地先)
1923(大正12)年 9月 1日 相模湾を震源とする関東大震災(M7.9)が発生し、堤防、護岸等に甚大な被害を受ける。復旧工事に多額の工費がかかり、大規模な工事となった。
1939(昭和14)年 4月15日 「利根運河」内務省直轄工事(旧法第8条)区域告示(延長8km)。
1941(昭和16)年 7月22日 利根川の大洪水(船戸水位8.06m)により、下三ヶ尾などで堤防決壊、水堰橋(利根川側)が破壊され、疎通不能となり運河としての機能は停止した。開通以来、約50年間の総通船数は約100万隻、年平均で約2万隻であり、和船(高瀬船、房丁船、部賀、小回船)、汽船、筏が航行し、総通行料は約170万円(当時)であった。
1941(昭和16)年12月 8日 太平洋戦争が始まる。
1941(昭和16)年12月31日 内務省は利根川の洪水を分派させる計画で利根運河株式會社を買収(約22万円(当時))し、利根運河は利根川の洪水を江戸川に分派(500m3/s)する「派川利根川」として改修する「利根川増補計画」に着手して、川幅は築提部で90m、高台の切取り部で76mとする堤防拡築、掘削、築堤、用地買収等、戦時下を含め、江戸川本川改修工事の活発化する明治27年頃まで重点的に進められたが、分派計画は埼玉県知事から「洪水時に派川利根川が江戸川にほぼ直角に合流し、埼玉県側の江戸川堤防が決壊する恐れがある」との懸念が表明されたことなどから、その後、進捗していない。特に戦時下に於いては、江戸川口の流路付替掘削工事のように戦局激化により工事中止もあった。
1942(昭和17)年 1月25日 利根運河を利根川側での仮締切工事を開始し明治18年完了(水堰橋が破壊したため)
1942(昭和17)年 2月 1日 運河出張所(運河工場)組織設置される。
1943(昭和18)年 1月22日 「派川利根川」として、千葉県告示で旧河川法適用河川(第1条、第4条1項)認定。延長9km。
1945(昭和20)年 1月 日 江戸川口に戦時下の交通手段としての船運目的のため、利根運河仮閘門工事着工し明治23年11月竣工。
1945(昭和20)年 8月15日 太平洋戦争終戦
1964(昭和39)年 7月10日 河川法公布(法律167)
1965(昭和40)年 3月24日 「派川利根川」一級河川指定調書告示(政令第43号)建設大臣指定。河川延長6.80km。直轄。
1972(昭和47)年 5月 日 都市用水の需要が切迫しており、「北千葉導水路事業」が完成するまでの措置として、利根川から江戸川に最大10m3/s(2m3/s×ポンプ5台)導水する「野田緊急前提導水路事業」に同時着手する。内訳は、東京都2.79m3/s(上水)、千葉県4.91m3/s(上水3.33m3/s・工水1.58m3/s)、埼玉県2.30m3/s(上水)と、派川利根川の浄化の導水及び洪水分派100m3/s(当分しない)である。
1973(昭和48)年 7月31日 環境基準に係わる水域類型の指定。千葉県委任告示。B類型。
1973(昭和48)年 9月 日 野田緊急前提導水路工事開始(昭和51年完成)
1974(昭和49)年 5月 日 運河出張所(野田導水路管理所)庁舎改築完成。江戸川の管理、23.65km。利根運河の管理、13.6km。 
1975(昭和50)年 3月 日 野田導水機場(地下に5台の揚水機を設置、毎秒10tの水を利根川から江戸川へ利水を目的とした導水を開始)、運河水門、野田導水路操作所、完成。(工期1年8ヶ月、総工費36億円)
1975(昭和50)年 6月28日 野田緊急暫定導水路通水式。
1976(昭和51)年 3月 日 野田緊急暫定導水路事業完成。(直轄流況調整河川)総事業費約36億円。
1961(昭和56)年 3月 日 利根運河石碑を現在地(運河水辺公園内)に移設する。
1961(昭和56)年 8月25日 洪水分派を台風15号による洪水で初めて行う。小貝川左岸竜ヶ崎市地先の堤防決壊による緊急措置。
1983(昭和58)年 3月 日 「利根川運河土地利用基本計画」を沿岸の流山市、野田市、柏市で共同策定する。堤防敷の有効利用。
1983(昭和58)年11月 日 建設省が親水公園の階段工事に着手。流山市が昭和59年度から景観環境整備事業に着手し植栽等を行う。(昭和62年完園式)
1985(昭和60)年 4月28日 オランダ人技師「ムルデルの碑」運河水辺公園でオランダ公使等を招き除幕式。地元有志により建立。
1986(昭和61)年 3月 日 「派川利根川河川環境整備計画書」を建設省、学識者、千葉県、流山市、野田市、柏市で策定。
1987(昭和62)年 5月 日 「運河水辺公園」開園式。地域住民が命名し”憩いの場”に。流山市が占有しトイレ、浮桟橋設置。
1990(平成 2)年 3月 日 「利根川水系河川環境管理基本計画」が策定され、「利根川運河遊歩公園拠点築」として位置づける。
1990(平成 2)年 3月 日 運河水辺公園内に建設省が階段護岸(座席数約500)、ステージ(320m2・YP7.9m)設置。
1990(平成 2)年 6月 8日 河川名「利根運河」とする。地域からの要望が強く、「派川利根川」から河川法に基づき名称復活。
1990(平成 2)年 6月26日 「利根運河通水100年記念式典」開催。オランダ大使、千葉県知事、河川局長代理等出席する。「利根運河の日」を6月18日とし、功労者7人2団体の表彰等。2月から12月に記念8行事を実施。
1990(平成 2)年 7月24日 利根運河が「ラブリバー制度適用河川区間」に河川局長から認定される。(この制度は平成元年度から始まり、住民と共に河川の良好な維持と潤いのある水辺空間の形成を図ることを目的とし推進する)
1991(平成 3)年 4月 日 運河水位観測所、オランダ風に改築。
1991(平成 3)年 8月 日 西深井第1樋管も同様にオランダ風に改築。直轄では初の試み。
1992(平成 4)年 5月12日 オランダ国の「NOSテレビ」がムルデルと利根運河について取材に国土交通省江戸川河川事務所を訪問。
1993(平成 5)年 2月16日 運河水辺公園内の右岸に「河川警報表示盤」を設置。(全高10.71m、時計部分は流山市の負担、音声・表示は併設)
1993(平成 5)年 8月27日 台風11号の降雨(時間最大42mm)で、河川警報盤から5m上流に法面崩壊2箇所発生。同年復旧。
1999(平成11)年 5月 1日 「歩いてみよう利根運河」刊行される。 
2000(平成12)年 3月 日 「北千葉導水路」が完成し「野田緊急暫定導水路」の役割が終了。揚水ポンプ3基を撤去、環境用水としての導水を開始。
2000(平成12)年 4月 日 日蘭交流400周年記念、利根川運河ウォーク開催
2001(平成13)年10月 日 新保國弘「水の道 サシバの道 利根運河を考える」が刊行。

(参考)「利根川運河の概要」国土交通省・江戸川工事事務所 ほか


(資料)

お雇いオランダ人技術者とかかわりのある明治時代の土木事業

(関連)

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