産業技術遺産探訪(資料)
お雇いオランダ人技術者とかかわりのある明治時代の土木事業
プロジェクト | オランダ人技術者 | 調査着手 | 工期 |
千曲川改修(長野県) | ファン・ドールン | 1872(明治5) | 1873(明治6) |
淀川改良(大阪府) (砂防工事・低水路の形成・新大阪築港) ※近代的河川工事のはじまり、 日本のリーディング・プロジェクト |
ファン・ドールン エッシャー デ・レイケ チッセン |
1872(明治5) | 1874(明治7)−1902(明治35) |
利根川改修(千葉県) | リンド エッシャー デ・レイケ ムルデル |
1873(明治6) | 1878(明治11)−1885(明治18) |
坂井(三国)港改築(福井県) ※最初の近代的河口改修 |
エッシャー デ・レイケ |
1876(明治9) | |
千代川改修に助言(鳥取県) | エッシャー | 1876(明治9) | 1879(明治12)−1882(明治15) |
野蒜築港・北上運河・東名運河(宮城県) | ファン・ドールン ムルデル |
1877(明治10) | 1877(明治10) |
江戸川改修(東京都) | ヴェステルヴィール | 1878(明治11) | |
白川流域治山砂防(群馬県) | デ・レイケ | 1878(明治11) | |
木曽川流域砂防工事(岐阜県) | デ・レイケ | 1879(明治12) | |
安積疎水(福島県) | ファン・ドールン | 1878(明治11) | 1883(明治16) |
東京・神立区に分流式下水道(東京都) | デ・レイケ | ||
石狩川改修(北海道) | ファン・ヘント | 1879(明治12) | 1884(明治17)−1889(明治22) |
八幡川砂防(群馬県) | デ・レイケ? | 1881(明治14)−1885(明治18) | |
宇品港築港(広島県) | ムルデル デ・レイケ |
1882(明治15) | 1883(明治16) |
富士川改修(静岡県) | ムルデル | 1883(明治16) | 1885(明治18)−1889(明治22) |
吉野川改修(徳島県) | デ・レイケ | 1887(明治20)−1900(明治33) | |
筑後川改修(福岡県) | デ・レイケ | 1883(明治16) | 1887(明治20)−1900(明治33) |
木曽川三川改修(愛知県) | エッシャー デ・レイケ |
1886(明治19) | 1888(明治21)−1889(明治22) |
利根運河(千葉県) | ムルデル | 1886(明治19) | 1892(明治25)−1894(明治27) |
横浜港(比較案) | デ・レイケ ムルデル |
1887(明治20) | 1891(明治24) |
常願寺川改修(富山県) | デ・レイケ ムルデル |
1890(明治23) |
オランダ人技術者の滞在期間
名前 | 来日時の役職 | 来日時の月給(円) | 雇用期間 |
ファン・ドールン C.J.van Doorn (1837-1906) |
長工師 | 500 | 1872(明治5)年2月〜途中帰国〜1880(明治13)年7月 |
リンド L.A.Lindo (1847-?) |
2等工師 | 400 | 1872(明治5)年2月〜1875(明治8)年10月 |
エッシャー G.A.Escher (1843-1939) |
1等工師 | 450 | 1873(明治6)年9月〜1878(明治11)年6月 |
D.アルンスト D.Arnst |
工手 | 100 | 1873(明治6)年9月〜1880(明治13)年12月〜 |
チッセン A.H.T.K.Thissen (1839-?) |
3等工師 | 350 | 1873(明治6)年11月〜1876(明治9)年11月 |
J.N.ヴェステルヴィール J.N.Westerwiel (1939-?) |
工手 | 100 | 1873(明治6)年11月〜1878(明治11)年11月 |
J.カリス J.Kalis |
工手 | 100 | 1875(明治8)年5月〜1877(明治10)年5月 |
シェルムペーク Schermbeek |
海軍大佐 | ? | 1875(明治8)年?〜1886(明治19)年8月 |
A.T.L.R.ミュルダー A.T.L.R.Mulder (1848-1901) |
1等工師 | 475 | 1879(明治12)年3月〜1886(明治19)年8月 1887(明治20)年6月〜1890(明治23)年5月 |
デ・レイケ Johannis de Rijke (1842-1913) |
4等工師 | 300 | 1873(明治6)年9月〜1881(明治14)年9月 1882(明治15)年6月〜1885(明治18)年4月 1885(明治18)年12月〜1901(明治34)年2月 1902(明治35)年3月〜1903(明治36)年6月帰国 上海から休暇で来日 1907(明治40)年7月〜1907(明治40)年9月 1909(明治42)年10月一時来日 |
A.ファン・マーストリヒト A.van Maastrigt |
工手 | 100 | 1879(明治12)年3月〜1881(明治14)年2月 |
ファン・ヘント J.G.van Gendt |
工師 | 800 | 1879(明治12)年3月〜1881(明治14)年2月 |
ローウェンホルスト・ムルデル A.T.L.R.Mulder | 1等工師 | 475 | 1879(明治12)年 3月29日〜 1886年、1887年オランダに一時帰国したほぼ1年を除いて、約11年日本に滞在 1890年夏、オランダに帰国。 |
(関連)
オランダ(Holland)は、ライン川、ムース川、スヘルデ川の河口に位置しています。国土のほとんどは平坦で、国名のネーデルランド(therlands)は、低地という意味です。最高地点は南東部で、標高321mです。国土の約1/2は、ゼロメートル地帯となっており、約2/3は堤防で守られている地域です。このような国土をもつオランダは土木技術が発達し、特に「低水工事(河口近くの平野部で河底の掘り下げ、堤防のかさ上げ、分水などを行い洪水を防止するための工事)」の技術が優れていました。
明治政府は、いち早く欧米列国の仲間入りを果たそうと、殖産興業に力を入れていました。しかし、過去270年間も鎖国を続けていた日本には、近代的な技術教育を受けた技術者がいなかったため、欧米から技術者を招聘することにしました。
来日した技術者はのべ127名で、英・米国が道路・橋梁の分野で101名と過半数を占め、オランダからは技術者8名、技能者4名が、河川・港湾などの分野で、1872年から1903年ころまで働きました。
明治に来日したオランダ人技術者は、各地で主に河川・砂防・港湾改修の技術指導に携わりました。
エッシャーは、広い分野のインフラ整備に関わった経験と知識を活かし、河川・港湾改修だけではなく、道路・鉄道・橋梁などの土木技術の指導に携わりました。エッシャーは、福島、山形、栃木、新潟などでトンネル、橋梁の設計も指導しました。
日本の近代的な治水工事の先駆けとなった「木曽川下流改修(木曽・長良・揖斐・三川分流工事)」は、明治20年、内務省によって着手され、明治33年にほぼ完成しました。水害の常襲地帯であった流域ではその後、洪水被害は大幅に減少しました。
デ・レイケは、淀川改修と新大阪築港、三国港改修、木曽三川改修、吉野川改修、筑後川改修などの指導に携わりました。この「明治改修」は、デ・レイケの綿密な踏査と、作成した計画に基づくものです。河道安定のためのケレップ水制、河口処理の導流堤、舟航のための船頭平閘門は現在も機能しています。オランダ人技術者のなかで、最も長く滞在し多くの仕事をしたのがデ・レイケでした。来日当初は4等工師として工事の指導に携わっていたデ・レイケですが、最後は日本の内務省土木局で事務次官相当の勅任官扱いの地位まで昇進しました。
こうしてお雇いオランダ人技術者による「低水工事」が進む一方で、日本では山岳が平野部に迫っている地形が多く、山岳部の土砂流の防止が洪水を防ぐことに重要な役割を果たしていることに日本人技術者たちは気づきはじめ、明治30年ころになると、留学や工部大学校(のちの東京帝国大学工科大学)によって日本人技術者も育ちはじめ、オランダ人技術者の指導による「低水工事」から、日本人技術者による「高水工事」に移行し、日本の土木技術が自立するようになっていきました。
明治時代に来日した外国人土木技術者
国 部門 | 学校 | 鉄道 | 河川・港湾・燈台 | 道路・橋梁・上下水道 | その他 | 計 |
イギリス | 9 | 30 | 9 | 9 | 4 | 61 |
アメリカ | 9 | 8 | − | 14 | 9 | 40 |
オランダ | − | − | 12 | − | − | 12 |
ドイツ | 1 | 5 | − | − | 1 | 7 |
フランス | − | − | 4 | − | − | 4 |
その他 | 2 | 1 | − | − | − | 3 |
計 | 21 | 44 | 25 | 23 | 14 | 127 |