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産業技術遺産探訪 2004.1.9./1.10/1.16./1.20./4.25/5.2./7.31./8.1./

旧・西毛電気株式会社
1909(明治42)年設立した群馬県内で9番目の電力会社
川久保発電所
1910(明治43)年竣工
水力発電所
群馬県碓氷郡松井田町坂本および松井田町原
高芝発電所
1911(明治44)年竣工
水力発電所
群馬県碓氷郡松井田町坂本
坂本発電所
1915(大正4)年竣工
水力発電所
群馬県碓氷郡松井田町坂本
一ノ宮変電所
東京電力・北甘変電所
国登録有形文化財
1919(大正8)年竣工
変電所
群馬県富岡市一ノ宮422番地

 

 「西毛(せいもう)電気株式会社」は群馬県碓氷郡(現在の群馬県碓氷郡松井田町と安中市)と北甘楽郡(現在の群馬県富岡市と甘楽郡下仁田町、妙義町)を電力供給区域とするこの地域最大の水力電気会社でした。
 群馬県内では、1894(明治27)年以降に電力会社が相次いで設立されましたが、「西毛電気株式会社」は群馬県内で9番目の電力会社で、早い時期に設立された電力会社の1つです。本社は碓氷郡安中町(現在の安中市)に置かれ、水力発電所は碓氷郡坂本町高芝と坂本(現在の碓氷郡松井田町坂本)の2ヶ所に設置され発電および配電を行っていました。
 養蚕農家や製糸業者の電力需用が多く、営業成績は良好でした。
 西毛(せいもう)電気株式会社が配電したのは、当時の群馬県碓氷郡全域ではなく、碓氷郡後閑村と細野村(現在の群馬県碓氷郡松井田町)は「碓氷電気」、碓氷郡九十九村(現在の群馬県碓氷郡松井田町)は「小日向(おびなた)水力電気」、碓氷郡八幡村と豊岡村(現在の群馬県高崎市)および烏淵村(現在の群馬県群馬郡倉渕村)は「烏川水力電気会社」が配電していました。


西毛電気株式会社
せいもうでんきかぶしきかいしゃ

 群馬県における営業用水力発電事業は、1894(明治27)年5月15日に「前橋電燈(株)」(群馬県前橋市)が天狗岩用水を利用した出力50kWの「植野発電所(総社発電所)」から前橋市内に電灯用の電力を供給したことに始まります。一般供給用の電力会社として、「前橋電燈(株)」は日本で5番目の水力発電会社となりました。
 1894(明治27)年5月21日には、「桐生電燈合資会社」(群馬県桐生町)が群馬県で2番目の電気事業会社として設立されました。「桐生電燈合資会社」は、「日本織物(株)」が、自家用水力発電所(出力50kW)の余剰電気を電灯用として桐生町(現在の群馬県桐生市)へ供給するために設立したもので、日本の電気事業会社としては6番目の開業となります。群馬県内では、その後、1903(明治36)年に「高崎水力電気株式会社」が設立し、翌1904(明治37)年12月1日に高崎市内へ電力を供給しはじめ、電灯や電力の利便性が周辺地域にも波及していくことになりました。1896(明治29)年までには、日本全国の電灯会社は33社となっていました。
 このような状況の中で、高崎市に隣接する安中市を中心とする地域の人たちの中にも、産業の発展のためにも電力が不可欠なものと考える気運が起こってきました。1907(明治40)、このような考えを強く抱いていた有志らが、「高崎水力電気会社」へ電力を供給してくれるように交渉しましたが、当時の「高崎水力電気会社」は規模がまだ小さく、周辺地域に供給することができませんでした。そのため有志30数名が発起人となり、水力電気会社を新設することになりました。1908(明治41)年9月17日に設立認可を得て、1909(明治42)年1月20日に安中町(現在の群馬県安中市)で創立総会を開催し、資本金10万円(当時)で「西毛電気株式会社」を設立(登記は2月2日)しました。創立当時の役員は、社長半田平四郎、専務取締役湯浅三郎、取締役金井慎三、坂本治平、櫛淵浪太郎、福澤常五郎、清水岩次郎、監査役永井善太郎、清水治郎造、大手万平、真下左門次、仁井照三でした。
 西毛電気会社は、発電所を坂本町大字原字川久保(現在の松井田町大字坂本字原)に設置することとして工事を着工するとともに、水路工事、送電線工事にも着手しました。
 1909(明治42)年12月末までに、送電線については発電所から郷原分岐点間(現在の安中市郷原)と、この郷原分岐点から富岡町(現在の富岡市)までの間に合計314本の電柱を設置しました。この時点では、松井田町および郷原分岐点から安中町の間は工事中でした。配電線の電柱は、坂本町に40、横川町11、松井田町43、磯部21、中の谷20、高田14、一の宮28、富岡77、原市27、安中75、中宿19、板鼻29本設置しました。電灯数は富岡町833灯(363戸)、安中町389灯(197戸)、その他、一の宮、板鼻、原市、中の谷、磯部、中宿を合わせて5町3村の合計は1777灯(841戸)でした。
 発電所水路の工事も1909(明治42)年11月6日に起工し、水路取水口の閘門から貯水槽までの隧道(導水路のトンネル)を除いて、全ての工事が着工しました。
 1910(明治43)年7月末までに送電線工事は、架線(電柱643本、導線は2番、4番、6番の裸銅線または被覆銅線)が終了しました。また横川町(現在の松井田町横川)については7本の増設工事を行い、供給数も富岡町824灯(394戸)をはじめとして7町4村で1145灯から2453灯に増加しました。発電所および導水路の工事は8月9日までに排水渠の一部分を除いて全て完成し、発電機、水車などの据付けを終了しました。工費は約6万円(当時)でした。
 こうして、発電・送電・配電のための施設・設備が竣工し、いよいよ事業を開始するための準備をしていましたが、7月中旬から降り続いた大雨は、8月11日に大洪水となって襲来し、発電所の堰堤、取水口、閘門、沈泥槽と水路約450mが流失または陥落し、発電所は配電盤を除いて建家や機器が全て流失してしまいました。送電線も電柱44本が付属する設備とともに流失してしまいました。これらの被害総額は約6万円(当時)で、工費とほぼ同額の損害を被りました。西毛電気株式会社では、株主に対して資本金10万円のうち、7万5000円の払込みを受けており、残額の2万5000円は事業の開始後に払い込み完納する予定で、当面の必要とする資金は借入れしていました。そのため、この水害による善後策が株主総会で検討され、その結果、会社事業を全て「高崎水力電気会社」へ売却するということに決まりました。そしていよいよ引継ぎを行う時期が近づいた時、一部の株主間で事業を継続していこうという意見が復活し、再び総会が開催され、事業の継続が決定しました。
 この事業継続の決定により、改めて新たに発電所の建設が進められました。新しい発電所は、流失した発電所(川久保発電所)の位置より約2km上流の霧積川流域である坂本町字高芝にすることとして9月に測量を開始し、12月末に測量と発電所の設計が完了して、改めて水利権を出願することとなりました。
 当時、西毛電気会社の事業による収入総額は、わずか400円余りにすぎず、一方で支出総額は6万9525円に上り、それに加えて莫大な借入金と未払金を負担しなければならない苦境に立たされていましたが、幸いにも株主らによる信頼と援助によって、事業を進めていくことができました。
 1910(明治43)年8月7日、高芝発電所に関する電気機器等の落成届を提出し、8月25日に検査が終了、9月2日に仮使用認可が出たことによって、10月1日から事業を開始しました。この時の電灯供給数は2472灯でした。
 再開された電気事業は、その年の年度末までに、坂本53、臼井79、松井田235、原市169、安中411、板鼻161、磯部69、東横野57、下高田22、一の宮77、富岡712の合計2001戸の需用があり、電灯数では3636灯に達しました。第四期年度にあたる1912(明治45)年2月15日の臨時株主会では、前期までの継続問題である水害繰越損金消却のため、その当時の資本金10万円を5万円に減資して、さらに10万円を増資するために新たな株主を募集することを協議決定して、4月に新たな株主から第1回払込、8月末には第2回の払込がありました。そのため、この期間における営業成績は、電灯の需用の大幅な増加によって、年度末までには前期末に比べて2410灯が増加し、6046灯になりました。さらに動力用としての電力供給もこの時期に開始して、18馬力の需用のほか、工事中のものも含めると20馬力に達することとなり、総収入3万3119円、総支出2万4000円弱、差引9195円の純益を得たため、繰越損金の一部を償却することができました。
 1911(明治44)年8月26日、社長の半田平次郎が病没したため、創立以来専務取締役であった湯浅三郎が後任の社長となりました。湯浅三郎は、事業拡大を図るために、第五期にあたる1913(大正2)年3月25日の臨時総会で、第2発電所の設置(坂本)と下仁田方面への拡張を提案し、7月以降に下仁田、吉田、馬山方面の工事を順次開始させました。そのため、大正2年度末までの点灯数は7002灯に上り、また動力用の電力供給も61馬力に達して、大正2年度の総収額は4万200円、支出2万400円、差引1万9700円の収益を得ることができました。そのため前期の繰越損金の全てを償却する一方で純益7770円と順調な営業を展開することができました。翌1914(大正3)年1月20日の総会では、さらに資本金を増倍して30万円とし、大正3年度には電灯総数6970灯、動力用の電力使用は105馬力に達し、1913(大正2)年4月から工事中であった第2発電所(坂本発電所)も1914(大正3)年12月までに完成して発電を開始しました。こうして碓氷郡坂本町高芝(高芝発電所)と坂本(坂本発電所)の2ヶ所に水力発電所が稼働し発電と配電を行っていくこととなったわけです。その後も養蚕農家や製糸業者からの電力需用が多く、営業成績は良好でした。しかし、2つの水力発電所だけでは、需用を満たすことができず、1920(大正9)年からは「高崎水力電気株式会社」から80kWの電力を購入して需用を賄っていました。
 こうして「西毛電気株式会社」は群馬県碓氷郡(現在の群馬県碓氷郡松井田町と安中市)と北甘楽郡(現在の群馬県富岡市と甘楽郡妙義町)にまたがるこの地域最大の水力電気会社となりました。西毛電気株式会社が配電したのは、当時の群馬県碓氷郡全域ではなく、碓氷郡後閑村と細野村(現在の群馬県碓氷郡松井田町)は「碓氷電気」、碓氷郡九十九村(現在の群馬県碓氷郡松井田町)は「小日向(おびなた)水力電気」、碓氷郡八幡村と豊岡村(現在の群馬県高崎市)および烏淵村(現在の群馬県群馬郡倉渕村)は「烏川水力電気会社」が配電していました。
 1894(明治27)年以降に群馬県内各地に電力会社が相次いで設立されましたが、西毛電気株式会社は群馬県内で9番目に電力の供給を開始した電力会社となります。
 1921(大正10)年に入ると、さらに電気事業会社の設立が相次ぎ、群馬県内では30社以上が開業されていきました。
 「西毛電気(株)」は、1923(大正12)年12月19日に、長野県内で勢力をもっていた「長野電燈(株)」に合併されて、「長野電燈(株)西毛支社」となります。「長野電燈(株)」は1937(昭和12)年12月に「信濃電気」と合併して「長野電気」と改称し、その後、1942(昭和17)年4月に「中部配電」に統合されます。1941(昭和16)年、戦時体制により電気事業会社は、「日本発送電」と「関東配電」の2社に集約されることとなり、「中部配電」に統合されていた「旧・西毛電気」の施設設備は1942(昭和17)年10月に「関東配電」に編成集約され、戦後、1951(昭和26)年には日本全国を9つの電力会社にまとめる電力事業の再編成が行われたため1951(昭和26)年5月に「東京電力(株)」に移管されました。


 日本で初めて電灯が点灯されたのは、1878(明治11)年3月25日で、工部省「工部大学校」(東京・虎ノ門)の、お雇い外国人教師エアトン(英国)がグローブ電池50個を使ったアーク灯(デュボスク式)の点灯実験によるものでした。
 1882(明治15)年11月には、設立準備中であった「東京電燈(株)」が東京・銀座2丁目で移動式発電機を使ってアーク灯を点灯させています。 この「東京電燈(株)」が、藤岡市助、矢嶋作郎(東京貯蔵銀行頭取)、大倉喜八郎(大倉組)らによって1883(明治16)年2月15日に資本金20万円で設立し、日本で初めての電気事業者となりました。「東京電燈(株)」は、はじめは移動式の発電機によって臨時灯の供給を行っていましたが、1887(明治20)年以降は火力発電所をつくり配電営業を開始しました。
 1884(明治17)年3月27日に「逓信省電信局試験所」で、日本で初めて白熱灯が点灯しました。このときは、ブンゼン電池を46個使用して点灯させています。
 日本で初めての電力供給は、1890(明治23)年11月13日、「東京電燈(株)」が東京・浅草にあった凌雲閣(12階建)に設置されたエレベーター用の7馬力モーターへ電力を供給したことに始まります。
 日本で最初の電気供給事業は、1891(明治24)年に京都府が「琵琶湖疎水」に設置した「蹴上発電所」からのもので、これは世界初の営業用水力発電事業でもあります。水力発電技術は、当時欧米でも草創期であり、明治期の日本は、技術導入を欧米での研究開発と同時進行で行われることになったわけです。

 群馬県で最も古い水力発電所は、桐生町(現在の桐生市)に工場のあった「日本織物(株)」が、1891(明治24)年11月から工場の電灯のために送電を開始した水力発電所(出力50kW、6600V)です。
 群馬県における営業用水力発電事業は、1894(明治27)年5月15日に「前橋電燈(株)」(群馬県前橋市)が天狗岩用水を利用した出力50kWの「植野発電所(総社発電所)」から前橋市内に電灯用の電力を供給したことに始まります。一般供給用の電力会社として、「前橋電燈(株)」は日本で5番目の水力発電会社となりました。

 1894(明治27)年5月21日には、「桐生電燈合資会社」(群馬県桐生町)が群馬県で2番目の電気事業会社として設立されました。「桐生電燈合資会社」は、「日本織物(株)」が、自家用水力発電所(出力50kW)の余剰電気を電灯用として桐生町(現在の群馬県桐生市)へ供給するために設立したもので、日本の電気事業会社としては6番目の開業となります。1896(明治29)年までには、日本全国の電灯会社は33社となっていました。

 群馬県では、その後、次の電気事業会社が設立されていきました。


営業開始年月日           電気事業者名     営業開始当時の電力供給地域
1904(明治37)年12月 1日 高崎水力電気(株)  高崎市
1908(明治41)年 2月21日 渡良瀬水力電気(株) 桐生町、大間々町、足利町
1908(明治41)年 8月13日 伊香保町営電気部   伊香保町
1908(明治41)年10月 7日 利根電力(株)    沼田町
1910(明治43)年 9月17日 利根発電(株)    前橋市、渋川町、伊勢崎町、境町、太田町、館林町
1910(明治43)年 9月  日 箱島水力電気(株)  高崎水力電気に卸売、吾妻郡東村箱島に供給
1911(明治44)年10月 1日 西毛電気(株)    松井田、安中、富岡など11町村
1912(明治45)年 5月 3日 吾妻温泉馬車軌道(株)中之条町


 大正時代になってまもなく、「惣社水力電気」「榛名電気(西上電気)」「川原湯電気合資」「利根軌道」「烏川水力電気」「丹生電気」「草津水力電気」「新治電気」「水上発電」「小黒川水力電気」「南牧電気」「沢入水力電気」「碓氷電気」「羽沢電気」などが設立されました。そして大正10年に入ると、さらに電気事業会社の設立が相次ぎ、30社以上が開業されました。こうして群馬県内に設立されていった電気事業会社は、1941(昭和16)年に、戦時体制により「日本発送電」と「関東配電」の2社に集約されました。さらに1951(昭和26)年には、日本全国を9つの電力会社にまとめる電力事業の再編成が行われ、群馬県内の電気事業は現在の「東京電力株式会社」に受け継がれていくことになりました。


資料


水力発電による一般供給用の電気事業会社
1.蹴上発電所(京都市営) 1891(明治24)年11月 運転開始
              1892(明治25)年事業認可 送電開始 世界初
琵琶湖疎水を利用して120馬力ペルトン水車2基、80kWエジソン式直流発電機2基で、舟運のインクライン昇降用や、付近の工場の動力用として電気を供給した。こののち、水力発電による電気事業会社が設立されていくが、当時、電気は主に電灯用として利用されたが、蹴上発電所は当初から動力用を重点とする産業振興を目的としていた。
2.箱根電燈所 1892(明治25)年
※湯本、塔之沢温泉に電気を供給
3.日光電力 1893(明治26)年10月 栃木県日光市匠町
※現在の東京電力・日光第2発電所(東京電力・鬼怒川工務所)
4.豊橋電燈(株) 明治27年4月開業
※豊橋電燈(株)は、明治26年3月設立
5.前橋電燈(株)・植野発電所 1894(明治27)年5月送電開始
6.桐生電燈合資会社 1894(明治27)年5月21日 群馬県で2番目の電気事業会社
※「桐生電燈合資会社」は、「日本織物(株)」が、自家用水力発電所(出力50kW)の余剰電気を電灯用として桐生町(現在の群馬県桐生市)へ供給するために設立したもの  
7.仙台電燈
8.浜松電燈

なお、日本で最初の水力発電(工場の電灯用として自家発電を行った発電所)は、1888(明治21)年7月1日に「宮城紡績会社」が紡績機用の水車を利用して行った水力発電です。


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