産業技術遺産探訪 2003.10.5.|2013.2.20.

旧 日本織物株式会社発電所跡および煉瓦積遺構

桐生市指定史跡 1969(昭和44)年7月17日指定
煉瓦積遺構1990(平成2)年追加指定

群馬県桐生市織姫町6-1

 群馬県で最も古い水力発電所は、群馬県桐生市に工場のあった「日本織物(株)」が、1890(明治23)年11月23日に設置した自家用水力発電所(出力50kW、6600V)です。
 1894(明治27)年5月21日には、「桐生電燈合資会社」(群馬県桐生町)が群馬県で2番目の電気事業会社として設立されました。「桐生電燈合資会社」は、「日本織物(株)」が、自家用水力発電所(出力50kW)の余剰電気を電灯用として桐生町(現在の群馬県桐生市)へ供給するために設立したもので、日本の水力発電による電気事業会社としては6番目の開業となります。


 日本織物株式会社は、1887(明治20)年12月に設立(資本金50万円・当時)され、1889(明治22)年6月に一部、1890(明治23)年10月に全面操業しました。(本社は東京にあり、桐生に工場がありました。)
 当時の機業の大半は分業による家内制手工業でしたが、日本織物株式会社は撚糸・製織・染色・整理など、洋式機械による一貫した織物生産を行い、経営方法まで近代的なものでした。大規模な工場群(明治20年代当時の工場敷地面積約6万3000平方メートル)は鋸屋根をもつ煉瓦造の建物であり、明治時代初期の洋式織物工場としては、桐生で初めてであるばかりでなく、全国的に見ても画期的なものでした。

 水力発電に利用した水は、渡良瀬川の元宿浄水場取水口から取り入れ、丸山下の岩盤を掘削し、底幅2m、上幅5m、深さ1m、延長1kmの導水路が築かれました。使用水量は毎秒3立方メートル、勾配1000分の1、落差11mであったと言われています。


発電所の水門

 発電所には二基の水力タービンが設置され、動力の一部を工場の動力源として1889(明治22)年6月に運転をはじめ、同時に、この動力を用いて発電を行い、1891(明治24)年11月から工場と寄宿舎の電灯に使われました。水力発電としては、仙台紡績会社(現在の東北電力・三居沢発電所)、下野麻紡織会社、足尾銅山・間藤発電所に次いで、日本では4番目に古いものです。(群馬県で最初の水力発電所)
 当初の水力タービンはアメリカのスタウトミルテンブル社製(168馬力)、ペルトン型スペシャル・ニューアメリカン・竪軸タービンを据え付け、1対の傘歯車とベルトによって100KW、240Vの交流発電機を運転し、1891(明治24)年11月に工場と寄宿舎に400灯の電灯を点火しました。 

 1894(明治27)年5月21日に「桐生電燈合資会社」を設立させ、同種のタービン1基を増設し、桐生町内に1000灯を点灯させましたが、10燭光の電球で5燭光くらいの明るさだったということです。「桐生電燈合資会社」は群馬県で「前橋電燈(株)」に次いで2番目、日本では6番目の水力発電による電気事業会社です。

 この2基のタービンは、1924(大正13)年にドイツのフォイト会社製320馬力のタービンと、それに直結した216KW発電機1台に取り替えられました。 



216kW発電機

 現存する発電機とタービン(320馬力)は、1924(大正13)年に取り替えられたドイツのフォイト社製のものです。この発電所は昭和22年の水害で決壊するまで58年間使用され、桐生市の近代織物産業発展の原動力となりました。 

タービン(ドイツのフォイト会社製320馬力)は、この下にあります。(通常は非公開)


 ここにある門柱状の煉瓦積遺構は桐生産の煉瓦で、水路を潜り、発電所と工場をつなぐトンネルの支えとして造られたものです。桐生総合厚生病院の改築工事中に、発電所跡のすぐ脇で煉瓦積の遺構が発見され、1988(昭和63)年に発掘調査が実施されました。この並立した門柱状の煉瓦積は、発電所に関係する日本織物株式会社創立当初の遺構で、使用されている煉瓦は、工場建設のために桐生煉瓦製造会社において製造されたものです。

日本織物株式会社の工場は、建設のために設立された「桐生煉瓦製造会社」製の煉瓦が用いられました。

「桐生煉瓦製造会社」の刻印がある煉瓦。(「桐生明治館」に展示)


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