産業技術遺産探訪 2001.8.12./2012.8.22./2016.8.8.

熊本県美里町(旧 砥用町)石橋群

霊台橋
1847(弘化4)年竣工
単径間石造アーチ橋
日本最大の単アーチ石橋
径間(スパン) 27.5m
拱矢      15.4m
全長      約90m
石材 石質溶結凝灰岩
国重要文化財
熊本県下益城郡美里町豊富〜美里町清水


大窪橋
1849(嘉永2)年竣工
単径間石造アーチ橋
橋長 19.3m
幅員 最大2.9m 最小2.7m


馬門橋
単径間石造アーチ橋
1828(文政11)年竣工

熊本県下益城郡砥用町


熊本県美里町(旧 砥用町)石橋群
  霊台橋」「馬門橋」「大窪橋」「雄亀滝橋」「阿芹場橋」「井芋橋」「舞鹿野田橋」
  「下用来橋」「県橋」「白岩橋」「小夏橋」「鍵ノ戸橋」「西ノ鶴橋」「岩清水橋」

美里町には38の石橋があります。


YouTube->「霊台橋」https://youtu.be/SKRU5b1j6VE
霊台橋
1847(弘化4)年竣工
日本最大の単アーチ石橋
径間(スパン) 27.5m
拱矢      15.4m
全長      約90m
石材 石質溶結凝灰岩

国重要文化財
熊本県下益城郡美里町豊富〜美里町清水
 1845(弘化2)年、流出と再建を繰り返す緑川にかかる木造橋にかわって石造アーチ橋(目鑑橋)を建設しようとする計画が惣庄屋・篠原善兵衛
によって立てられました。
 1846(弘化3)年2月、大工総棟梁・万助、大工棟梁・伴七、宇助、石工棟梁・卯助(種山石工)らによって橋梁模型を用いた設計が行われ、
1846(弘化3)年9月起工、1847(弘化4)年2月竣工。(霊台橋架橋記念碑には竣工が「検分1847(弘化4)年4月6日」とあります。)
 霊台橋を建設したこの土木技術が「通潤橋」の架橋にも生かされました。

2012年8月22日 撮影

基礎となる三段に積まれた鞘石垣
鱗状に積まれた「スパンドレル(壁石)」
アーチリングは一重
拱矢(アーチの頂上からアーチ両端部を結ぶ水平線まで)15.4m
日本最大の単アーチ石橋
径間(スパン) 27.5m
 明治時代に路面を高くするために壁石を高くする改造が行われました。
昭和41年5月上流側に隣接して新たに橋梁が建設されたため歩道橋
となり昭和56年に竣工当時の姿に復元されました。
橋の全長は約90m
れいだい
霊台橋 (国指定重要文化財)

 緑川本流の最大の難所、船津狭に架けられた日本一の単一アーチ式石橋です。
この橋は、1847年(江戸時代末期)に、当事の惣庄屋 篠原善兵衛のもと、
種山石工の卯助兄弟、大工の棟梁の伴七、さらには、近在住民の総力を結集して
完成したものです。
橋の全長約90m、アーチのスパン27.5m。
昭和41年に上流の鉄橋が架けられるまでは、この石橋をバスやトラックも走っており、
人を渡し、物資を渡し、文化を渡してきました。

   環境省 熊本県

重要文化財 霊台橋

 この地に橋が架けられたのは文政2年(1819)のことで、住民の悲願により時の惣庄屋 三隅丈八等が中心となって木橋を架設したものですが、その後、度重なる洪水によって架替えが繰返されたため、弘化2年、篠原善兵衛の惣庄屋就任により石造「目鑑橋」の架設が計画されるに至りました。工事は翌3年2月から本格的にきまり、弘化4年(1847)2月に完成して渡初が行われました。施工は大工棟梁の万助、伴七をはじめとする地元の大工達や、石工棟梁として種山村の卯助ほか近在の多くの石工達によって行われました。(彼等やその一族は後に明治政府に仕え、東京で二重橋をはじめとする多くの架橋に携わっています。)橋は建設以来この地方の幹線道路として長く風雪に耐え使用されてきましたが、昭和41年に上流側へ鉄橋が架けられて国道としての役割を終わり、以後は砥用町の所有となって保存されています。霊台橋は九州を中心として数多く存在する石造アーチ橋のうち、単アーチとしては、8年後に造られた通潤橋と並んで日本最大のもので、建設のいきさつも明らかであり、当時の民衆の力と技術が結集されて築きあげられたものとして、江戸時代後期の日本の石橋の代表的存在となっています。

 現在見られる橋の姿は昭和3年から同55年(1980)にかけて保存修理された後のもので、それまで明治33年(1900)に石垣を積み足して高く平坦にしてあったものを、工事中の調査結果に保存のあり方の検討を加えて、建設当初の姿に復原したものです。
ただ、現在高くなっている両端も、当初は道路とともに低いものでしたが、保存修理では現在の道路事情に合わせて階段を設けるなどして整備を行いました。従って、南端には大正9年に造られた森林鉄道のトンネルと、修理前には橋の中央まであった明治の取付路石垣をここまで後退させ、この橋のもつ歴史として残しました。その他、堆積していた土砂の除去、石垣全体の洗浄清掃、路盤地下への防水、暗きょ排水設備、破損部の補修などを行いました。なおスパンドレル部や南取付路の石垣の著しい歪みは、大部分が建設中か直後から起こっているとみられ、現在はその進行が認められないし、もし積み直した場合には、一旦解体した材料を元の位置に戻すことが不可能であること、積み直した石垣に今後歪みの生じないという保証はないこと、さらにはその工事で石垣や裏込石を大量に取去ることが、橋の微妙な力学的バランスにどのような影響を及ぼすかを正確に予測できないなどの問題があって、今回の修理の手は加えませんでした。従って石垣は建設当初の状況を引継ぐものとして、ふくらんだり、曲がったままになっています。しかしこれらは正常な状態とはいえないので、町では定期的に精密観測を行って、石垣の動きを監視しています。

昭和55年9月

砥用町教育委員会

1920(大正9)年に造られた森林鉄道のトンネル

大窪橋
1849(嘉永2)年竣工
単径間石造アーチ橋
橋長 19.3m
幅員 最大2.9m 最小2.7m


美里町(旧砥用町)指定文化財
 1849(嘉永2)年に惣庄屋の篠原善兵衛と石工の新八によって架橋されました。
 アーチの中心が常水面下であるため両基盤の中心角が157.40度となっています。

馬門橋
単径間石造アーチ橋
1828(文政11)年竣工

美里町(旧砥用町)指定文化財
備前の石工である茂吉と勘五郎が共同で手がけた、唯一現存する橋。橋のたもとには滝壺がある。


二俣橋(1829〜1830年架橋)
2つの川の合流地点にL字型に並ぶ双子の橋。形・大きさ・造りがほぼ同じという、全国でも珍しいもの。


雄亀滝橋(1818年架橋)
日本で2番目に古い水道橋。熊本が誇る名橋「通潤橋」(山都町)のモデルとなった。
現在でも対岸に水を送り続けて田畑を潤している。


資料

・熊本県下益城郡美里町 石橋マップ(美里町役場)

・ブックレット「くまもと美里町の石橋めぐり」ダウンロード(熊本県宇城地域振興局総務振興課 地域振興班)

・「くまもと石橋くるりたび」ダウンロード(熊本県宇城地域振興局総務振興課 地域振興班)


関連した産業遺産

通潤橋  1854(嘉永7)年 国重要文化財  熊本県上益城郡山都町(旧 矢部町)城原〜山都町長原
※日本最大の石造水路橋(全長75.6m 高さ21.4m 径間27.9m)

院内の石橋群(大分県宇佐市院内町)


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