産業技術遺産探訪 2001.8.12./2012.8.22.

通潤橋
国重要文化財

高台地域へ灌漑(農業)用水を送るためにつくられたサイフォン式石造単アーチ水路橋

起工 1852(嘉永5)年12月
竣工 1854(嘉永7)年 7月

熊本県上益城郡山都町(旧 矢部町)城原〜山都町長原 

通潤橋の長さ 75.6m
通潤橋の幅   6.3m
通潤橋の高さ 20.2m(川の水面から橋中央下端までの高さ)
         21.4m(川の水面から橋中央上端までの高さ)
アーチの径   27.9m
石管(樋管)の長さ  126.9m
落差        1.68m
石垣面積  1860平方メートル
通水量   15000立方メートル(8万石)/1日 
開田面積  約100町歩
通潤橋部分の轟川幅 18.2m
橋に使われている石材は阿蘇山の噴火によってできた「石質溶結凝灰岩」
工事費
      通潤橋 官銀319貫406匁6分  夫役5865人
      附帯用水路 官銀375貫401匁2分  夫役21213人
      ※安政元年の米価は1石が91匁2分

 周囲を轟川などの深い渓谷にかこまれた白糸地区は、台地であるために、水に乏しく、田んぼの水はもちろん、飲み水も足りないような状態でした。
 当時、矢部の惣庄屋であった布田保之助(惟暉)は、この谷に目鑑橋(石造アーチ橋)を架け、その上に水路を敷設して北東約6km離れた笹原川の水を白糸台地に送ることを考えました。
 布田保之助は、すでに1847(弘化4)年、篠原善兵衛によって緑川(轟川は緑川流域の支流)に架けられていた「霊台橋」(日本最大のスパンをもつ石造アーチ橋)を参考にして、設計をはじめましたが、谷の深さが30mあって、当時の目鑑橋(石造アーチ橋)の技術は20mの高さの築造が限度でした。そのため、橋の石組みは、橋の高さが幅の割に高いので、鞘石垣を設けて輪石の基礎部を包み補強して橋脚部を広げ、28カ所に鎖石工法が使用され、熊本城の石垣同様に反りを拡げた石垣工法で安定感を出すことにしました。また橋より高い白糸台地に連通管(サイフォン)の原理を応用して水を送るための実験や、通水路の実験(実験用の石管が笹原川上流に残存)も何度も行い研究を積み重ねていきました。
 建設を進めたのは、布田保之助、工事を担当したのは八代の種山村(現在の熊本県八代郡東陽村)の宇一卯市?)、丈八(宇一の弟で、のちの橋本勘五郎)、その他に甚平ら「肥後の石工種山石工」と呼ばれる名工たちでした。石材は、川の両岸や川床から採石(「石質溶結凝灰岩」)して加工されました。工事は嘉永5(1852)年12月に着工し、安政元(1854)年7月、1年8ヶ月という短期間のうちに完成しました。
 この工事の完成により、白糸台地に百ヘクタールの水田を開くことができました。


種山石工・・・江戸末期から明治・大正にかけて驚異的な土木・建築技術を持った石工の集団「種山石工」が八代の種山村(現在の熊本県八代市東陽町)に存在していました。その中心となったのは、長崎でオランダ人からアーチ橋のかけ方や円周率を学んだといわれている藤原林七、土木事業全般に優れた技術を持ち神業といわれた岩永三五郎、通潤橋や皇居の旧・二重橋を手がけた橋本勘五郎などを輩出しました。種山石工たちの高度な石組み技術によって各地に石造アーチ橋(目鑑橋)がつくられ、さらに灌漑・干拓事業に活躍しました。熊本県八代郡東陽村の鍛冶屋谷を中心とした22の石橋群や、熊本県下益城郡緑川流域の66にも及ぶ石造アーチ橋(砥用町・21橋、矢部町・20橋、中央町・6橋、豊野村・6橋、甲佐町・5橋、御船町・4橋)は、1世紀以上の風雪に耐えて現存し、日本の石造橋文化圏を生み出しました。
 ※種山石工に関する資料館 「東陽石匠館(元 東陽村石匠館)」 熊本県八代市東陽町北98-2

通潤橋(国指定重要文化財・昭和35年2月9日指定)
 通潤橋は灌漑(農業)用水を送るためにつくられたサイフォン式石造単アーチの水路橋です。
 建設者は、矢部手永惣庄屋布田保之助、工事を担当したのは八代種山村(現・東陽村)の宇一、丈八(のちの橋本勘五郎)、甚平ら「肥後の石工」と呼ばれる名工たちです。工事は嘉永5(1852)年12月に着工し、安政元(1854)年7月、1年8ヶ月という短期間のうちに完成した。
 まわりを深い谷に囲まれた白糸台地は、水に乏しく、田んぼの水はもちろん、飲み水も足りないような状態でした。
 そこで保之助は、この谷に目鑑橋を架け、その上に水路を敷設して6km離れた笹原川の水を白糸台地に送ることを考えました。
 しかし、谷の深さが30mあって、当時の目鑑橋の技術は20mの高さの築造が限度でした。
 通水管の実験を何度も行い、研究に研究を重ねて橋より高い白糸台地に連通管の原理を応用して水を渡しました。
 橋の石組みは、橋の高さが幅の割に高いので、鞘石垣を設けて輪石の基礎部を包み補強して橋脚部を広げ、熊本城の石垣同様に反りを拡げた石垣工法で安定感を出している。
 また、28カ所に鎖石工法が使用された。
 石材は、川の両岸や川床から採石して加工された。
 この工事の完成により、白糸台地に百ヘクタールの水田が開けました。

橋の長さ 75.6m
橋の幅   6.3m
橋の高さ 20.2m
石管の長さ 126.9m
通水量  15000立方メートル(1日)
                          矢部町
通潤橋

TSUJUN BRIDGE

灌漑用、飲用水路として轟川に架けられた眼鏡橋で、嘉永5年(1852年)12月に着工、安政元年(1854年)7月完成したものです。
橋の中には三筋の石管が埋蔵され、、一昼夜に15000m3の水を送る事ができます。
橋の長さは、75.6m、高さ20.2m、幅6.3m、アーチの直径27.9mとなっています。

熊本県

2012年8月22日 撮影
通潤橋上には3列の通水石管が敷設されています。
2001年8月12日 撮影
保存修理工事中(2001年8月12日)のため通水石管を見ることができました。
 取水口側から白石台地側を見た通潤橋上部
の通水石管
白糸台地側から見た通潤橋上部の通水石管
通水管の高低差
橋より高い白糸台地に連通管(サイフォン)の原理を応用して水を送る構造になっています。
・取入口−放水口(橋の中央) 7.5m
・放水口(橋の中央)−吹上口 5.8m
・取入口−吹上口 1.7m

2000(平成12)年から実施された保存修理工事について
 通潤橋の送水管の水漏れがひどくなってきたため、熊本県は平成12年度から、その歴史的価値をふまえて通潤橋を保全し、今後も農業用施設として活用していくために、(歴史的施設保全型)地域用水環境整備事業で、送水管の目地の修理等を行っている。
 矢部町教育委員会による保存修理(送水管の目地の修理や木管の交換)は昭和46年にも行われた。

通水管
通水木管(木樋) 通水石管(石樋)
 木管の通水口は30cm角で、長さ約55cm
通水管の中央部分に使われている。緩衝の
役割をもたせるためと考えられます。
 石管の通水口は30cm角で、石管断面は90cm角、長さ50〜80cm
 石の厚みは場所により異なる。方二尺より方三尺まで。
目地として漆喰が詰められ通水管どうしが連結されています。

笹原堰(水源地)
Q(流量)  1.29立方メートル/s(秒)
L(距離) 16.50m
H(高さ)  2.00m

円形分水池
Q(流量)  1.102立方メートル/s(秒)
水槽径   6.27m
※笹原川から流れる水を野尻、笹原部落へ流れる灌漑水と白糸台地に流れる灌漑水にその水量を分水するために、水田の面積に応じてそれぞれ3:7の割合で公平に流れるように作られたもの。

通潤橋
Q(流量)  0.856立方メートル/s(秒)
サイフォン コンクリート管 800mm
L(距離) 139.6m

通潤橋の由来
 架橋当時は「吹上台目鑑橋」と称していましたが
肥後藩時代に時習館の句読師真野源之助により、
易経の程氏伝にある
沢在山下其気上及草木百物
から採って名づけられました。
取水口側
通潤橋への導水路と受益地域
笹原堰(水源地)
Q(流量)  1.29立方メートル/s(秒)
L(距離) 16.50m
H(高さ)  2.00m

円形分水池
Q(流量)  1.102立方メートル/s(秒)
水槽径   6.27m
※笹原川から流れる水を野尻、笹原部落へ流れる灌漑水と白糸台地に流れる灌漑水にその水量を分水するために、
水田の面積に応じてそれぞれ3:7の割合で公平に流れるように作られたものである。

通潤橋
Q(流量)  0.856立方メートル/s(秒)
サイフォン コンクリート管 800mm
L(距離) 139.6m
吹上口側
通潤橋の保存修理について

昭和46年 矢部町教育委員会によって保存修理(送水管の目地の修理や木管の交換)が行われた。

調査工事 昭和57年7月1日〜昭和57年12月30日
部分修理工事 昭和58年4月1日〜昭和58年12月30日
総事業費 2010万円
財源内訳 1306万5000円 国庫補助金
        201万円 熊本県補助額
        502万5000円 矢部町負担額
事業者 矢部町
設計監理 財団法人・文化財建造物保存技術協会
修理の大要
1.水路石管(3列)の測定をして、各石管に番号をつけ、目地119本の漆喰詰替と、松丸太3本を取り替える。石管と松丸太の接着面には、樹脂エマルジョンにガラスマイクロバルーンを用いた。
2.取入口の目地漆喰の取り替え。
3.吹上口周囲の積石は共に解体して、旧来の通り据え戻し、目地漆喰を取り替える。なお、排水口の石管や石垣の積替を行う。

通潤橋の送水管の水漏れがひどくなってきたため、熊本県は平成12年度から、その歴史的価値をふまえて通潤橋を保全し、今後も農業用施設として活用していくために、(歴史的施設保全型)地域用水環境整備事業で、送水管の目地の修理等を行っている。

 布田保之助は、江戸時代末期の享和元(1801)年11月26日、浜町にある矢部手永惣庄屋の屋敷で生まれました。
 布田家は、寛政元(1789)年、祖父、桂右衛門が矢部の惣庄屋に転勤以来、代々矢部惣庄屋を勤めた家柄でありました。
 父、布田市平次は、17才で惣庄屋代役となり、、保之助が生まれる頃は矢部惣の地図を作成することに努力しています。31才で惣庄屋となった市平次は、代役のころ作成した地図をもとに矢部郷の開発と民生安定のため日夜努力していましたが、36才でこの世を去ってしまいます。保之助が8才のときでした。
 文化13(1816)年、保之助はは元服して惟暉と名のるようになります。
 文政5(1822)年、21才となった保之助は、叔父太郎右衛門の下で惣庄屋代役として勤務することになりました。
 「布田保之助 事業年代表」によると、惣庄屋在任中の約30年間に実施した主な事業は、
 道路新設 110km、用水溜池建設 7カ所、道路改善 95km、用水路建設 200km、目鑑橋架橋 14カ所、石堰き 35カ所
などが記録されていますが、このような土木、利水事業にとどまらず、植林、茶、はぜ、養蚕の振興など常に民力の涵養に務め、矢部76ヵ村、保之助の恩恵を受けない村はなかったといわれています。

布田保之助翁銅像

放水口

 アーチ橋の中央側面に放水口があります。
 放水口は西側(轟川の上流側)に2口、東側(轟川の下流側)に1口あり、
通水石管の管底に堆積した泥を排出するために行うものです。
放水口が3口あるのは、放水に伴う水圧の衝撃を緩和するための工夫で、
両側の放水口を順次交互に開閉していくためのものです。
通潤橋の放水について   2012(平成24)年
 「通潤橋」は農業用水路として、現在も白糸大地の田畑を潤しています。
放水は本来、通水石管に堆積した土砂を排出するために行うものです。
しかしお客様のご要望も多く、管理者である水理組合への申し込みを
いただくことにより、有料ですが左記の時間以外でも放水をご覧いただけます。

放水料    (事前予約必要)

予約先:放水受付所(通潤築土地改良区配水係)
<吹上売店>0967-72-1933


放水が中止又は休止される場合
1.田植え等水田に水が必要な時(5月の連休明け〜6月)
2.水路の改修・清掃の時
3.凍結や悪天候の時
4.1〜3月(定時放水のみ休止)
5.7〜8月の渇水期間
6.その他


ゴールデンウィークの観光放水予定
4月28・29・30日 12時に放水
5月3・4・5・6日 12時と14時に放水

今後の放水予定について
5月7日〜7月末までは、放水は行われません。
8月1日〜11月末まで土、日、祝日の12時に観光放水がございます。
この期間の平日は、有料(料金10000円)の予約放水も行っております。
事前にご予約が必要です。
12月1日〜2月末は、観光放水は行われません。
3月は有料(料金10000円)の予約放水のみ。
重要文化財通潤橋保存修理記
事業概要
調査工事    自 昭和57年7月1日
          至 昭和57年12月30日
部分修理工事 自 昭和58年4月1日 
          至 昭和58年12月30日
総事業費 2010万円
財源内訳 1306万5000円 国庫補助金
        201万円 熊本県補助額
        502万5000円 矢部町負担額
事業者 矢部町
設計監理 財団法人・文化財建造物保存技術協会
修理の大要
1.水路石管(3列)の測定をして、各石管に番号をつけ、目地119本の漆喰詰替と、松丸太3本を取り替える。石管と松丸太の接着面には、樹脂エマルジョンにガラスマイクロバルーンを用いた。
2.取入口の目地漆喰の取り替え。
3.吹上口周囲の積石は共に解体して、旧来の通り据え戻し、目地漆喰を取り替える。なお、排水口の石管や石垣の積替を行う。
    昭和58年12月30日
        矢部町長 吉田政司


資料

・「くまもと石橋くるりたび」ダウンロード(熊本県宇城地域振興局総務振興課 地域振興班)


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