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産業技術遺産探訪 2001.8.11.
三菱重工・長崎造船所・史料館
旧・三菱合資会社・三菱造船所
鋳物工場木型場
1898(明治31)年7月竣工
長崎県長崎市飽之浦町1-1
三菱重工・長崎造船所 史料館には、1857(安政4)年の創業時から現在に至るまでの長崎造船所で製作または使用した各種の大型機器をはじめとして工場の歴史を示す貴重な資料を展示しています。
この史料館は、1985(昭和60)年10月に開設しましたが、建物は、1898(明治31)年に竣工した木骨煉瓦造二階建ての旧・鋳物工場の木型場です。
木骨煉瓦造(二階屋根の木製トラス)
長崎製鉄所の第1期工事でつくられた轆轤盤細工所(轆轤盤は旋盤のこと)は、日本で初めての洋式建築法である「トラス小屋組」が用いられました。さらに、この「トラス小屋組」に鉄材が、支柱には鋳鉄製の柱が用いられていました。これは、集成館機械工場(鹿児島)、横須賀製鉄所、大阪造幣寮、富岡製糸場(群馬県富岡市)などがすべて「木製トラス」を使用していることを考えると建築技術史上でも極めて注目されることといえます。当時の轆轤盤細工所は現存していません。
三菱重工 長崎造船所 史料館(旧 三菱合資会社 三菱造船所 鋳物工場木型場)は「木製トラス」による木骨煉瓦造です。
三菱重工業(株)長崎造船所の概要
三菱長崎造船所の起源は、1857(安政4)年にさかのぼります。当時、長崎(現在の長崎市江戸町)にあった海軍伝習所の初代所長の永井玄蕃頭尚志(ながい げんばのかみ なおのぶ)は、日本とその周辺諸国の情勢をふまえて幕府に大型船造修所建設の必要性があることを説きました。しかし、幕府からの指示がなかったため、永井は職権で建設の決断をしました。彼は建設要員の派遣と機械類・資材の手配をオランダ国立機関廠(Rijks
Stoomvaartdienst)所属の海軍中佐ヘンドリック・ホイエンス(Hendrik Huygens , 1810-1867)の計画に基づいてオランダに発注し、1857(安政4)年6月に資材が到着、同年8月には建設要員11名を含むオランダ人一行37名がヤパン号(後の咸臨丸)で長崎に到着しました。同年10月から工場建設にとりかかり、4年後の1861(文久元)年3月25日、日本初の本格的洋式工場「長崎製鉄所」が竣工(第1期工事落成)しました。ただし、これらの施設は船体の修理や建造に必要となるドック(船渠)や修船架などがありませんでした。
ヘンドリック・ホイエンスらの技術指導によって造機施設の建設が進められましたが、その後幕府は造船造機施設を江戸周辺に建設するという方針転換を行いました。これには1864(元治元)年に着任したフランス公使レオン・ロッシュ(L.Roches)による幕府への接触も大きな影響を与えました。(幕府は1865(慶応元)年に横須賀製鉄所の建設約定をレオン・ロッシュに交付し、同年9月には横須賀製鉄所が起工します。)
1871(明治4)年4月、工部省の布達によって「長崎製鉄所」と「横須賀製鉄所」は、それぞれ「長崎造船所」、「横須賀造船所」に、「横浜製鉄所」は「横浜製作所」と呼称が変更となりました。
その後、工場は幕府から明治政府に、技術指導もイギリス人技術者、フランス人技術者によって引き継がれていきましたが、経営状態は思わしくなく、1884(明治17)年に「郵便汽船三菱会社」の岩崎弥太郎に経営が譲渡され、1887(明治20)年に三菱に払い下げられました。民営化された工場は、用地拡張、設備投資、人員増強、海外からの技術導入を行い積極経営を進めて次第に発展し、官営時代には木造の蒸気船が建造できただけでしたが、1887(明治20)年には200トンの長崎造船所初の鉄製汽船「夕顔丸」、1898(明治31)年には6000トンの貨客船「常陸丸」を建造することができるようになりました。
以来、長崎造船所は明治、大正、昭和を経て現在に至っていますが、その間に建造した船舶は実質約1800隻に上ります。それらの中には、各時代を映した代表的な船舶が数多く、長崎造船所の果たした役割の大きさを知ることができます。
現在、三菱重工業株式会社・長崎造船所の生産品目は多岐にわたっており、各種船舶の新造・修理、橋梁・鉄構造物の建造、また機械部門では陸用・舶用ボイラー、タービン、船用機械、産業機械、火力発電プラント、地熱・風力発電プラント、核燃料サイクル装置、海水淡水化プラントなどの製品の開発・製造を行っています。
参考文献
・楠本寿一「長崎製鉄所〜日本近代工業の創始」(中公新書1077)中央公論社 1992年 660円税込 ISBN4-12-101077-9
日本最古の竪削盤
NSBM(ロッテルダム・オランダ汽船会社) 1856年製造
18 NSBM 56
FYENOORD
銘板から、この竪削盤はオランダ、ロッテルダムのFyenoordにあるNSBM(ネーデルランゼ・ストームボート・マーツハッペイ Nederlandsche Stoomboot Maatschappij)で1856年に製造されたことを示しています。当時、竪削盤は「撞断機盤」と呼んでいました。
「NSBM FYENOORD 1863」の銘板を付けた竪削盤が、福岡県北九州市にある若松車輌会社に現存しています。この竪削盤は、長崎の立神軍艦打建所(発注されて長崎製鉄所に保管されていたとも)から集成館(鹿児島)、深川造船所(福岡県大川市)を経て若松車輌会社・若松工場に設置されたものと言われています。
「長崎製鉄所」第1期工事落成(1861(文久元)年3月25日)当時に設置された工作機械は、オランダのロッテルダムにあるNSBM(ネーデルランゼ・ストームボート・マーツハッペイ Nederlandsche Stoomboot Maatschappij)製で、蒸気機関類はベルギーのシラン・コケリル(Seraing Cockerill)製のものでした。こうした機器類のほか、建設に必要な資材類(鉄材、セメント、ガラスなど)もオランダを通して調達されました。
・ハルデスれんが(通称:こんにゃく煉瓦)
※220×104×39 普通煉瓦に比べて薄く、こんにゃくに似ていたので「こんにゃくれんが」と呼ばれました。厚みを薄くしたのは焼成温度が高くできなかったためであると言われています。長崎製鉄所建設技術者のハルデス(H.Hardes)の指導によって焼成されたレンガであったことから「ハルデスれんが」と呼んでいます。
・泳気鐘(オランダ製潜水器)英:Diving-bell
, オランダ語:Duikers Klok
※鋳鉄製 縦1.2m、横1.8m、高さ1.8m 重量4.5トン
1793(寛政5)年オランダへ発注、1834(天保5)年長崎に到着、1858(安政5)年長崎製鉄所の建設に使用したもの。
国産第1号陸用蒸気タービン
・第一船台ガントリー構造部材
・クレーン銘板(各種)
・2サイクルディーゼルエンジン・一衝程掃気試験装置
・スクリュープロペラ動力計
・抵抗動力計
・三菱石炭鉱業高島鉱業所18尺層塊炭
・スペイン向けタービンローター破片(試験運転中破壊)
・関西電力尼崎第一発電所1号タービン
・関西電力尼崎第二発電所1号タービンローター
・東京電力鶴見発電所1号タービン溶接ローター、1号タービン・ブレード
・九州電力知名風力発電所・プロペラ型可変ピッチ式風車(日本初の風力発電所)
・中国電力小野田発電所3号タービン
・常磐共同火力(株)勿来3号ボイラ蒸気ドラム
・試作オープンサイクルガスタービン
・6UEV 30 40実験機関
・実験機関3UEC72 150型用排気ターボ過給機
・モーターボート6号艇(三菱重工長崎造船所345番船)
・造船所曳船「白鷹丸」往復式蒸気機関
・北斗丸用500馬力オープンサイクルガスタービン
・戦艦武蔵 建造用工具 図面
・91式魚雷(内部構造)
・木工所製チーク材たんす
三菱重工・長崎造船所・旧・船型試験場
水槽建家、事務所
1908(明治41)年5月竣工
(現在は三菱病院健康管理課)
関連項目
・旧・三菱重工長崎造船所第2ドックハウス
三菱長崎造船所繋船浮標(ブイ)用錨(アンカー) グラバー園内(長崎県長崎市)
・小菅修船所(小菅ソロバンドック)
※薩摩藩藩士・五代友厚、薩摩藩家老・小松帯刀らの起案により建設が着手され、のちフランスのモンブラン伯(Comte
de Montblanc)やイギリスのグラバー(T.B.Glover)が介入してつくられた修船架をもつ修船場で1868(明治元)年12月6日に竣工しました。敷地面積18000平方メートル、船架は幅8m、長さ37mでレール上の台車(ソロバンの経緯軸木に似ていることから通称ソロバンドックと言われた)で約1000トンの船体を乗せ移動させることができました。動力はランカシャー型ボイラー付きの竪型2気筒の蒸気機関でした。
・小菅修船所(小菅ソロバンドック)巻上機小屋
※煉瓦造平屋建(間口・奥行約9mのほぼ正方形)、現存する幕末・明治初期の工場建築として、1865(慶応元)年竣工の「集成館機械工場」(鹿児島県)、1872(明治5)年竣工の「富岡製糸場」(群馬県富岡市)と並ぶ貴重な建造物です。
三菱重工業株式會社 長崎造船所
群馬からはるばる長崎までやってきました!(実は前日まで鹿児島にいたのですが・・・(^^;))
造船所構内を走行する車は、すべてライトを点灯させて走ることになっています。
広大な造船所内では、すべてのもののスケールの大きさに、なんだか自分が小さくなったような気がしました。
グラバー園から対岸の三菱重工・長崎造船所を望む