産業技術遺産探訪 2001.8.10.

集成館機械工場
1865(慶応元年)竣工

反射炉跡
1852(嘉永5)年着工・1857(安政4年)5月竣工

発電所貯水槽跡
島津家・水天渕発電所記念碑
錫門

尚古集成館・仙巌園(鹿児島市吉野町9700−1)
http://www.minc.ne.jp/shimadzu


集成館機械工場
1865(慶応元年)竣工

 尚古集成館は、1923(大正12)年に開館した博物館で、島津家伝来の史料を中心に約1万点を収蔵し展示する博物館です。島津斉彬によってつくられた集成館の工場群は、1863(文久3)年7月の薩英戦争でほとんどが焼失してしまいました。その後1864(元治元)年、薩摩藩主島津忠義によって、集成館の復興が着手されました。はじめに機械工場の建設が行われ、蒸気機関と近代的な工作機械の導入が行われました。尚古集成館の本館は、1865(慶応元)年に造られた集成館・機械工場を利用しています。アーチを採用した石造洋風建築としては日本で最初のもので、操業開始当初から「STONE HOME」と呼ばれていました。設計にはイギリス人が携わったのではないかと考えられています。この旧集成館機械工場は国の重要文化財となっています。
 本館では常設展示、別館では企画展を開催しています。本館では、鹿児島紡績所で使用されていた「梳綿機」、1866年イギリス・プラット兄弟会社製(PLATT BROTHERS & Co.LIMITED,OLDHAM ENGLAND)の「磨針機」や、オランダNSBM社製の「形削盤」、鉄製砲、薩摩切子、薩摩焼、薩英戦争のときの薩摩藩砲弾やイギリス艦隊砲弾などが、別館では、電信線(絹被覆銅線)、金属活字、板ガラス・半球ガラス、電気模造機(電気による鋳型加工機・・・電胎法)、電気メッキに用いた機器などが展示されています。

梳綿機(SINGLE ROLLER AND CLEARER CARDING ENGINE)」・・・「単式ローラカード」または「単式ローラ梳綿機」
磨針機(CARD GRINDING MACHINE)」・・・カードの針布を研磨する機械

参考資料
玉川寛治「鹿児島紡績所創設当初のローラカードについて」『産業考古学』43号、1987年3月

 幕末の動乱期を控えた天保期(1830年〜1843年)には、幕府をはじめ各藩は財政難に苦しむところが多く、薩摩藩も年間収入10数万両に対し、500万両の借金を抱えるという窮乏状態でした。そこで下級武士出身であった調所広郷を登用し、薩摩藩の天保の改革が始まりました。調所広郷による重商主義政策など様々な対策の実行によって、10年余で50万両を備蓄するとともに、200万両をつぎ込んで産業基盤となる社会資本の整備を進めました。こうして藩財政を再建した調所広郷は、1848(嘉永元)年に幕府から密貿易の嫌疑を受けて自殺します。
 19世紀、イギリス・フランスなどの西欧列強が、植民地を求めてアジアに進出してきました。1840年にはアヘン戦争が勃発し、東アジア最大・最強の清国(中国)が、西欧の島国イギリスに完敗、1842年香港割譲などを認めた南京条約に調印し、植民地化への道を歩み始めました。
 この清国の敗戦は、日本の有識者たちに強い衝撃を与えました。島津斉彬もその一人です。
 日本最南端に位置していた薩摩藩の近海では、すでに西欧列強の艦船が出没しており、対外的な緊張が高まっていました。アヘン戦争が終了すると、イギリス・フランスの艦船が琉球にあいついで来航して通商・布教許可を求め、薩摩藩はその対応に追われました。
 こうした事態に危機感を強めた斉彬は、西欧の諸制度・科学技術を積極的に導入し、日本を西欧列強のような近代国家に生まれ変わらせなければならないと考えるようになりました。
 調所広郷の死後、1851(嘉永4)年に薩摩藩主となった島津斉彬は、この考えを実現させるために積極的に動き回りました。また、持ち前の西欧に関する知識と強い指導力を発揮して、反射炉、造船所などに代表される集成館事業を行って開明化策を推進しました。
 まず、中央政界においては、外交問題に悩む老中・阿部正弘を補佐して活躍。攘夷論を批判し、体制強化のため公武合体を推進しようとしました。また、将軍継嗣問題では、門地よりも能力を優先すべきであると主張して、次期将軍に一橋慶喜を推しました。国元においては集成館事業と呼ばれる富国強兵・殖産興業政策を推進し、軍事力の強化、産業の育成、社会基盤の整備を図りました。事業の中核となったのは、鹿児島城下郊外の磯にあった仙巌園(磯別邸)に隣接して築かれた工場群・集成館です。
 1852(嘉永5)年には、磯別邸に隣接する竹林を切り開き、反射炉の建造に取りかかりました。そして反射炉の周囲に熔鉱炉や鑽開台(大砲の砲身に砲弾を詰める砲腔をあけるための中ぐり盤)、ガラス工場、鍛冶場、蒸気機関製造所、金物細工所、鍋釜製造所などの工場群を造っていきました。最盛期には1200名もの人が働いていました。
集成館以外の場所でも、洋式船建造(磯・桜島)、蒸気機関の製造(磯・江戸)、紡績(田上・永吉)、電信、製薬、印刷など多岐にわたる事業(「集成館事業」)を興していきました。
 おもな事業は、造船事業(洋式帆船、蒸気船)製鉄事業(溶鉱炉)造砲事業(反射炉、鑽開台)蒸気機関の研究紡績事業(中村・田上・永吉水車館)電気通信事業陶磁器(窯業)ガラスの製造(薩摩切子など)洋式銃・火薬・雷管の製造とアルコールの製造出版事業(金属活字の製造)ガス灯の実験、水車動力の改良、農機具・農産物の改良増産(砂糖など)、洋式製油・製塩製薬写真の研究(銀板写真、湿板写真)などです。

 ところが、島津斉彬は1858(安政5)年に急逝してしまいました。斉彬の死後は、それまでの急激な西欧化の反動が現れて、集成館事業は一時収束してしまいました。また、島津斉彬によってつくられた集成館の工場群は、1863(文久3)年7月の薩英戦争でほとんどが焼失してしまいました。
 この、1863(文久3)年の薩英戦争を機に集成館事業が見直され、薩摩藩29代藩主・島津忠義とその父である島津久光(島津斉彬の弟)によって1864(元治元)年に集成館の復興が着手され、再び集成館事業が推進されることになりました。こうして薩摩藩は高い水準の技術力と軍事力を持つことになっていきます。
 はじめに機械工場の建設が行われ、蒸気機関と近代的な工作機械の導入が行われました。機械工場の建設には前藩主島津斉彬の時代に反射炉や大砲鋳造に携わった竹下清右衛門が任命されました。竹下は長崎製鉄所(現在の三菱重工業長崎造船所)に旋盤(轆轤台)・平削盤(鉋台)・ねじ切盤(捻製作道具)を各1組注文し、長崎製鉄所に派遣されていた波江野次兵衛らを呼び戻し、長崎製鉄所の技術者であった本庄覚次郎らを招聘しました。1864(元治元)年10月に工場建設を着工、1865(慶応元)年2月に長崎製鉄所から工作機械類が到着(これらの工作機械はオランダのNSBM社製やイギリス・シェフィールドのDRURY & WALKER BROE社製と考えられています)、4月には25馬力の蒸気機関と最新の洋式工作機械を備えた機械工場が操業を開始しました。
 機械工場の周囲には、鑽開台(中ぐり盤)工場、鋳物工場、製材工場、木工工場、製薬工場、アルコール製造工場、小道具細工工場などが建設されていきました。こうして復興した集成館ですが、斉彬時代の集成館は翻訳書を参考にしながら試行錯誤で事業を展開し、民需なども視野に入れた事業でしたが、忠義の時代になると、イギリスやオランダから直接技術移転が行われ、また国内外情勢によって軍需中心になっていました。集成館は1871(明治4)年に官有となります。当時の記録によると、集成館には蒸気機械所、鑪場、鋳物所、鍛冶所、鋸機械所、雷帽子並摩軋管薬仕込所、玉仕揚所、喇叭製作所など26の施設があり、職工683人が従事していました。1872(明治5)年には陸軍の大砲製造所、1874(明治7)年に海軍省に移管して鹿児島海軍造船所となります。この頃には当時としては最新の5速段車式旋盤が製造されています。1877(明治10)年の西南戦争では戦場となり荒廃してしまい、西南戦争後に民間に払い下げられ、明治22年に再び島津家の所有となり鉱山機械・船舶用機械・精糖用機械などを生産しましたが事業の不振で1915(大正4)年に廃止されました。

 明治維新後に集成館は軍の施設となりましたが、1877(明治10)年の西南戦争では戦場となり荒廃してしまいました。しかし一方で、日本を近代国家に生まれ変わらせようとする集成館事業は明治政府の高官や技術者・職工に受け継がれ、日本各地に集成館の技術が波及し、近代日本の基礎が築かれていくことにつながっていきました。


反射炉跡
1852(嘉永5)年着工・1857(安政4年)5月竣工
 集成館機械工場に隣接する反射炉跡の遺構は、合体炉1基分で、状態や位置などから2号炉のものであろうと考えられています。尚古集成館では1994年と1996年の2度にわたり、国立科学博物館・東北大学・鹿児島県教育委員会の協力で反射炉跡の発掘調査を行いました。その結果隣接して建造されていたとされる3号炉の遺構は存在せず、3号炉は建設されていなかったという可能性が高くなりました。また、この反射炉がヒューゲニンが著した「ルイク国立鋳砲所における鋳造砲」の図面に基づいて忠実に造られていることや、耐火度を上昇させる工夫がされた「シャモットレンガ」(この耐火レンガは薩摩焼の陶工が天草の土を使ってつくりあげたもの)が使われていたことが確認されました。

 アヘン戦争で中国がイギリスに敗れたという情報は、島津斉彬に大きな衝撃を与えました。1851(嘉永4)年、薩摩藩主となった斉彬は、日本が西欧諸国の植民地にされるのではないかという危機感を抱き、海洋に多くの領地を有する薩摩藩こそ、「大砲と船」に象徴される軍備の近代化と産業育成に力を注ぐべきだと考えました。
 反射炉は鉄製の大砲を鋳造するために築かれたもので、1852(嘉永5)年に着工し、1856(安政3)年にようやく鉄製砲の鋳造に成功しました。また反射炉を中心に溶鉱炉やガラス工場など様々な工場が整備され、これらの工場群は「集成館」と命名されました。
 生麦事件に端を発した1863(文久3)年の薩英戦争では、イギリス艦隊7隻を相手に、ここで造られた大砲が大活躍しましたが、その後解体され、現在は基礎部分だけが残されています。

反射炉の構造と遺構
 反射炉は、火床(ロストル)で燃料(石炭または木炭)を燃やし、その熱を壁に反射させ炉床の銑鉄を溶かす施設です。日本では主に大砲鋳造のために築かれました。

 現在残されている遺構は、1857(安政4)年5月に完成した2基目の反射炉の基礎部分であると考えられ、2炉を備えていました。数万個の耐火レンガを使った炉の重量に耐えるため頑丈な石組で基礎部が造られています。また、湿気があると炉の温度が上昇しないため、炉本体にすのこ状の石組を設けて空気層をつくり、炉の周囲には地下水を断ち切るための溝が掘られていました。


炉の構造
 炉は内部が耐火レンガのアーチ積みとなっていました。炉内は、左側が出湯口側で、説けた銑鉄が流れ出るところ、右側が燃料を置くところです。炉床の下には通気用の炉下空間(空気層)があり、また炉床はレンガの段敷によって勾配をとっていました。


焚所(たきしょ)風入口、灰穴
ここは上部焚所への自然送風口であると同時に焚所で燃えた燃料の灰を落とすところす。この上部に火床(ロストル)があり、火床の上に燃料を置いていました。


炉床の下部構造
 ここからは炉床の下部構造を見ることができます。規則的に並んだすのこ状の石の配列は通気用の炉下空間(空気層)で、炉内に湿気がたまることを防ぎ、炉の温度を適正に上昇させるために設けられていました。傾斜させた石組は灰穴の灰落としで、この上に火床(ロストル)があり燃料(石炭または木炭)を燃やしました。また、ここから風を入れ、風は炉内を通って炎を導き、煙突に抜けていきました。

鋳台
 反射炉に隣接して鋳台(いだい)のあった場所があります。地下の下には鋳台の遺構が埋もれています。鋳台に大砲の鋳型が置かれ、出湯口から溶け出た銑鉄を鋳型に導き、大砲を鋳造しました。そのあと鋳型から大砲を取り出し、近くにあった鑚開台(さんかいだい)で水車動力を用いて砲身の中ぐりを行いました。

大砲が出来るまで
鉄鉱石・砂鉄→「溶鉱炉」→銑鉄→「反射炉」→砲身鋳造→「鑚開台」(砲身に穴をあける・・・中ぐり)

鑽開台
 熔鉱炉でつくられた銑鉄を反射炉で溶かし、鋳造によってできた大砲の砲身に砲弾を詰める砲腔をあけるための中ぐり盤が「鑽開台」と呼ばれた工作機械で、薩摩藩では1855(安政2)年に完成させています。
 鉄製砲は、鋳型の中心に中子を置いて、砲腔を開けようとすると、中子の周りに気孔が生じ、これが砲弾の発射の際に砲身破裂を引き起こしてしまいます。このため棒状の砲身を鋳造し、その後に鑽開台で砲腔を開ける工程を行う必要がありました。


発電所貯水槽跡
 薩摩藩29代島津忠義が建造した工場、「就成所」(しゅうせいじょ)の送電発電用貯水漕(貯水槽)跡です。落差を利用して水車を回転させ、電力を得るというしくみで、1892(明治25)年からはこの電力を使って邸内や庭のアーク灯に明かりを点し、就成所から邸内へ通じる自家用電話にも利用していました。(「集成館」でも当時すでに、水力発電が実現しており、庭園背後の山の尾根伝いに導水路が残っています。)
 鹿児島市内の電灯の始まりは1897(明治30)年、電話は1906(明治39)年のことで、島津家はその先駆をなしていたといえます。


島津家・水天渕発電所記念碑
 水天渕発電所は明治40年(1907)に、島津家が経営していた山ヶ野金山(横川町・薩摩町)に電力を供給するため姶良郡隼人町に建てられた発電所です。ヨーロッパ風の石造りの建物は当時としては珍しく、昭和58年まで使用(九州電力株式会社)されていました。水天渕発電所記念碑は、ヨーロッパ風の石造りの建物であった水天渕発電所の一部を使って記念碑としたものです。


錫門
 錫門は、かつて薩摩藩の特産品であった錫で屋根を葺いた朱漆塗りの門です。錫瓦葺きの建造物としては、日本唯一のもので、嘉永元年(1848)の庭地拡張までは、仙巌園の正門として使用されていました。薩摩藩19代島津光久の時代に竣工されたと伝えられています。


錫門と錫門に使われている錫製の瓦


造船事業(洋式帆船、蒸気船)
 海軍力・海運力の強化が必要と考えていた島津斉彬は、洋式船建造の資料として1822(文政5)年頃に藩士の寺師次右衛門が建造していた3本マストの帆船「伊呂波丸」に関する資料を次右衛門の子である寺師宗道と市来四郎の兄弟に提出させました。そして1851(嘉永4)年に鹿児島城下郊外の磯龍洞院前(現在の鹿児島市吉野町)に造船所を建設して、洋書や長崎で入手した洋式船の絵図も参考にしながら洋式船の技術を取り入れた3本マストの実験船「伊呂波丸」(次右衛門の建造した洋式船にちなんで同じ名前をつけた)を建造しました。伊呂波丸形の船が数艘建造され、琉球航路に使用されました。
また、1851(嘉永4)年に琉球に上陸した土佐出身の漂流民ジョン万次郎(1841(天保12)年に出漁中、暴風雨のために漂流し、米国の捕鯨船に救助され11年間の米国生活を経て帰国しました)が身柄を長崎奉行に引き渡される間に薩摩藩では田原直助や船大工たちに捕鯨船の構造を聞き取らせ、船の雛形をつくり、これをもとにして小型の洋式船「越通船(おっとうせん)」の建造を始め1854(安政元)年に完成させました。「越通船」の外観や舵などは和船ですが、船体内部には肋骨が並び洋式の船体構造でした。
 こうして実験船の建造に成功したものの、本格的な大型洋式船は、幕府の大船建造禁止令(500石、約75トン以上の船舶の所有と建造を禁止、のちに3本マストのような外国船と紛らわしい艤装も禁止された)のために許されませんでした。島津斉彬は、琉球航路だけに使用するという条件付きで中国風の船(ジャンク)である琉球大砲船を建造したいと願い出て許可を得、1853(嘉永6)年5月29日に桜島の造船所で建造に着手しました。幕府は相次ぐ外国船の到来に海軍力強化の必要性を認めて、1853(嘉永6)年9月に大船建造禁止令を解禁しました。それによって薩摩藩では大船12艘、蒸気船3艘の建造計画を発表し、このうち2〜3艘を幕府に売却することを条件に許可を得ました。1854(安政元)年7月に牛根(現在の垂水市)で全長24間(約43m)の洋式船「大元丸」と「承天丸」を、桜島の有村で全長20間(約36m)の洋式船「鳳瑞丸」「万年丸」の建造に着手し、1855(安政2)年に竣工し、「大元丸」「鳳瑞丸」を幕府に売却しました。
また建造中の琉球大砲船も洋式船に改造し、1854(安政元)年12月に竣工して「昇平丸」と命名されました。「昇平丸」は竜骨長15間(約27m)、全長17間(約31m)、推定排水量370トン、砲16門を搭載した洋式軍艦(三本マストバーク)で、1855(安政2)年に幕府に献上され「昌平丸」と改名されました。
 この後、1855(安政2)年10月に発生した江戸の大地震で莫大な経費が必要になったため、造船事業は中止されてしまいました。しかし、蒸気機関の研究は続けられ、蒸気船が主流になっていくことを考慮してオランダやフランスから蒸気船の輸入を計画していました。ところが1858(安政5)年に島津斉彬は急死し、計画は白紙にもどりました。

製鉄事業(溶鉱炉)
 鉄は一日も欠くことができない要用の品と位置づけ、製鉄業に力を注ぎました。1854(安政元)年頃には、日本初の溶鉱炉が完成し、砂鉄や鉄鉱石を精錬して反射炉で使用することができる銑鉄が生産されるようになりました。製鉄・鋳砲事業は夏江十郎(こうかじゅうろう)が担当しました。
 日本では古来から砂鉄を用いた「たたら製鉄」による鉄(和鉄)の生産が行われていました。特に山陰地方のたたら製鉄による和鉄の供給は鋳砲事業に使用する鉄の確保に十分な量でしたが、実際に和鉄を鋳砲に使用してみると、うまく溶けず、また鋳造した大砲も脆く使用に耐えるものではありませんでした。大砲の鋳造には炭素含有量が4%程度の柔軟で溶けやすい銑鉄(鋳鉄)が大量に必要ですが、たたら製鉄による和鉄は、砂鉄を比較的低温で還元させるため、炭素の含有量が極めて少ない錬鉄であり、また不純物の除去が不十分で品質にばらつきがありました。そのため、和鉄を使用するためには、和鉄の精選を行い、「甑(こしき)炉」で溶かして鉄の性質を変えてから反射炉に使用していました。幕府や佐賀藩では和鉄が鋳砲に流用できると考えて熔鉱炉を建設していなかったため、鋳砲用の銑鉄の供給に支障をきたしたようで、佐賀藩では輸入した軍艦「電流丸」のバラスト(船体を安定させるために船底に積まれていた死重の鉄材)を流用したと言われています。
 鹿児島では古くから南九州沿岸の砂鉄を利用して製鉄が盛んに行われてきた地域で、18世紀以降に大坂の市場にも薩摩産鉄が大量に出回っていました。これらは、いわゆる「石組製鉄炉」での鉄の量産によるもので、安価な鉄を市場に供給していました。しかし、南九州沿岸の砂鉄は、リンやチタンが多く含まれているため、良質の銑鉄の精錬は難しいことがわかっていました。島津斉彬は「日本在来ノ鉄ハ其質精良ナラズ鋳砲ノ料ニ供シガタク、依テ洋法ノ銑ヲ製セザレバ反射炉ノ用ヲナサザル」と述べています。そのため薩摩藩では鋳砲事業の計画に当初から熔鉱炉を組み込み、熔鉱炉・反射炉・鑽開台を一連のものとしてつくりあげていたことに特徴があります。反射炉に先行して1854(安政元)年7月頃に完成した熔鉱炉では、志布志や頴娃(えい)の砂鉄、吉田(現在の宮崎県えびの市)の鉄鉱石を原料として、1回の操業(三昼夜)で3千6百斤(約2160kg)の銑鉄を生産したと言われています。これは日本で初めての熔鉱炉による銑鉄の生産でした。しかし、送風に使用した水車を動力とした鞴(ふいご)が動力不足であったため、熔鉱炉の操業も不調で、集成館への新たな水路の掘削が計画されましたが島津斉彬が急死したために、計画が中止され、安定した連続操業は実現しませんでした。

造砲事業(反射炉、鑽開台)
 反射炉はロストル(燃焼室の火床)で燃料(石炭・木炭)を燃やし、その炎(熱)を炉壁に反射させて熔解室の炉床に置かれた銑鉄を溶かすものです。反射炉の大きさにもよりますが、1つの反射炉で約3トンの銑鉄を溶かすことができました。日本の在来技術である「甑(こしき)炉」では、これだけの銑鉄を溶かすことは不可能でした。
 反射炉の建設は、オランダ陸軍のヒューゲニン少将(U.Huguenin 1755-1834)が著した「 HET GITWEZEN IN's RIJKS IJZER-GESCHUTGIETERIJ,TE LUIK 」(「ルイク国立鋳砲所における鋳造砲」)を入手して翻訳することから始まりました。
1850(嘉永3)年には佐賀(築地・多布施)、その後に薩摩(集成館)、幕府(韮山)、水戸(那珂湊)、鳥取(六尾)、福岡(博多)、岡山(大多羅)、大分(安心院)などで反射炉が建設されていきました。
 薩摩藩では、反射炉の建設で先行していた佐賀藩から「西洋鉄熕鋳造篇」(手塚謙蔵・訳)を譲り受け、これをもとにして1851(嘉永4)年に鶴丸城内の花園に反射炉のひな形を建造して製煉所(のちの開物館)で実験を開始しました。1852(嘉永5)年には磯別邸に隣接する竹林を切り開いて反射炉(1号炉)の建設に着手し、1853(嘉永6)年夏に落成しました。しかし炉の温度が上がらず、耐火レンガも溶けて、反射炉も傾き失敗してしまいました。続いて2号炉の建設に着手し、1856(安政3)年頃に試行錯誤を繰り返しながら、砲重量が3〜5トンに達する大型の鉄製砲の鋳造が可能となりました。1957(安政4)年には当時の最大砲である150ポンド砲の鋳造に成功しました。
 なお水戸藩の那珂湊に建設された反射炉には、水戸藩主・徳川斉昭らに招聘された南部藩士の大島高任と薩摩藩の竹下清右衛門が係わっており、のちに水戸藩の反射炉へ銑鉄を供給するために大島高任は南部藩領の釜石に大橋高炉を建設することになりました。釜石付近で豊富に産出する鉄鉱石を原料とする大島高任の熔鉱炉建設は、日本の洋式製鉄の基礎を築くことになりました。

蒸気機関の研究
 大海原を自由に航海できる蒸気船が欲しいと考えていた島津斉彬は、オランダで1837年に出版されたフェルダム(G.J.Verdam)著「Volledige verhandeling over de stoomwerktuigen」(水蒸気盤精説)を入手して1848(嘉永元)年に幕府天文方翻訳員・箕作阮甫に依頼、1849(嘉永2)年に翻訳書「水蒸船説略」(本文6冊、附図1巻)が完成し、蒸気船と蒸気車(蒸気機関車)の研究を開始しました。藩主になった直後の1851(嘉永4)年2月に江戸田町の藩邸で肥後七左衛門・梅田市蔵らに、5月には鹿児島で肥後七左衛門・宇宿彦右衛門らに蒸気機関の雛形を製造を命令しました。こうして1851(嘉永4)年の冬に、鹿児島城内の製煉所で蒸気機関の雛形製造が始まり、約8ヶ月で完成し、続いて江戸と鹿児島で同時に蒸気機関の製造が始められました。
 1853(嘉永6)年9月に幕府は大船建造禁止令を解禁したことを受けて、薩摩藩では大船12艘、蒸気船3艘の建造計画を発表し、このうち2〜3艘を幕府に売却することを条件に許可を得ました。
1854(安政元)年には肥後七左衛門・梅田市蔵・三原藤五郎や蒸気機関職工の阪元与一らを長崎に派遣し、オランダの蒸気船などを見学させました。
 1855(安政2)年7月には、江戸で蒸気機関が完成し、この蒸気機関を鹿児島から廻航させた「越通船」(全長約16m)に搭載し、8月23日に日本初の蒸気船「雲行丸」を竣工させ試運転に成功しました。しかし12馬力程度の蒸気機関の大きさにもかかわらず蒸気漏れなどで2〜3馬力程度の出力しか出せませんでした。しかし満足な工作機械もなく純国産の蒸気機関を完成させた意義は大きいと言えます。鹿児島での蒸気船(全長約20m)の試作は、1855(安政2)年に進水しましたが試運転は失敗に終わりました。
 この後、1855(安政2)年10月に発生した江戸の大地震で莫大な経費が必要になったため、造船事業は中止されてしまいました。しかし、蒸気機関の研究は続けられ、蒸気船が主流になっていくことを考慮してオランダやフランスから蒸気船の輸入を計画し、市来四郎を琉球に派遣してフランスの蒸気船1艘の購入契約をまとめさせ、長崎では江夏十郎にオランダの蒸気船輸入を打診させていました。ところが1858(安政5)年に島津斉彬は急死し、計画は白紙にもどりました。

紡績事業(中村紡績所・田上水車館・永吉水車館)
 1843(天保14)年に編纂された「三国名勝図会」には鹿児島が織物の産地であることを挙げ、1776(安永5)年には織局が建てられたことを記しています。また、天保年間に薩摩藩の財政改革を行った調所広郷は商人の重久佐治右衛門に木綿織屋を建てさせて紡績業の新港を図りました。しかし薩摩藩内の需要を満たすことさえできませんでした。
 指宿の豪商・浜崎太平次(8世)から贈られた西洋糸が非常に精巧なことに島津斉彬は驚き、紡績事業に関心を持つようになったと言われています。島津斉彬は「米、塩、綿、鉄ノ四品ハ一日モ欠クベカラザル要品ナリ」と述べて、綿の生産を奨励しました。そして、中村紡績所を設置して手織機で綿布の生産を行いました。しかし生産の増大にはあまり効果がありませんでした。特に需要があったのは帆布で、薩摩藩内には約5300艘(安政4年)の船舶があり、これらの船が使用する帆布1万5千本(約360トン)は、ほとんど大坂から購入していました。そこで、1858(安政5)年に水力を利用した綿布生産のための機械紡績所「田上水車館」を設置しました。田上水車館では直径約6m水車で織機4台を動かしていたということです。さらに永吉にも水車館が設置されました。

電気通信事業
 薩摩藩では1855(安政2)年に藩主・島津斉彬が蘭学者緒方洪庵・川本幸民・杉田成卿らに、電気・電信に関する書籍の翻訳をさせ、家臣・宇宿彦右衛門・肥後七左衛門・梅田市蔵らに電信機の製造を命じています。電信機は安政2年夏に完成し、江戸渋谷藩邸内で斉彬臨席のもと試験が行われました。斉彬はこの電信機を鹿児島へ持ち帰りさらに改良を加えさせ、1857(安政4)年4月に鶴丸城内の本丸休息所と二の丸探勝園の間の約600mに電線を引いて実験を行い通信に成功しました。

ガラスの製造(薩摩切子など)
 薩摩切子は、透明なガラスに藍や紅などの色ガラスを被せ、色ガラスをカットすることによって文様を浮かび上がらせたものです。28代藩主島津斉彬によって、薩摩藩が外国へ輸出する商品として開発させたと考えられています。薩摩藩でのガラス製造は1846(弘化3)年に27代藩主島津斉興が硝酸や医薬品を製造するために設置した「中村製薬館」で薬ビンを製造したことに始まります。島津斉彬は、ガラス製造を藩の事業として展開したことが、江戸や長崎のガラス製造とちがって産業としての急成長を薩摩藩が遂げさせた原因と考えられます。斉彬は藩内の蘭学者の宇宿彦右衛門、中原猶介、江夏十郎らに色ガラス、硬質ガラス、板ガラス、カットグラスなどの研究をさせ、数百回の試験を経て高度な技術を要する紅ガラスの製造に成功しました。これには着色剤と温度管理にノウハウがありました。江戸時代に紅ガラスを製造できたのは薩摩藩だけで、「薩摩の紅硝子」と呼ばれ珍重されました。また、板ガラスや半球体ガラス(船舶用)の製造も行いました。当時、集成館のガラス工場には、銅赤ガラス窯2基、金赤ガラス窯2基、クリスタルガラス窯1基、板ガラス製造窯1基、鉛ガラス製造窯数基があったということです。斉彬の急死以後、ガラス事業は縮小されガラス師はわずか5人になったということです。薩英戦争では工場は破壊されましたが、戦後の1866(慶応2)年に再建されました。一旦は復興したガラス製造ですが1877(明治10)年の西南戦争の頃には途絶えてしまったようです。明治維新後に薩摩藩のガラス職人は、明治9年に設立された品川硝子製造所に従事しており、その技術が全国に波及していったと考えられます。

陶磁器(窯業)
 薩摩焼は、1592年〜1598年の文禄・慶長の役に参加した薩摩藩17代藩主島津義弘が朝鮮半島から連れてきた陶工たちによって興され、黒薩摩・城薩摩が生み出されました。島津斉彬は、この伝統産業である薩摩焼を輸出品とするために、外国人好みの絵付けが施され製造されるようになりました。
なお、明治維新後の薩摩焼ブームによって、薩摩焼は京都、大阪、東京、横浜、神戸などでもつくられていました。


洋式銃・火薬・雷管の製造とアルコールの製造
 薩摩藩での洋式小銃と洋式砲(青銅砲)の製造は、1846(弘化3)年に27代藩主・島津斉興が鹿児島城下の上町向え築地海岸(現在の鹿児島駅周辺)に鋳製方を設置したことに始まります(鋳製方はのちに集成館へ引き継がれます)。ここでゲーベル(Geweer)銃(火打石を鋼鉄面に打ち付けたときにできる火花を火薬に点火させる燧石(フリント)銃)でしたが、すでに時代遅れになっていました。28代藩主・島津斉彬は1856(安政3)年に、雷酸第2水銀である雷汞(らいこう)を起爆剤とした雷管銃の製造を始めました。雷酸第2水銀は水銀を硝酸に溶かし、エチルアルコールと反応させてつくるもので、1774年にフランスで発明され、少しの衝撃で爆発するために起爆剤として使われました。大量のアルコールを必要とする雷汞の製造に、薩摩藩では焼酎を流用しました。当時薩摩藩では米焼酎が主流で、匂いのきつい薩摩芋を原料とした芋焼酎は人気がなく、あまり製造されていませんでした。この芋焼酎を工業用として、また特産品とするために改良に着手しています。
 火薬製造は文政年間(1818年〜1830年)に設立された滝之上火薬製造所(現在の鹿児島市稲荷町滝之神)で水車を動力として黒色火薬の大規模な製造を行っており、1849(嘉永2)年には製造方法が洋式に変更されたと言われています。火薬の原料である硫黄・木炭は領内に豊富にありましたが、硝石(硝酸カリウム)は不足していました。そのため島津斉彬は硝石の合成を計画し、石川確太郎に蘭書を翻訳させて作硝場を谷山中之塩屋(現在の鹿児島市小松原一丁目)に造りました。
 また、黒色火薬よりも爆発力が大きい綿火薬(無煙火薬)について松木弘安(寺島宗則)の蘭書からの翻訳を手がかりに1848(嘉永元)年から試作を開始し、1953(嘉永6)年に鶴丸城内花園の製煉所で製造に成功しています。


出版事業(金属活字の製造)
 教育水準の向上を図るために、出版事業に力を注ぎ、「四書」「五経」「遠西奇記述」など数多くの書籍を出版しました。また、江戸の木版師・木村嘉平に金属活字の製造を命じました。木村嘉平は、金属のイオン化傾向の差を利用して銅製の母型を造り、これに鉛を流して活字を完成させました(電胎法)が実用化には至りませんでした。

ガス燈の実験
 島津斉彬は、石炭ガスの製法やガス燈に関する書籍の翻訳を蘭学者の松木弘安(寺島宗則)、八木称平に命じ、その翻訳書を手がかりにして安政4年7月にガス燈の実験を集成館内の大砲鑽開場で行ったのち、8月には別邸である仙巌園の浴室付近にガス室を設け、庭内の鶴灯籠にガス管を引いて点灯させました。鹿児島城下にガス燈を設置しようと計画し、家臣の三原藤五郎に見積もらせましたが、安政5年7月に斉彬は急死し、計画は実行されませんでした。

水車動力の改良

農機具・農産物の改良増産(砂糖など)

洋式製油・製塩
島津斉彬は「米、塩、綿、鉄ノ四品ハ一日モ欠クベカラザル要品ナリ」と述べて、これらの生産を奨励しました。

製薬
薩摩産の樟脳は、江戸時代初期からヨーロッパに輸出されていました。ヨーロッパでは防虫剤としてではなく医薬品(カンフル剤)として利用され、「サツマカンフル」と呼ばれて珍重されていました。当時ヨーロッパで使用されていた樟脳の大部分が薩摩藩製であったという記録もあります。

写真の研究(銀板写真、湿板写真)
1839年にフランス人ダゲールが発明した銀板写真(ダゲレオタイプ)は、1848(嘉永元)年頃に日本に伝わり、研究が始まりました。その指導的立場に立っていたのが島津斉彬を中心とする研究グループで、1857(安政4)年に撮影に成功しました。島津斉彬の銀板写真(印影鏡)は、日本人が撮影した最古の写真となっています。


仙巌園(磯庭園)
1658(万治元)年、薩摩藩19代藩主・島津光久が別邸を構えたのがはじまり。

磯御殿
 島津家の別邸として建てられた御殿は、明治維新後は鹿児島における島津家の生活の拠点となり、本邸として利用されたこともありました。現在では明治17年に改築された部分を中心に、本邸として使用されていたころのおよそ3分の1が残されています。その一部は一般にも公開されています。


余談?

(株)島津製作所の「丸に十文字紋」
 京都に本社のある「島津製作所」(理化学機器をはじめとして有名なメーカーですが・・・2002年に島津製作所の技術者・田中耕一さんがノーベル賞を受賞したこともあり、非常に有名になりました)は島津家の家紋と同じ「丸に十文字紋」を使っています。その理由は島津製作所のWebページにあります(^^)
 「島津創業記念館」は国の重要文化財となっています。

島津雨・・・・島津氏初代島津忠久の出生の伝説に由来


参考文献
尚古集成館「島津家おもしろ歴史館2〜集成館事業編」1998(平成10)年
田村省三「尚古集成館〜島津氏800年の収蔵」(かごしま文庫12)春苑堂出版 1993(平成5年)
尚古集成館「尚古集成館」1987(昭和62)年


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