産業技術遺産探訪 2005.11.27.

荒船風穴

下仁田町重要文化財
2007(平成19)年1月指定

1905年(明治38)年竣工

蚕種貯蔵用風穴

群馬県甘楽郡下仁田町南野牧屋敷

 荒船風穴は下仁田町の庭屋静太郎が資本金5000円(当時)を投資し、研究者の協力によって築造されました。当時の蚕種貯蔵能力は日本国内で最も高かった(蚕卵紙約100万枚を貯蔵)と言われています。蚕種貯蔵の委託は国内33都府県にも及んだということです。 


約3mの高さに石垣を組み、岩の間から吹き出す冷風によって蚕種を貯蔵した施設跡(3か所)が現在も残っています。
群馬県の旧 北甘楽郡内には、蚕種貯蔵施設としてこの「荒船風穴」の他に「星尾風穴」がありました。

 「荒船風穴」は、群馬県の旧 西牧村大字南野牧村字屋敷にありました。(施設の一部が現存しています。)ここは荒船山の北麓で海抜870mの地点です。かつての荒船風穴は盛夏でも岩石の間から吹き出す風が寒冷で、付近には氷塊が堆積しており「里俗氷穴」と呼ばれていました。この風穴を利用して蚕種を貯蔵し始めたのはかなり以前から(日本の風穴の嚆矢と言われている信州安曇の前田家漬物小屋と前後するくらい古い)と言われています。

 1904(明治37)年、高山社養蚕学校に在学中の庭屋千壽がこの風穴に注目し、数回にわたり踏査を行い蚕種貯蔵に適していることを確認して、父の庭屋静太郎に報告しました。
 庭屋静太郎は、資本金5千円(当時)で、1905(明治38)年9月に貯蔵所の建設を起工しました。施設に関する指導者は、群馬県技師 鈴木貞太郎、群馬県農会技師 宮田傳三郎、群馬県技手 北爪長太郎、藤間大次郎、佐藤辰太郎、菊地清夫、農事試験場技手 菊地助松、群馬県建築技手 小林源次郎、前橋測候所長技師 赤井敬三で、合議の上設計を行いました。これらの設計は、貯蔵室の建築をはじめ、貯蔵箱、蚕種取扱法にいたるまで綿密に行われました。貯蔵室には蚕種10万枚が貯蔵可能で、間口7間(約12.7m)、奥行3間半(約6.4m)、深さ15尺(約4.5m)の貯蔵庫が上室と下室の二段に仕切られていました。下室(室内の高さ7尺(約2.1m))、床下1尺(約0.3m))が秋蚕種遅出場、上室(高さ7尺(約2.1m))が早出および究理室となっていました。蚕種を風穴の貯蔵庫から出すときに、低温の場所から盛夏の高温の場所へ持ち出すことなく、二階から三階へと「生理的順温出穴」できることが荒船風穴の貯蔵所の特色でした。このことが蚕種貯蔵の成績を極めて良好なものとし、「風穴界の覇王」と呼ばれていたそうです。

 1905(明治38)年の営業開始当時における委託蚕種枚数は約5千枚で、1906(明治39)年には約2万5千枚、1907(明治40)年は約7万枚と増加していきました。
 委託地域は、東京、京都、群馬、埼玉、茨城、千葉、栃木、新潟、愛知、鳥取、島根、愛媛の2府10県を主とし、宮城、岩手、福島、秋田、青森、石川、富山、福井、長野、静岡、神奈川、三重、滋賀、兵庫、岡山、高知、山口、広島、佐賀、徳島、鹿児島の21県と日本全国に及びました。

 蚕種貯蔵量の増加に伴い、1908(明治41)年に蚕種70万枚が貯蔵可能な11間半(約20.9m)×4間(約7.3m)の土蔵を新設しました。ここには群馬県農会と前橋測候所が毎週出張して、「自動験温・験湿器」(自動温度・湿度測定器)によって管理されていました。この土蔵の平均気温は、5月 華氏34.53度(摂氏1.41度)、6月 華氏35度(摂氏1.67度)、7月 華氏35.83度(摂氏2.13度)、8月 華氏38.06度(摂氏3.37度)、9月 華氏40.63度(摂氏4.79度)となっていました。
 土蔵の設計は、これまでの貯蔵所の設計者に加え、東京蚕業講習所長 本多 農学士、高山社 社長 町田菊次郎、群馬県農事試験場長 佐々木 農学士、蚕業技師 中塚庄蔵の合議によって設計されました。


参考資料

矢島太八「甘楽産業叢談 富岡地方郷土史料」木田書店 1909(明治42)年
復刊・・・矢島太八「甘楽産業叢談 富岡地方郷土史料」「甘楽史観 郷土の花影」国書刊行会 1988(昭和63)年


群馬県内のおもな蚕種貯蔵用風穴跡

栃窪風穴
(群馬県吾妻郡中之条町栃窪)

荒船風穴
(群馬県甘楽郡下仁田町大字南野牧屋敷)

星尾風穴
(群馬県甘楽郡南牧村大字星尾)

黒岩風穴
(群馬県高崎市箕郷町松之沢)

榛名風穴
(群馬県渋川市伊香保町伊香保)


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