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技術のわくわく探検記 2001.8.13.

生野鋳鉄橋群
竣工 明治16年4月〜18年3月頃
現存するものでは日本最古の鋳鉄製アーチ橋

(鉄橋としては日本では三番目に古い)

兵庫県朝来郡朝来町

神子畑川上流の明延鉱山〜生野鉱山間の鉱石運搬路鋳鉄橋
設計・製作者 不明
所有 明延鉱業株式会社
管理 兵庫県朝来郡朝来町

神子畑鋳鉄橋
現存最古の鋳鉄製単径間アーチ橋
国指定重要文化財
1977(昭和52)年6月27日指定
羽渕鋳鉄橋
現存最古の鋳鉄製2径間アーチ橋
兵庫県指定文化財
1976(昭和51)年3月23日指定
 
 明治維新後に官営となった生野鉱山は、フランス人技術者コワニエ(Coignet,F.)ら24名のお雇い外国人
技術者によって開発が進められ採鉱・冶金技術の近代化に大きな貢献を果たしました。生野鉱山の北西に
ある神子畑で良質の銀鉱脈が発見され、明治14年から採鉱の準備がはじまりました。
 明治16年4月からは、神子畑で採掘された鉱石を生野鉱山にある精錬所へ運搬するための鉱石運搬路
の建設がはじまり、明治18年3月までに延長16.22kmの運搬路が総工費4万円をかけて建設されました。
このとき、この運搬路に「神子畑鋳鉄橋」「羽渕鋳鉄橋」など型式の異なる5つの橋梁が架けられました。
 この運搬路による鉱石の輸送には、はじめは手引車や牛車によるものでしたが、明治22年には鉄道馬車
やトロッコを使うためにレールが敷設されました。昭和32年11月からはトラックによる輸送となったため、運
搬路は廃止されて一部は農道として使われています。

 なお、鋳鉄製のアーチ橋はイギリスのコールブルックデール(Coallbrookdale)にあるセバーン河(Severn)
に架けられたアイアンブリッジが最初のもので、それまでの石造橋梁の技術が鋳鉄橋の架橋に応用されて
います。「神子畑鋳鉄橋」や「羽渕鋳鉄橋」が架けられた当時は、すでに欧米では「鋳鉄」から「錬鉄」の時代
に移り変わり、日本でも明治11年に竣工した国産初の鉄橋「弾正橋」(工部省赤羽製作所製)は、鋳鉄と
錬鉄が混成されて用いられています。(圧縮力に強い「鋳鉄」がアーチ部の部材として、引張力に強い「錬鉄」
が引張材として用いられています。)また、「神子畑鋳鉄橋」や「羽渕鋳鉄橋」の鋳鉄には燐(P)の含有量が
異常に多く含まれており、これは、鋳造のときの鋳型に鋳込む際の湯(熔解した鉄)の流動性を良くするため
の日本の伝統的な鋳造技術によるものと考えられています。



 みこはた   ちゅうてつきょう
神子畑鋳鉄橋
現存最古の鋳鉄製単径間アーチ橋 国指定重要文化財
橋長 16.1m  径間 14.09m  幅員 3.57m
兵庫県朝来郡朝来町
 明治16年4月〜明治18年3月頃に神子畑から生野までの鉱石運搬道に架けられた5つの
鋳鉄橋のうちの1つ(ただし現存するものは神子畑鋳鉄橋と羽渕鋳鉄橋の2つだけ)です。
羽渕鋳鉄橋は中央に円柱ピーヤ(支柱橋脚)がある2径間アーチ橋(二連アーチ橋)ですが、
この神子畑鋳鉄橋は単径間アーチ橋(一連アーチ橋)となっています。
 

 1977(昭和52)年6月27日に近代の橋梁としては初めて国重要文化財に指定されました。
このとき、同時に指定されたのが、旧・弾正橋(明治11年竣工 工部省赤羽製作所製 東京都
江東区富岡 現在の八幡橋)で、こちらは現存する国産初の鉄橋です。 



神子畑鋳鉄橋

東京大学教授 村松貞次郎 記

この神子畑鋳鉄橋は、今から約90年前の明治16年から同18年の間に架けられた全鋳鉄製のアーチ(拱)橋である。
下流の羽渕鋳鉄橋とともに日本に現存する鉄橋としては三番目に古いものであり全鋳鉄橋としては唯一最古のものである。とくにこの神子畑橋は殆ど改修を加えられることなく、建設当初の場所にその美しい姿を遺していて、日本の土木技術史上まことに貴重な資料であるばかりでなく、郷土の誇るべき文化財である。
明治初年以来フランス人技術団を招いて開発を進めていた官営生野鉱山は、明治十一年この神子畑附近に良鉱を発見し開掘を進めるとともにその銀鉱石を生野鉱山において精錬するための鉱石運搬道(四里四丁五四間約16.3キロメートル)を明治十六年四月より同十八年三月にかけて建設したこの運搬道の五個所にそれぞれ型式の違う鉄橋が架けられたが、この神子畑橋はそのもっとも上流の神子畑川に架けられたものであり、現在は三菱金属株式会社の所有である。設計製作とともに当時生野鉱山を所管していた政府の工部省において行われたものと考えられるがこの場所での建設は技師松井敬馬之助、技手関某および諏訪某の監督のもとに鉱石運搬の業を請負った山内安左衛門ら近隣村民の労働によって完成を見たものである。橋長約16メートル、径間約十四・二メートル、幅員約三・六メートル、主要部材のすべてが鋳鉄製である。
全鋳のアーチ橋は鉄橋の歴史においても最古の型式であって、一七七九年イングランドのコールブルックデールを流れるセバーン河に架けられて現存しているものを嚆矢とするその細部に木橋、石橋の手法を残しているのも鋳鉄アーチ橋が鉄橋の型式としてもっとも初めのものだからであり、この神子畑橋においてもそれが見られる。
橋はその後錬鉄橋の時代を経て今日の鋼鉄橋の時代に至りその構造型式も進歩してきたが鋳鉄のアーチ橋はイギリスにおいてもまた日本においてもその産業革命の初期を飾るにふさわしい力強くしかもロマンチックな美しさをもっていた。しかし今はほとんどその現存例を見ない。日本においてはもともと鋳鉄アーチ橋の架けられた例は稀で現在はこの神子畑と羽渕の二橋を残すのみである。
この貴重な美しい橋を今日まで保存された関係者の功績は偉大であるが、さらに多くの人々の協力によって
この美しい環境の中に永遠に伝えられることを祈ってやまない。

三菱金属株式會社 明延鑛業所
維時昭和四十九年十一月
重要文化財神子畑鋳鉄橋修理記

事業概要

半解体修理工事
着工 昭和五十七年 九月
竣工 昭和五十八年 十月
総事業費 四千百万円

内訳
二千五十万円 国庫補助
千二十五万円 兵庫県補助
千二十五万円 朝来町費

施工者 朝来待ち(管理団体)

建設および沿革
 この橋は明治政府が生野・神子畑間の功績運搬路に設けた五橋の一で、明治十八年に竣工した。はじめは手引車や牛車を通したが、のちに鉄道馬車、トロッコを使い、レールを敷設した。所管は工部省から農林■務省、大蔵省・宮内省と転じ、明治二十九年三菱合資会社に払い下げられ、昭和三十二年に鉱石運搬路の用途を廃止して農道橋として残され、昭和五十一年から明延鉱業株式会社の所有となり、翌五十二年に重要文化財に指定された。
 建設後、大型トロッコの運行に伴い、高欄親柱を撤去して、ワイヤーロープによる補強が行われ、近年は橋床のレールを外して枕木を敷き並べていた。

修理の大要
 今回の修理は、昭和五十四年度に朝来町が財団法人建設工学研究所に委託して行った構造診断の結果に基づき、アーチおよびスパントレル以外を一旦解体し、強度上支障のある部材や欠失部材は在来同等の鋼材を用い、寸法形状とも残存材に倣って補足し、構造・型式・技法とも旧規を踏襲して組み直した。なお後世の改変部は資料によって可及的に当初の形に復旧整備すると共に、橋畔を整えた。

この事業は管理団体朝来町の直轄事業とし、設計管理は財団法人建築研究協会に委託、施工は三菱重工業株式会社の請負とした。

現状変更要旨
一、高欄親柱を復した。
二、橋床を厚板敷に整えた。

以上工事の概要を記して後の資とする。

昭和五十八年十月三十一日

管理団体 朝来町長 橋本哲朗
補修工事記
平成四年十二月 橋床板取替え
担当者・(財)建築研究協会 平田文孝




  はぶち ちゅうてつきょう
羽渕鋳鉄橋
現存最古の鋳鉄製2径間アーチ橋 兵庫県指定文化財
橋長 18.27m 幅員 3.6m
兵庫県朝来郡朝来町
 明治16年4月〜明治18年3月頃に神子畑から生野までの鉱石運搬道に架けられた5つの
鋳鉄橋のうちの1つ(ただし現存するものは神子畑鋳鉄橋と羽渕鋳鉄橋の2つだけ)です。
神子畑鋳鉄橋は単径間アーチ橋(一連アーチ橋)ですが、この羽渕鋳鉄橋は中央に円柱ピーヤ
(支柱橋脚)がある2径間アーチ橋(二連アーチ橋)となっています。
 洪水で一度流失しましたが修復されました。


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