産業技術遺産探訪 2000.4.9./2000.5.14.
 2002.12.15.
(産業考古学会 金属・鉱山分科会見学会) 2005.2.13./2005.3.6.(中小坂鉄山研究会 現地見学会)

中小坂製鉄所跡
日本初の近代洋式製鉄所
1874(明治7)〜1875(明治8)年頃?操業
群馬県甘楽郡下仁田町中小坂

 中小坂(なかおさか)での磁鉄鉱の採掘精錬は、幕末の弘化(1844)〜嘉永(1848)年間に、名主・永井嘉右衛門、鉱山所有者・石井忠左衛門によって始まったと伝えられています。小栗上野介も幕府直轄の大砲鋳造所を作ることを提案したときに、この中小坂鉄山に目をつけていました。
 1875(明治8)年頃に近代的な製鉄所が英国人技師の指導によって機械類(蒸気機関など)、焙焼炉、(木炭)高炉などを全て輸入し、民間人の出資組織によって建設され操業を始めました。鉄の原料となる良質な鉄鉱石(明治10年当時で埋蔵量は500トンと推定)や、製鉄のための燃料となる木炭が豊富に供給できることから、中小坂が近代的な製鉄所の立地条件を満たしていました。古来から日本における製鉄法は、砂鉄を原料とした「たたら製鉄」でしたが、鉄鉱石を原料とする中小坂製鉄所で、日本における近代的な洋式製鉄技術がはじめて導入されたことになります。蒸気機関、焙焼炉、(木炭)高炉、鋳造所、錬鉄所、鉱石運搬軌道、木炭運搬軌道など新鋭設備を備えた画期的な製鉄所でした。
 1876(明治9)年からは、由利公正(石川県士族、明治維新の「五箇条御誓文」起草者)らが経営しました。
 1977(明治10)年に、4万2000円で政府に買い取られ、工部省が経営する官営製鉄所となります。英国人技師オートル、スウェーデン人技師ベルクリンらの指導によって操業が開始されました。明治10年ころの生産量は600トン前後ということです。明治13年に岩手県の官営釜石製鉄所ができるまでは、日本唯一で最大の洋式製鉄所(はじめは民営で操業)となりました。その後、高炉の損傷などで修繕費がかさむことなどの理由で、明治17年に再び民間へ払い下げられました。採算が合わず経営に苦慮するするなかで、経営者が次々に変わり、明治42年には操業を停止しました。そして大正7年に製鉄所のおもな施設・設備が撤去されます。大正時代中頃には採鉱のみが行われるようになり、戦時中を中心にして、採鉱は1961(昭和36)まで行われていました。
 現存しているものとしては、坑道跡(および江戸時代の露天掘り跡)、焙焼炉の基礎となっていた煉瓦やコンクリートの一部、飯場跡と石垣、トロッコの軌道跡、石宮と鋳鉄製鳥居などです。
 中小坂製鉄所の写真は、これまで見つかりませんでしたが、1986(昭和61)年に宮内庁に中小坂製鉄所の操業直後で明治11年頃に撮影されたと推定される貴重な写真が保管されていたことがわかりました。(上毛新聞1986(昭和61)年6月10日)この写真は、明治11年9月に明治天皇が東北巡幸で群馬県に立ち寄られるのに先立ち、宮内庁の関係者が群馬県のおもな所を撮影し、天皇に差し上げるためのアルバムを制作した際に撮影されたもののようです。1986年7月に刊行された「群馬県史 近代・現代8 産業編2」で初めて紹介されました。

中小坂製鉄所に使用された煉瓦および経営者等の詳細はこちら
     (関連項目・・・・「品川白煉瓦(旧・品川白煉瓦製作所 明治20年製)
                  JR大井町駅中央西口前(東京都品川区大井1−50)」

旧・坑口がいくつか残っています。 旧・製鉄所と鉄山の方向を望む
旧・製鉄所跡に現在お住まいの中沢喜一さんにいただいた旧・中小坂鉄山の鉄鉱石と煉瓦 焙焼炉跡
現存する煉瓦造の焙焼炉跡

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