産業技術遺産探訪 2005.10.22.

旧 宇津野発電所

1904(明治37)年竣工

盛岡市指定有形文化財
1979(昭和54)年8月1日指定

岩手県盛岡市川目第9地割168番地1

岩手県に初めて電灯をともした水力発電所

 1896(明治29)年、当時盛岡市長だった清岡等は、盛岡の財界人であった村井弥兵衛らと、日本初の水力発電所として1888(明治21)年に運転を開始した仙台の三居沢発電所などを視察し、水力発電に大きな可能性を見いだしました。清岡は、水力発電所の建設に向けて河川の調査を開始しましたが、三陸一帯を襲った大津波で岩手県に大きな被害が出たこともあり、事業をまとめ上げるまでに至りませんでした。
 1904(明治37)年7月、盛岡電気株式会社が設立(資本金10万円)されました。社長は、このときすでに盛岡市長を退いていた清岡等が就任しました。
 1904(明治37)年に設立された盛岡電気株式会社(現在の東北電力株式会社)によって、1904(明治37)年1月に宇津野発電所が着工されました。簗川に取水口を設置し、3.8kmの水路と水圧鉄管によって落差33.3mをつくりだし、噴射式で水車を回転させる方式を採用していました。1905(明治38)年9月、宇津野発電所は運転を開始し、盛岡市内(肴町、内丸、紺屋町、大沢川原付近)の民家77戸、434灯(当時の盛岡市の世帯の80軒に1軒程度)に電気を供給し岩手県で初めて電灯をともしました。電気料金は、10燭光(約13Wに相当)で1ヶ月55銭でした。当時の物価(米10キロ約88銭、理髪店約15銭)と比較すると、庶民にとってはやはり高価なものでした。
 発電所の建物は、平屋建158.67m2で半地下となっています。発電機は開業当初は、米国ウエスチングハウス社製で出力120kW、電圧2200V、周波数60Hz、回転数720rpmで、その後改造が施され250kWになりました。水圧鉄管は、内径95cm、厚さ9mm、長さ72.3mです。
 69年間発電し続けた宇津野発電所は、1973(昭和48)年7月に運転を終了し、1974(昭和49)年5月に、東北電力株式会社から盛岡市に譲渡されました。1979(昭和54年8月に盛岡市指定有形文化財となり岩手県内に現存する最古の発電所(岩手県の電気事業発祥地)として保存されています。

 盛岡電気株式会社は、その後「盛岡電気工業株式会社」と改称、さらに1927(昭和12年)の電気業界の整理・合併により「盛岡電灯株式会社」となり、1028(昭和13)年には、秋田県域にも業務を拡大し「奥羽電灯株式会社」と改称しました。しかし、戦時体制下の1943(昭和18)年には配電統制令により全ての電気会社は解散し、「東北配電株式会社」に統合されました。1951(昭和26)年、電力業界再編成により「東北電力株式会社」が誕生しました。現在、かつての盛岡電気株式会社の所在地には、東北電力株式会社岩手支店があります。              



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建物の構造は、総ひのき造り、切妻平屋建て(158.67m2)半地階の洋風木材建築で、外観は下見張りのペイント塗仕上げ、窓建具は上げ下げ式、建物正面にはドーマウィンドウが付き、切妻庇の破風飾板の透かし彫りが特徴です。工場としての建物のために天井はなく、洋小屋式のクインポストトラス型(対束小屋組)となっており、これらの特徴は明治の木造建築の手法を見る上で重要な文化財であることを示しています。
また、現存する建物基礎部の石積み(地階部分)や放水路の石積みなどから竣工当時の状況を読み取ることができます。

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破風飾板

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発電機・水車・励磁機

宇津野発電所の機械設備は米国製のものが使用されました。発電機、励磁機は、ウェスチングハウス社製、水車はレックエル社製で、いずれも当時としては最新鋭の設備でした。
運転開始当初の発電機の出力は120kWでしたが、明治40年(1907)に発電機1基(出力180kW)が増設され、総出力は300kWとなりました。その後、昭和6年(1931)に出力120kWの発電機が廃止され、出力180kWの発電機は改造されて、250kW(現存)となり、昭和48年(1973)7月の廃止まで運転されました。
コイル等は再三の補修・修理がされましたが、発電機本体は、岩手の近代化と産業・生活エネルギーの革命的変化を生み出した当時の姿をとどめています。

設備諸元(開業当初)

発電機 ウェスチングハウス社製 三相交流式
120kW 2200V 60Hz 720回転

水車 レックエル社製 二重放水式横置タービン
200馬力

励磁機 ウェスチングハウス社製 複巻直流式
125V 10kW
励磁機・・・・発電機の磁界を作るための電源装置

WESTINGHOUSE
ELECTRIC & MFG.CO.
PITTSBURG,PA.,USA
Alternating Gurrent Generator
180K.W. 2200Volts 47Amps per Terminal
3Phase 60Cycles 600R.P.M.
Serial No.481948


三相交流發電機
K.V.A.250 VOLTS 2200
AMP,S 65 PHASE 3
CYC,S 60 R.P.M. 600
昭和六年十二月 改造
株式會社 芝浦製作所


三相交流發電機
K.V.A.325 VOLTS 3300
AMP.S 57 PHASE 3
CYC.S 50 R.P.M.500
昭和26年4月改造
北芝電機株式會社
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WESTINGHOUSE


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電業社原動機製造所製

水車
型式 横軸単輪単流渦巻フランシス
有効落差 33.33m
最大出力 350kW
最大使用水量 1.39m3/s
定格回転速度 500rpm
株式会社 電業社 製造昭和6年7月




直流發電機
NO.714332 TYPE DLO-1 FORM
K.W. 12 1/2 SPEED 600
VOLTS NO LOAD 125 FULL LOAD 125
AMPERES 100 WINDING COMPOUND
東京
芝浦製作所


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水路 送水管
宇津野発電所は、北上川水系簗(やな)川の上流に、低い堤防によって水を堰きとめ(俗に電気留という)、取水した水を水路(3.8km)により水槽(裏山上部建屋)まで導き、送水管から発電所下部に水を取り入れ、噴射式によって水車を回転させて発電する「自流方式」の水力発電所です。
発電所運転開始当初、水路は全部開渠でほとんど素堀りの原始的なものでした。後に水路は、石積みの個所を一部残し、大部分がコンクリート製に改修され、発電所廃止後は、沢田浄水場の導水路として活用されています。
裏山の送水管(鉄管)は、内径95cm、厚さ9mm、全長72.3mあります。現存の送水管は1本ですが、明治40年(1907)から昭和6年(1931)までは発電機が2基あったことから、送水管は2本ありました。

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岩手の電気事業の始まり
岩手県の電気事業の第一歩は、電気会社設立計画から実に8年もの歳月を要して始まりました。
明治29年(1896)、村井弥兵衛ら盛岡財界人の有志と、当時盛岡市長だった清

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日本最初の水力発電所 三居沢発電所(仙台市郊外)

東北で初めて電気がともったのは、明治21年(1888)7月1日、岩手に初めて電気がともる17年も前のことです。わが国初の水力発電所として、仙台市三居沢の紡績工場で出力5kWの発電機により発電されました。三居沢発電所は、今日でも、東北電力の発電所として電気を供給し続けています。(現在の出力は1000kW)
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1815
世界初のアーク灯点灯(イギリス)
1878(明治11年)
日本初のアーク灯が東京・虎ノ門の工部大学校で点灯
(電気記念日 3月25日)
1879(明治12年)
エジソンが白熱電球を発明
(あかりの日 10月21日)
1882(明治15年)
世界初の火力発電所がアメリカに誕生
エジソン電灯会社、ニューヨークに電気を供給
1887(明治20年)
日本初の火力発電所が東京に誕生
東京電灯会社、東京日本橋に電気を供給
1888(明治21年)
日本初の水力発電所「宮城紡績会社 山居沢発電所」が仙台市三居沢に誕生
東北地方の電気発祥
1890(明治23年)
日本鉄道 上野〜盛岡間が開業
1904(明治37年)
岩手県初の電気事業
「盛岡電気株式会社」設立(7月27日)
1905(明治38年)
岩手県初の発電所「宇津野発電所」運転開始
盛岡市肴町、内丸、紺屋町、大沢川原付近に初めて電気をともす(9月12日)
1908(明治41年)
盛岡市に電話開通
交換手7人、加入146人
1915(大正4年)
東北地方初の電気鉄道開通(花巻市内)
1925(大正14年)
岩手県初の火力発電所「平戸火力発電所」運転開始(盛岡駅前)
1936(昭和11年)
東北振興電力株式会社設立
1938(昭和13年)
電力国家管理法が成立
電気事業の国家管理始まる
1939(昭和14年)
日本発送電株式会社設立
1941(昭和16年)
東北振興電力、日本発送電と合併
1942(昭和17年)
東北配電株式会社設立
配電統制令による設立
1951(昭和26年)
東北電力株式会社設立(5月1日)
1960(昭和35年)
チリ地震津波襲来
配電設備に甚大な被害 停電16200戸
1963(昭和38年)
日本初の原子力発電成功
茨城県東海村、日本原子力研究所
原子力の日(10月26日)
1966(昭和41年)
日本初の原子力発電所が茨城県東海村に完成
日本初の地熱発電所「松川地熱発電所」運転開始
1973(昭和48年)
「宇津野発電所」廃止
約70年に渡る操業を停止
1974(昭和49年)
「旧宇津野発電所」が盛岡市に譲渡
1978(昭和53年)
東北電力「葛根田地熱発電所」運転開始
宮城県沖地震発生 停電68万戸
1979(昭和54年)
「旧宇津野発電所」が盛岡市有形文化財に指定
1984(昭和59年)
東北電力「女川原子力発電所」運転開始
1988(昭和63年)岩手県最後の未点灯地区「川井村タイマグラ」地区に電気がともる
2000(平成12年)
電力自由化がスタート
2005(平成17年9
岩手に電気がともって100年

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宇津野発電所内部の発電機(開業当初)

発電機の増設に伴う送水管の増設工事の様子(明治40年(1907)頃)

宇津野発電所の施設内部(明治40年以降)
明治38年(1905)の運転開始当初は、写真右側の発電機のみ(出力120kW)でしたが、明治40年(1907)に写真左側の発電機(出力180kW、現存)が増設され、総出力300kWとなりました。

宇津野発電所と構内のカーバイト製造工場(カーバイト製造は明治40年から)
明治40年(1907)に発電機を1基増設し、余剰電力を隣接するカーバイト工場に供給していました。
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「杜陵の光」盛岡電気株式会社開業の祝賀歌
(明治38年11月3日開業式典)

杜陵の光
勝つゞけ締むる兜のおきつきの、恵を掛けし築川や、あたゝら山の其下に水ひき起す発電機、水路の長さはめでたくも鶴の齢の一千間、みどり色ます石亀や石のタンクに水ためし、速秋津彦秋津姫二神の力ぞかしこけれ、たへまなくおちくる音のどふどふと、三尺鉄管二百尺みなぎる瀧とさす水に、アメリカ製のタアビンが七百回のまわり機に、をこす電気はこうあつの二千二百のボルトにて、三筋の線をつたへきて心のたけをうちあかせば、
 むねのとこやみ忽ちに晴れて輝く面白さ、実に盛んなる岡と呼ぶ名も今こそはあたならで、四季とも花さく不夜の城、こゝに見るこそ目出度けれ

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宇津野発電所が完成した時は、石川啄木も知人の社長に一文を寄せている。

啄木の、盛岡電気創立祝いの手紙。

盛岡電気株式会社の設立の報を聞いて、かの石川啄木が、社長である清岡等に手紙を書いたそうです。
「さて、かねて御計画の電気事業、この度いよいよ会社創立の運に至られ候由、先づ以て大慶に存じ上げ候。(中略)本年中には多分、小生が第二の故郷たる八歳客夢の杜陵も、文明の光に不夜の巷と相成り申可(後略)」。杜陵とは盛岡のことで、そこが夜も明るくなると書いています。
この手紙が書かれたのは1904(明治37)年。前年には故郷渋民村に帰郷したばかり。啄木が尋常中学校時代から寄稿していた岩手日報の当時の主幹が清岡で、親交があったのでしょうか。この手紙文はすぐに岩手日報に掲載されました。

清岡等
盛岡電気株式会社初代社長
盛岡市長

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 1903年(明治36)、盛岡市に竣功成った総桧造り、2階建てのモダンな擬洋風の岩手県庁新庁舎(1962年〈昭和37〉解体)では、暗くなると、石油ランプのもとで執務しなければならなかった。岩手県では、1896年(明治29)に、当時の知事服部一三が首唱した電気事業がなお実現にいたっていなかったからである。この項については、駒井健「岩手県の電気事業史」(『東北の電気物語』所収)に依拠するところが大きい。
 
 1896年、服部の提案によって電気事業先進地の視察が行なわれて間もなくの6月15日に、岩手県だけで犠牲者1万8150人を出した三陸大津波のため、電気事業の推進は、当面、沙汰止みとなっていた。
 
 その後、1898年(明治31)2月には合名会社藤田組(現同和鉱業株式会社)の小坂鉱山(秋田県)に勤務する盛岡市出身の戸川省次郎が同技師の長沢民治とともに岩手郡簗川村(現盛岡市)地内で北上川支流の簗川を利用する発電計画を発表し、また、同年中に県庁内において岩手郡玉山村から同郡米内村(現盛岡市)にかけての地内で北上川本流を利用する発電計画が練られ、さらに、1899年9月には盛岡市参事会の久慈千治が品川電燈株式会社(東京)社長宏虎童と同社技師駒井宇一郎の協力をえて北上川支流の中津川上流(濁川)を米内村地内で利用する発電計画を立てている。
 
 この間、1898年5月、盛岡市長清岡等が盛岡商工協会に「盛岡市に水力電気事業を興す方法」を諮問したが不発に終る。また1900年(明治33)1月、盛岡市会が「本市に水力発電事業を興し、工業の発達を図るため、その利害を調査する10名の委員を置く」こととし、調査委員会の「北上、中津、簗川の三河川とも200馬力以上の発電ができる水量で事業には十分」という報告を市会が承認したにもかかわらず、進展はなかった。しかし、1902年1月、知事北條元利による盛岡交話会への働きかけを契機に、交話会は盛岡電気株式会社の創立を決定し、創立委員長の清岡以下10名の委員を選出する。
 


 こうして1903年8月に簗川村を流れる簗川の上流に取水口を作り、同村宇津野まで約3600mの水路を設け、約32.4mの落差を利用する発電計画を知事に出願するとともに、東京帝国大学工科大学(現東京大学工学部)教授の山形義太郎に宇津野発電所の建設を依頼する。そして、1904年1月逓信省に電気事業経営許可申請書を提出し、3月25日に許可をえたので、盛岡電気株式会社は7月27日に設立総会を開き、社長に清岡、取締役に村井弥兵衛・大矢馬太郎・金田一勝定・中村治兵衛、監査役に小野慶蔵・太田小二郎・菊池清景を選んでいる。同社は、1905年(明治38)9月に米国ウエスチングハウス社製120kW・2200V・60Hz・720回転三相交流発電機、米国レックエル社製200馬力・二重放水式横置タービンを備えた宇津野発電所の完成で運開(運転開始)にこぎつけるが、開業は11月3日、点燈数は434燈であった。
 
 ところで、盛岡電気の創立を耳にし、これに期待した石川啄木は1904年7月、社長の清岡に、
 
偖(さ)て、兼(かね)て御計画の電気事業、這度愈々(このたびいよいよ)会社創立の運に至られ候由、先づ以て大慶に存じ上げ候。貴下に於ても、向後の御施設はとも角、一段落の御満足さこそと察せられ候。本年中には多分、小生が第二の故郷たる八歳客夢の杜陵(とりょう)も、文明の光に不夜の巷と相成り申可、市民は申すに不及(およばず)、苟(いや)しくも志(こころ)ある者は皆貴下の熱心なる御尽力に対して充分の謝意を表せざる可からざる事と存じ候。且つ今回の御企ては、戦時財政の根拠を悲観して兎角萎縮病に陥りたる県民に恰好の生ける教訓を与へたる者とも可申、単に電灯の光るのみならず、這般(しゃはん)の消息が齎(もた)らす精神上の光明の多大なるに於て小生の如きは尤も歓喜致し居る者に御座候。(中略)たゞかくの如き場合に於ける電灯会社の出現は、正しく、東北新興の事業的活動心の有力なる代表と見るを得べきを喜び申候(『石川啄木全集』第7巻)。
 
という書簡を送り、日露戦争下の財政困難の折から電気事業に乗り出したことを英断として讃えている。杜陵とは盛岡のことである。なお、この書簡は、当時、『岩手日報』の主幹をつとめていた清岡によって同紙の7月23日号に掲載されている。
 
 盛岡電気は開業当初、機械の故障や水路掛樋の取りはずしといった悪戯による停電に悩まされ、また、冬季には水路の凍結によって出力が低下し、名物簗川氷の製造を行なった方がましと揶揄されたが、需要は着実に増え、1907年(明治40)には宇津野発電所の出力を300kWに増大し、3000燈を超える需要に応じている。なお、開業時の盛岡電気の5燭光1カ月35銭という料金は、秋田の80銭、郡山の48銭、若松(現会津若松市)の45銭、仙台の42銭、鶴岡の40銭より安く、米沢と同額であった。




2005年は、岩手に電気が灯って100年・・・


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