産業技術遺産探訪 2004.1.12.
東海道本線旧線
旧 逢坂山隧道
長さ 664.8m
幅 3.05m
煉瓦トンネル・石ポータル
1878(明治11)年11月着工
1880(明治13)年 6月竣工
日本国有鉄道 鉄道記念物
滋賀県大津市
日本人技術者だけによって建設された初めての鉄道トンネル
日本初の山岳トンネルで、現存する最古の鉄道トンネル
日本人技術者のみで完成した、日本最初のトンネルで、1878(明治11)年10月起工、1880(明治13)年6月28日竣工。
この工事には、「工技生養成所」の教師・飯田俊徳(いいだ としのり)や「工技生養成所」出身の8等技手・国沢能長(くにさわ よしなが)が起用され、工部省生野銀山の坑夫が手堀によって岩盤の掘削を行いました。施工は藤田伝三郎。
東海道本線大津〜京都間の旧線、馬場(現在の膳所)〜大谷(1921(大正10)年8月1日廃止)間にあり、1921(大正10)年8月1日に東海道本線の短絡新線(現在の東海道本線)ができるまで使用されました。
「工技生養成所」は、日本人鉄道技術者を養成するために、鉄道局長・井上勝によって1877(明治10)年に大阪停車場(現在の大阪駅)構内に開設されたもので、多くの日本人技術者を輩出しました。なお、「工技生養成所」は、当時のお雇い外国人技術者であったエドモンド・モレル(初代建築師長)が、日本人技術者による鉄道技術の自立をはかるために設置することを提案したものです。
国沢能長(くにさわ よしなが)
1848(嘉永元)年、高知に生まれる。明治4年2月に大学南校出仕となり、明治4年10月に鉄道寮技術見習として関西方面の鉄道建設に従事。明治10年5月に「工技生養成所」に入所、明治11年8月に着工した京都〜大津間の鉄道建設に尽力。
飯田俊徳(いいだ としのり)
1847(弘化4)年、山口に生まれる。松下村塾で学び、慶応3年にオランダの工科大学を卒業。明治7年2月に「鉄道権助」となり大阪〜神戸間の鉄道建設に従事。明治10年に「工技生養成所」の教師となる。明治11年、京都〜大津間の鉄道建設に従事し、鉄道では初めての山岳トンネルである「逢坂山隧道」も完成させた。明治13年「工部権大技長」となり、敦賀線・関ヶ原線・尾張線・武豊線の工事を担当する。明治19年に東海道本線の天竜川以西を分担し、建設に従事。明治23年に「鉄道庁部長(第一部)」となった。
隧道東口坑門の上部にある扁額
「楽成頼功」(太政大臣・三条実美 筆)
鉄道記念物 旧逢坂山隧道東口 |
このずい道は明治11年10月5日東口から、又同年12月5日西口からそれぞれ掘さくを始め、約1年8ヶ月の歳月を費やして明治13年6月28日竣工したもので、大正10年8月1日線路変更により廃線となるまで、東海道本線の下り線として使用されていたものであります。 全長664.8mにおよぶこのずい道は日本人技術者が外国技術の援助を得ずに設計施工した、我が国最初の山岳ずい道として歴史的な意義をもつものであります。 坑門上部にある石額は竣工を記念して時の太政大臣三條実美の筆になるものであります。 日本国有鉄道 昭和36年10月14日 |
左が「旧 逢坂山隧道東口」、右が1898(明治31)年に複線化工事で増設された上り線の隧道
現在、「旧 逢坂山隧道」は、「京都大学防災研究所附属地震予知研究センター逢坂山観測所」として利用されています。また、トンネル内からの湧水は、大津市の水道用水として使われています。トンネルの東側に「大谷加圧ポンプ場」があります。
また旧・逢坂山隧道の東口を出た先の、京阪電車の線路脇(大津市逢坂一丁目)には、東海道本線旧線が道路を跨いで架けられていた当時にあった鉄橋の煉瓦造橋台が現存しています。
旧 逢坂山隧道西口跡
旧東海道線 逢坂山とんねる跡
1880(明治13)年に日本の技術で初めてつくった東海道線(旧線)逢坂山隧道の西口は名神高速道路建設によって、この記念碑の地下18mの位置に埋没しました。
旧・逢坂山隧道西口
東海道本線旧線は、大津駅(現在の浜大津駅)を出て、石場駅、馬場駅(現在の膳所駅)を通り、旧・逢坂山隧道を抜けると、すぐにあった大谷駅(現在の名神高速道路・蝉丸トンネル西口付近)を経て、ほぼ現在の名神高速道路沿いに南下し、旧・山科駅を通って、稲荷駅(現在のJR奈良線)から北上し、京都駅につながっていました。所要時間(1880(明治13)年当時)は約1時間でした。
京都〜大津間を最短距離のルートで結んだ場合には、かなり長いトンネルを2つ建設する必要がありました。これは当時の技術では、かなり難しいため、東海道本線旧線では、このように迂回したルートになりました。しかし、この迂回ルートでも、長さ664.8mの旧・逢坂山隧道の建設はどうしても必要にになったわけです。
名神高速道路 蝉丸トンネル・西口
この付近に「東海道本線旧線 旧 逢坂山隧道西口」と「大谷駅」がありました。
車石(くるまいし)
(大津市大谷町)
大津と京都を結ぶ東海道は、米をはじめ多くの物資を運ぶ道として利用されてきました。江戸時代中期の1778(安永8)年には牛車だけでも年間1万5894輌の通行がありました。この区間は、大津側に逢坂峠、京都側に日ノ岡峠があり、通行の難所でした。京都の心学者脇坂義堂は、1805(文化2)年に1万両の工費で、大津八町筋から京都三条大橋にかけての約12kmの間に牛車専用通路として、車の轍を刻んだ花崗岩の切石を敷き並べ牛車の通行に役立てました。これを「車石」と呼んでいます。
現在の逢坂峠(国道1号線)
交叉する橋梁は名神高速道路
蝉丸神社
(大津市大谷町)
これやこの ゆくもかへるも わかれつつ
しるもしらぬも あふさかのせき
蝉丸
新 逢坂山隧道(東海道本線新線 京都府京都市山科区)・・・1921(大正10)年竣工