産業技術遺産探訪 2003.8.27./2011.4.16.
相良油田
1873(明治6)年開坑
相良油田石油坑
経済産業省 近代化産業遺産
静岡県指定文化財 1980(昭和55)年11月28日指定
静岡県牧之原市菅ケ谷2861-1
(旧 静岡県榛原郡相良町菅ケ谷2861-1)
太平洋側で唯一の石油産地、高品質の軽質油を産出、日本で初めて機械式の採油を行った油田
2003年8月27日 撮影 | 2011年4月16日 撮影 |
保存されている石油坑(機械堀井櫓)は
1950(昭和25)年に小型ロータリー式の機械で掘削され開坑した機械堀井で、
深さ310mある相良油田最後の石油坑です。
相良(さがら)油田は、1872(明治5)年2月に村上正局(むらかみまさちか 1828-1888 江戸生まれ 徳川幕臣 浜松県士族)が海老江(えびえ)の沢合で原油の露頭を発見したことにはじまります。同年3月には、静岡県庁の外国人教師(静岡学問所)で宣教師のエドワード・ワーレン・クラーク(1849-1907)が石油と判定し、同年7月に石坂周造(いしざかしゅうぞう 1832-1902 信濃生まれ 日本の石油発掘の先駆者で、のちに日本の石油王と呼ばれるようになりました)が相良油田の石油採掘事業に進出するため、東京石油会社・相良支社を設置しました。1873(明治6)年2月、石坂周造は菅ヶ谷(すげがや)新田、時ヶ谷、大知ヶ谷の3ヵ所に鉱区を取得し、手堀り掘削を開始しました。
相良の石油井戸は、初期の頃は人力による「手堀り」や「上総(かずさ)堀り」によって原油が採掘されていました。 「手堀り井戸」は、井戸口を3尺(約90cm)四方にして枠を組んで掘り下げ、深さはおよそ60間(約100m)〜100間(約180m)で、最深の井戸は140間(約255m)にも及びました。地下の深い所からの土砂や原油の引き上げは、大変な重労働で、土砂の崩落やガスの発生など危険極まりない作業でした。
石油井戸は深さ60間位(109m)のものもありましたが、浅い所(約21m)で湧出したものもありました。明治末期には深さが100間(182m)に及んだものもありました。手堀りの井戸の深さは平均で80mあり、犠牲者も出るほど危険な作業でした。
「機械堀り」は、石坂周造が1873(明治6)年に米国から蒸気機関による「綱堀り機」3台を購入し、うち1台を同年10月15日に時ヶ谷の庄八屋敷に据え付けました。10月15〜16日の両日にわたって深さ13mの石油井戸を堀り、約540リットルの採油に成功しています。これは日本で最初に「機械堀り」が行われた石油井戸となりました。明治38年には、機械堀りの井戸は6坑あり、平均深度は330mでした。
1881(明治14)年12月には、石坂周造が相良油田会社を設立しました。
この石油坑で最も産出量が多かったのは、1884(明治17)年の721.6キロリットル(ドラム缶約3600本)、産出額40000円(当時)で、全国の産油高の約1割を産出していました。明治時代の最も最盛期の頃は、手堀りの井戸が240坑あり、そこでは約600人もの人が働いていました。
1874(明治7)年には日本で最初の機械堀井が行われました。機械による原油の採掘は、「綱(つな)堀り」と「ロータリー堀り」によって行われました。また手堀りも継続して行われ、1916(大正5)年頃には手堀井が150坑を数えました。
1904(明治37)年 1月からは 「日本石油株式会社」が綱堀り機による機械採掘を開始します。
明治から昭和にかけて約80年間、相良の一大産業として相良油田の名は広く知られましたが、第二次世界大戦後は衰退し、その後徐々に石油がとれなくなり、次々と井戸は取り壊され、1955(昭和30)年頃に全ての事業を閉じました。現在保存されている石油坑(機械堀井櫓)は1950(昭和25)年に小型ロータリー式の機械で掘削され開坑した機械堀井で、深さ310mあり、相良油田最後の石油坑です。
ロータリー式掘削(掘鑿)装置による機械式の掘削は次のような機器で構成されていました。
ロータリー式掘削(掘鑿)装置・・・スチームエンジン(蒸気機関)、粘土ミキサー、高圧泥水ポンプ、ウォータースイベル、ロータリーテーブル、スチームパイプ
多管式高圧ボイラー・・・据付ボイラーと共にロータリー堀りに使用したもので、燃料は石炭を用いた。
油井採油動力装置・・・米式オットーエンジン(燃料:原油ガス)、チェーンホイール(直径9m)、ピットマンホイール(直径4m)
採油装置(明治末期以降)・・・L型ウォーキング、ウォーキングビーム(ビーム上下ストロークは40cm〜80cm)、木製ブロワボイル、原油および水の分離タンク、ケーシングパイプ、2本櫓
手堀り井戸小屋
この建物は石油を手堀りで採掘した初期に井戸の上に建てられた茅葺きの小屋で、採掘当時のままの大きさのものに復元したものです。
屋根の上にある明かり取りの窓から光を採り入れ、鏡によって坑内を明るくして作業をした特色ある様式です。
特色
1.明り窓
南面する屋根に、長さ6尺(182cm)、幅3尺(91cm)の長方形の大きい明り窓があり、この窓は、光を坑内に取り入れるためと、坑内の空気を外に出すために工夫したものです。
2.出入口と窓
左右に出入口が大きく取ってあり、上下に開く窓が二面とってあります。これは、小屋の中を明るくするためと、空気の流れを調節するための工夫です。
踏鞴(たたら)
手堀り井戸小屋の中に設置されている長方形の大きな箱型のものは、踏鞴(たたら)といって、坑内に空気を送る大型ふいごで、当時のままに復元したものです。両端に4〜8人の人夫が乗り、上下交互に踏んで、空気を風樋に送り、坑内の油気をとり、新鮮な空気を坑中に補給しました。
手堀井戸
手堀り井戸小屋の中の手堀井戸は、坑口の寸法、形状を当時のままに復元したものです。当時の深さは、浅いもので21m位、深いものでは182mくらいありました。
手堀石油井戸による原油の採掘について
たたら踏みは仕事を始める時に8人くらいで踏み、井戸の底に充分新しい空気を送り込んだのち、掘る人が井戸の中へ降りて行きました。井戸の底は暗いので、太陽光線を鏡で反射させ小屋の上の鏡と連動させて、明かり取りの窓から井戸の底を照らして仕事が楽にできるようにしました。井戸を掘り下げるのにしたがって、だんだん穴を狭め、1人でやっと仕事が出来る3〜4尺四方くらいまでになっていました。また、周囲が崩れないように枠を組んでは掘り下げていきました。その時には、たたらで空気を送る管も掘り進むにつれて継いでいくようにしました。油層が近づくと、坑内には油性のガスが充満し、作業が困難になるので、たたらを踏む人数を増やし、かけ声を張り上げて送風のピッチを上げました。坑夫は緊急の場合、腰に繋いだ胴綱で地上に合図をして、引き上げてもらいましたが、それでも間に合ず、脱出の機会を失う事故も起きました。井戸掘中に不測の事故に遭って殉職した22人の名を刻んだ石油坑山遭難者の碑が、峠の坑山神社にあります。
手堀井戸の深さは40〜60間(72〜108m)程度が普通でした。明治末期には140間(252m)という油井も出現しましたが、150間以上は人手では掘削不可能とされました。しかし相良油田は含油層が比較的浅いため、手堀が盛んで、最終期の昭和20年頃まで手堀り井戸小屋が残っていました。
原油を汲み上げる樽は、井戸の中で自然に逆さになり、原油を楽に汲めるように樽の上部の縁には錘りが取り付けてありました。
汲み上げた原油には、水が混ざっているので、いったん大きな樽に入れ、比重の重い水は下のはけ口から流し、上に浮いた石油だけ取り出しました。原油は樽につめられて、大八車で相良の新生浜にある精油所へ運び、精製されました。
石油井戸掘り坑夫の仕事は、重労働の上、常に危険と隣り合わせの作業の連続でした。1人2時間、日中4交替で8時間掘り続けました。坑夫の日給は12銭から31銭という高給でした。当時の給料は、 坑夫長 1名 月給10円、坑夫長補助 3名 月給7円、地元坑夫(1等〜10等) 日給31〜12銭、地元雇夫 100人/日 日給12銭、懲役人(最盛期で、人手が不足した時期には、静岡刑務所の相良出張所ができて、囚人も一部で働いていました。) 30〜40人 日給10銭でした。
世界的にも希にみる良質な原油
原油は、各種の炭化水素を主成分とした黒褐色の液体ですが、原産地により性状(成分、品質)が異なります。
原油を分類する場合、その比重、流動点、硫黄分、製品得率などの各要素を総合して判断します。大きく分けてガソリン留分を多く含む軽質原油と重油留分を多く含む重質原油があり、一般的にガソリン、灯油・軽油が多く取れるもの、硫黄、ろう、重金属分の少ないものなどが高品質となっています。
相良(さがら)油田の原油は、青緑がかった赤褐色で、しかも透き通っており、ガソリンや灯油留分などを多く含んだ極めて良質(軽質)なもので、採掘されていた当時は、そのままでもランプや発動機、自動三輪(自動車)に使用できるほどで、世界的にも希にみる良質な原油です。
主な原油の性状 (日本石油株式会社の分析による) |
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原油産出地 相良油田原油(静岡県) 比重(15/4℃) 0.804 流動点(℃) -35.0 動粘度(50℃mm2/S) 0.92 発熱量(kcal/l) 8930 ガソリン・ナフサ留分(製品得率%) 34.0 灯油留分(得率%) 34.0 軽油留分(得率%) 22.5 重油留分(得率%) 9.5 |
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原油産出地 新津油田原油(新潟県) 比重(15/4℃) 0.939 流動点(℃) -35.0 動粘度(50℃mm2/S) 23.9 発熱量(kcal/l) 9920 ガソリン留分(得率%) 5.0 灯油留分(得率%) 軽油留分(得率%) 重油留分(得率%) |
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原油産出地 アラビアンライト(サウジアラビア) 比重(15/4℃) 0.859 流動点(℃) -43.0 動粘度(50℃mm2/S) 5.0 発熱量(kcal/l) 9330 ガソリン留分(得率%) 25.0 灯油留分(得率%) 13.5 軽油留分(得率%) 13.5 重油留分(得率%) 48.0 |
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原油産出地 カフジ(サウジアラビア、クウェート) 比重(15/4℃) 0.883 流動点(℃) -35.0 動粘度(50℃mm2/S) 19.5 発熱量(kcal/l) 9600 ガソリン留分(得率%) 24.0 灯油留分(得率%) 9.0 軽油留分(得率%) 12.5 重油留分(得率%) 54.5 |
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原油産出地 イラニアンヘビー(イラン) 比重(15/4℃) 0.870 流動点(℃) -35.0 動粘度(50℃mm2/S) 6.8 発熱量(kcal/l) 9450 ガソリン留分(得率%) 20.2 灯油留分(得率%) 12.5 軽油留分(得率%) 13.8 重油留分(得率%) 53.5 |
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原油産出地 スマトラライト(ミナス) (インドネシア) 比重(15/4℃) 0.847 流動点(℃) +32.5 動粘度(50℃mm2/S) 9.67 発熱量(kcal/l) 9200 ガソリン留分(得率%) 12.5 灯油留分(得率%) 8.95 軽油留分(得率%) 12.46 重油留分(得率%) 66.09 |
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原油産出地 大慶(中国) 比重(15/4℃) 0.865 流動点(℃) +35.0 動粘度(50℃mm2/S) 24.0 発熱量(kcal/l) 9400 ガソリン留分(得率%) 10.1 灯油留分(得率%) 5.4 軽油留分(得率%) 9.8 重油留分(得率%) 74.7 |
太平洋岸ではただ一つの油田
相良油田は、太平洋側では唯一の油田です。
原油は、微生物の死骸などがもとになり、地中のバクテリアや地熱の働きで原油に変化します。
油田には、それを溜めるための地層構造とタイミングが必要で、大知ヶ谷(おおちがや)から新田(しんでん)、時ヶ谷(ときがや)、女神(めがみ)、男神(おがみ)へ続く背斜構造の地層と砂岩、泥岩の互層が何枚も積み重なった海底堆積層である第三紀中新世の相良層の地質が相良油田の母体となっています。
相良油田は、原油を含んだ相良層とこの地質時代では全国で数少ない背斜構造とがつくりあげた油田です。
原油は、この背斜軸の北西側の地層から掘り出されています。原油の量が少なかったのは、背斜構造の規模が狭く小さいため含油層が薄く、さらにその層が寸断されているためと考えられています。
相良油田はどのように形成されたか?
相良油田は、太平洋側では唯一の油田です。なぜ、相良にだけ油田があるのでしょう。
原油のもとは、生物、特に藻類やプランクトンなど微生物の死骸とされています。それらが泥とともに水底に積み重なり、岩石になる途中に、その中の生物の有機物から「ケロジェン」と呼ばれる「油母」ができます。その「ケロジェン」が、地熱やバクテリアのはたらきで分解され、原油やガス、水に変化します。油田には、こうして生まれた原油をとらえる「貯油構造」が必要となります。その構造は、隙間の多い岩石(砂岩や石灰岩)の上に、隙間の少ない岩石(泥岩など)が積み重なった後、地層が波のように曲がる運動(褶曲作用)でつくられた盛り上がった部分(背斜構造)にできます。油田ができるには、原油が生成され、上へ移動する時に、ちょうどタイミングよく原油をとらえる構造ができている必要があります。
相良には、大知ヶ谷から女神、男神へと続く背斜構造の地層と砂岩と泥岩がいくつも積み重なった海底堆積層である相良層があり、相良油田を形成する第三紀中新世の石油は、相良層の泥岩層に挟まれた砂岩層に含まれている。それらがタイミングよく原油を溜め、相良油田をかたちづくっています。
相良油田のあゆみ
1872(明治 5)年 2月 村上正局が海老江の沢合で原油の露頭を発見
1872(明治 5)年 3月 静岡県庁の外国人教師(静岡学問所)で宣教師のエドワード・ワーレン・クラーク(1849-1907)が石油と判定
1872(明治 5)年 7月 石坂周造が相良油田に進出、東京石油会社の相良支社を設置
1873(明治 6)年 2月 石坂周造は菅ヶ谷新田、時ヶ谷、大知ヶ谷の3ヵ所に鉱区を取得し、手堀り掘削を開始する。坂部半六(さかべはんろく 1846-1921 相良生まれ)は石坂周造のもとで相良油田の開発と製品の販売に貢献した。また、村松吉平(むらまつきちへい ?-1881)は相良での石坂周造の石油事業に莫大な出資をし援助した。のちに石坂は小堤山(こづつみやま)に村松の石碑を建立。
1873(明治 6)年 山岡宋之助(やまおかそうのすけ 1852-1888 江戸生まれ 石坂周造の長男で山岡家の養子)が石油採掘と製油技術の習得のため米国へ6年間留学。1878(明治11)年帰国。
1873(明治 6)年10月15日 石坂、米国より購入した綱堀り機を時ヶ谷(庄八屋敷)に設置し、約540リットルの採油に成功する。
1875(明治 8)年 相良油田の経営が元薩摩藩島津候の手に渡たり、海江田信義(かいえだのぶよし 1832-1906 鹿児島生まれ 元老院議官 1862(文久2)年、生麦事件で英国人リチャードソンを斬殺)の手中となり、孤松館(こしょうかん)を開設して1879(明治12年)まで事業を継続する。
1877(明治10)年 布施新助(ふせしんすけ 1842-1910 相良生まれ 石坂周造の東京石油会社相良支社に出資)が「布施石油」を創業し、自宅内に製油所を設け、石坂周造とは別に採油・精製にあたる。
「近油舎」を設立し、多くの鉱区を所有した。
明治30年には、「久根銅山」を発見し、鉱業権を取得した。
1878(明治11)年 9月 大蔵卿、大隈重信が相良油田・相良石油製造所を視察・激励
1879(明治12)年 4月 石坂周造が相良に居住(天香閣)
1879(明治12)年 勝海舟、山岡鉄舟らが相良油田を視察(
1879(明治12)年 9月 坑山神社建立
1881(明治14)年 山岡鉄舟、高橋泥舟らが相良油田を視察、その後度々相良を訪れている
1881(明治14)年12月 石坂周造、「相良油田会社」を設立
明治17年頃 最盛期 手堀り石油坑数240坑
油出量 年産721.6キロリットル(約4000石、ドラム缶約3600本)
産出額 40000円(当時)
従事者 約600人
1897(明治30)年1月 石坂周造、相良から東京へ移転する。
1903(明治36)年7月 石坂周造、東京で死去(享年72歳)、油業の有志が相良油田発祥地の高台に、石坂ら先人の功績をたたえ、さらに相良油業の隆盛を祈念する意図で宝泉寺境内に記念碑(三枚碑・・・中央の大きい石碑が石坂周造、石碑の向かって右が山岡宗之助、左が村上正局の碑)を建立(後に菅ヶ谷に移設)
1904(明治37)年 1月 「日本石油株式会社」が綱堀り機による採掘に進出
1908(明治41)年 第2次ピーク 年産683キロリットル
1925(大正14)年 機械堀井戸 6坑(平均深度330m、最深は1032m)、手堀井戸 34坑、産油量が減少し廃坑が続出する。
1938(昭和13)年 日本石油株式会社撤退
1950(昭和25)年 小型ロータリー機による機械掘削 深さ310m(静岡県指定文化財として現存)
1955(昭和30)年 完全廃坑
相良油田の原油をサンプルとして特別に分けていただきました(^^) 技術科での学習に活用していきます!(2003年8月27日) 原油の段階でこの色をしていることに驚きました。 |
研究・教材用標本として相良油田石油坑で産出した 原油をいただきました。(2011年4月16日) |
比重(15/4℃) 0.804 流動点(℃) -35.0 動粘度(50℃mm2/S) 0.92 発熱量(kcal/l) 8930 ガソリン・ナフサ留分(製品得率%) 34.0 灯油留分(得率%) 34.0 軽油留分(得率%) 22.5 重油留分(得率%) 9.5 |
相良油田資料館
静岡県牧之原市菅ケ谷2525-1 相良油田の里公園
(旧 静岡県榛原郡相良町菅ケ谷2525-1)
相良油田は、明治初期に発見され、昭和の中期までの約80年間にわたって採油が行われた、太平洋岸では唯一の油田です。原油の質は世界的に見ても大変上質なものであり、また日本で最初に米国製の掘削機により機械堀りが行われた油田でもあります。
発見以来、相良の一大産業として活況を極めた油田でしたが、今は、当時の面影を僅かに残すだけとなっています。相良油田資料館では、当時の手堀りや機械堀りの様子、菅山(すげやま)地域の状況などを再現しています。
産業技術遺産としての相良油田の文化や先人の知恵と汗による偉業を知ることが出来る資料等が展示解説されています。
開館時間・・・・9:00〜16:00
休館日・・・・火曜日、祝日の翌日、年末年始(12月29日〜1月3日)
相良油田ジオラマ
相良油田物語 ファンタスビジョン
「布施石油鑛業事務所」看板
ボーメの比重計
石坂周造が明治8年にアメリカからの帰国時に購入したドイツ製の比重計(坂部利雄氏所蔵)
菅ヶ谷鉱山沿革誌(川田登氏所蔵)
たたら踏み
井戸の深度が増すにつれて、通風装置がないと坑底での作業が出来ません。たたらの両端に4〜8人の人夫が乗り、上下交互に踏んで空気を風樋に送り、坑内の油気やガスを取り、坑外から絶えず新鮮な空気を坑内に供給しました。
原油の汲み出し
井戸の底で掘った岩や土砂などは、もっこで上まで上げ、外へ積み上げました。そして、地層からしみ出して、ある程度溜まった原油は玄蕃桶(げんばおけ)と呼ばれる二斗樽で上まで汲み上げ、それを四斗樽に入れて運び出しました。
手堀りによる原油の採掘模型
相良油田機械堀模型
資料
・日本石油史編集室「日本石油史」日本石油 1958年
・西山町誌編纂委員会「西山町誌」西山町役場 1963年
・前川周治「石坂周造研究 志士・石油人としての両半生」三秀社 1977年
・「日本の『創造力』 近代・現代を開花させた470人 2 殖産興業への挑戦」日本放送出版協会 1992年
・床波ヒロコ「石油事業 過激浪士出身の実業家 石坂周造」
・渡辺祝子「相良灯台を建設した、憎めない豪傑」
・真島節朗「「浪士」石油を掘る〜石坂周造をめぐる異色の維新史」共栄書房 1993年
関連項目
・浅川油田 長野県長野市真光寺
※日本で最初の石油会社である「長野石炭油会社」は、浅川油田をもとにして1871(明治4)年8月に設立されました。
相良油田の里公園には、油のとれる植物が栽培されています。
人々は古くから、石油以外に植物から採れる油を食用や灯火用などに利用してきました。現在でも食用や医薬用などに使われています。相良油田の里公園では、油の採れる代表的な植物が栽培されています。
油のとれる植物とその用途
椿(つばき)
ツバキ科 常緑高木
種子に30〜40%の油を含んでおり、「ツバキ油」は髪油として化粧用、食用、灯用、機械油に利用
萱(かや)
イチイ科 常緑針葉樹 約25mに生長する。
種子の胚乳に脂肪油を多く含み、食用油、石けん原料、灯用、化粧用に利用
茶
種子に油を含み(30〜35%)、「茶油」は、石けん原料、灯用、化粧用に利用
異臭や有毒な化合物が含まれているため、食用にはならない。
アブラチャン
クスノキ科 落葉小高木
果実は直径約15mmの球形、種子に油を含み灯用に利用、葉や枝にも油を含み良く燃える。
ユーカリ
フトモモ科 常緑高木
葉に油を含み駆虫剤、防腐剤、薬用、香料に利用
オリーブ
モクセイ科 常緑高木
果実に油を含み(15〜30%)、食用、化粧用、石けん原料、薬用に利用
葉から駆虫剤・防腐剤の原料となる「ユーカリ油」、樹皮から「タンニン」、樹液から医薬品の原料となる「キノ」が採れる。
クロモジ
クスノキ科 落葉低木 数mの高さに生長する。
実や枝葉に油を含み、「クロモジ油」は香料に利用
芳香性があるので枝も爪楊枝に使われる。
クルミ
クルミ科 落葉果樹 高さ十数mに生長する。
中の実(仁)に油を含み、「クルミ油」は食用、化粧用、香料や油絵の具の原料に利用
油桐(アブラギリ)
トウダイグサ科 落葉樹、10〜15mに生長する。
種子に油を含み、種子から搾った「キリ油」は、灯油、油紙、工業用塗料原料(ペイント、ワニス、印刷用インキ、焼付塗料)などに利用。毒性があり食用にはならない。
菜種(なたね)・・・・アブラナ(油菜)
種子に38〜45%の油を含み、灯用、食用(天ぷら油)、機械油、薬用(軟膏の基剤など)に利用
紅花(べにばな)・・・・サフラワー
キク科 二年草
種子に26〜37%の油を含み、「紅花油」は高品質の食用油として、また塗料、医薬品、石けん、マーガリンなどの原料にも利用
胡麻(ゴマ)
ゴマ科 一年草
栽培植物の中では最も多くの油を含んでおり、種子に40〜55%の油が含まれている。食用油(天ぷら油など)として高品質であり、また医薬用、工業用にも利用
大豆
種子に15〜23%の油を含んでいる。大豆サラダ油やマーガリン、クッキングオイル、マヨネーズなどの食用に利用
ヒマワリ
キク科 一年草
種子に約30%の油を含む。飼料、菓子用、石けんの材料に使用
落花生
マメ科 一年草
種子から採れる「落花生油」は、食用としてサラダ油やマーガリンの原料となり、工業用には、石けん、繊維処理剤、減摩剤などにつかわれている。かつては、灯用やタバコの添加物としても使われていた。
綿
アオイ科ワタ属 多年草
綿の種子から採りだした「綿実油」は15〜20%の油が含まれていて、食用油、マーガリン、石けんの原料となる。
植物油の抽出方法
植物の種子や果実に含まれる油を抽出する代表的な方法は、種子を乾燥させ、さらに焙ったものを磨り潰し、それを蒸して袋に入れ、その上に重石を置き圧力をかけて搾り出します。また、煮詰めて油を採る方法や、そのまま果実をしぼる方法も行われます。
椿油の搾り方
椿(つばき)の場合
天日干し(3〜4日間) -> 焙る -> 磨り潰す
-> 布の袋に入れて蒸す -> 圧搾機で搾る
-> 採油
天日干し(3〜4日間) -> 焙る -> 磨り潰す
-> 少し水を加えて煮詰める -> 上澄みをすくう
-> 採油