産業技術遺産探訪 2001.8.9.

大牟田・三井三池炭鉱跡めぐり
福岡県大牟田市

 囚人が働いていた時代もありました。大きな爆発事故があった時もありました。労働者と会社が激しく闘った時期もありました。だけど、いつもそこには、豊かな暮らしのエネルギーのために石炭に熱い情熱と誇りを持った人々がたくさんいたことも、きちんと知ってほしい。今はもう、石炭を掘っていないけれど、石炭が築いた歴史は、大切な遺産となって町に息づいています。そして、石炭は新たに活躍できる日まで今も地下に眠り続けています。
 大牟田市石炭産業科学館「めたせこいあ」(創刊号 2000年)より ※「めたせこいあ」は別名「あけぼの杉」のことで、石炭の原木。

 

石炭の産地であった大牟田には、石炭の採掘・輸送・関連工場や社宅などの産業技術遺産があります。

三池港・閘門式水門 / スルースゲート / 水圧シリンダー・水流ポンプ / 蒸気式クレーン船「大金剛丸」 / 三池式快速石炭船積機3号機 / 九州電力港火力発電所 / 三井石炭火力発電所  三井港倶楽部 / 大牟田市立石炭産業科学館 / 旧・三池炭坑宮原坑 / 旧・三井集治監外壁 / 旧・三池炭坑宮浦坑 / (株)三井化学大牟田工場・J工場 / 三池炭鉱専用鉄道・電気機関車 


三池港・閘門式水門 1908(明治41)年竣工

 三池港は、三池炭鉱で採掘された石炭を大型船で積出すためにつくられた港です。三池港ができる以前には、大牟田川の河口から長崎・島原半島の口之津港まで運んで、そこで大型船に積替えていました。三池港の築港によって大牟田で石炭を大型船に直接船積みすることができるようになりました。

三池港・閘門式水門
 水門施設、建物、機械等は、1908(明治41)年の開港当時からのものが大切に使われています。
三池港の大きな特徴である閘門式水門は、有明海の干満差が5.5m以上もあるため、閘門によって有明海と渠内を仕切ることができ、水位を一定に保つことによって干潮時でも大型の船が着岸できるように造られた施設です。この水圧式水門によりドック内は常時8.5mの水深を維持でき、1万tクラスまでの荷役が可能になりました。水門は、パナマ運河と同じ様式で作られています。



 三池港築港工事計画は、1902(明治35)年11月に着工されて、1908(明治41)年に竣工しました。当時、三池炭砿事務所長の團琢磨は、たとえ100年後に三池に石炭がなくなっても三池港があれば大牟田は栄え続けることが出来ると閉山後のことも考えて三池港を築港したということです。
 工事は、まず埋め立て地の外周となる潮止め堤防、諏訪川河口から5カ所(2840m)の築設から始められました。堤防の石材は、陸岸では勝立付近から切り出して車両運搬、海上では天草で切り出し、船で運んで海中投棄により積み上げました。干拓部分の中を11m掘り下げ、繋船壁、護岸の石積みをし、その排土は裏側周辺の埋め立て地側に充填し、不足分は仮設軌道で陸地から運びました。



 三池港・閘門式水門は幅20mの水路に設置された2扉観音開き(2枚のイギリス製の鋼鉄製門扉)で、水圧シリンダーで開閉する鉄製箱形の扉。門の高さは8.5m、底は渠内の底に合わせてあるので、門を閉じると渠内の水深は8.5mとなります。この水面の上面をドッグノルマル(DN)といい、これは三池港の中等測位(MWL)から約40cm高い位置に当たります。



 この扉の遮水を確実にするため、接着面には木材を用いていますが、その材料は船虫など虫害に強く、比重の思い南米産グリーンハートという特別な材を用いました。この用材の予備を渠内の水中に保管して置きましたが、昭和56年に引き上げてみたところ、76年も経過していたにもかかわらず十分に使用に耐え得る状態でした。また、大型船が渠内に入港したときに海水を逃がす「スルースゲート」が閘門式水門の両側に設置されています。

スルースゲート

 ここでは水門を開閉させる水圧シリンダーや水流ポンプ(実際に作動させてくれました)、蒸気式クレーン船「大金剛丸」(三池港に停泊して活躍する1905年以前のイギリス製浮クレーンで石炭を燃料に最大15トンを吊り上げることが可能)、三池式快速石炭船積機3号機(1911(明治44)年製の3号機が唯一現存しており積込能力は1時間300トンで設置当時は400トンありました。)などを見ることができました。



蒸気式クレーン船「大金剛丸」
 三池港に停泊して活躍するイギリス製浮クレーン。石炭を燃料に最大15トンを吊り上げることが可能。1905(明治38)年以前にイギリスで製造されました。

三池式快速石炭船積機3号機(通称 ダンクロ・ローダー)

 1908(明治41)年、團琢磨が米国の炭鉱の選炭機にヒントを得て、三池炭鉱の技術主任・黒田恒馬と共同で設計。1909(明治42)年に1・2号機が完成しました。岸壁沿いを移動できる巨大な船積機械で、積込能力は1時間300トン(設置当時は400トン)です。三池港の東側に専用鉄道で運ばれてきた石炭は、バケットに落とされてそのままダンクロ・ローダーで船積みされました。開港当時は1号機と2号機の2つがありましたが現在は撤去されており、1911(明治44)年製の3号機が唯一現存しています。3号機は現在は移動用のレールが外され固定されています。

蒸気式クレーン船「大金剛丸」 三池式快速石炭船積機3号機


九州電力港火力発電所

 隣接する三井炭鉱三川坑跡は三池争議や炭塵爆発事故などが起こった現場です。 三井港倶楽部の洋風建築や石炭火力発電所などを車窓から見ながら大牟田市石炭産業科学館へ向かいました。

三井港倶楽部(現在はレストラン)
 1908(明治41)年竣工。設計は清水満之助、施工は清水組(現在の清水建設)。港の北東側の諏訪川のほとりに開港と同時に建てられたもで、船員の休憩所や政財界の社交場として活躍した木造3階建の瓦葺木骨様式(ハーフチンバー・スタイル)の洋風建築物。暖炉や球戯(ビリヤード)場などが配置されていました。

三井石炭火力発電所 三井港倶楽部

大牟田市立石炭産業科学館 

大牟田市石炭産業科学館
URL:http://www.sekitan-omuta.jp
福岡県大牟田市岬町6-23

大牟田市石炭産業科学館には地下400mの坑内(採炭作業現場)を再現した模擬坑道や採炭用カッターや石炭運搬用電気機関車が展示されています。石炭をめぐる人と技術の歴史を知ることができます。

ダイナミックトンネル・・・・地下400mの坑内(採炭作業現場)を再現した模擬坑道、採炭用カッターや石炭運搬用電気機関車が展示

石炭の誕生を物語る映像コーナー
石炭の生成過程・・・・コンピュータグラフィックスによる映像で解説
石炭をめぐる人と技術の歴史〜炭鉱技術のあゆみ
石炭の利用の歴史   ガス灯・暖炉・ストーブ
大牟田の炭鉱史〜江戸中期の三池藩などによる炭山経営から明治・大正・昭和・平成のあゆみ

三池炭鉱・・・・模型・AVモニター・蒸気機関車(7/10模型)

石炭の利用・・・火力発電所、製鉄所、セメント工場
エネルギーとしての石炭〜くらしを支える石炭
エネルギー体験遊具(8種類)
 運動した力で発電、電磁波で蛍光灯をつける、磁力でボールを動かす、光の力で円盤を動かす、空気の力でボールを飛ばす など
石炭について・・・コンピュータ(石炭百科)、立体映像ホール・・・地球時代の石炭ストーリー(上映時間15分)
図書室(石炭と炭鉱に関する図書や三池炭鉱時代の資料を収蔵)、ビデオライブラリー、企画展示室(石炭に関する常設展示のほか企画展示)
屋外展示場・・・・炭鉱で使われていた機械 自走枠3種12台が展示されている。(自走枠・・・採炭切羽の天井を支え、作業員や採炭機械の作業空間と安全を確保していた機械)



石炭に関する博物館
・夕張市石炭博物館(北海道夕張市高松7−1)
・釧路市炭鉱展示館(北海道釧路市桜ヶ丘3−1−16)
・いわき市石炭・化石館(茨城県いわき市常磐湯本町向田3−1)
・科学技術館(東京都千代田区北の丸公園2−1)
・宇部市石炭記念館(山口県宇部市常盤公園内)
・直方市石炭記念館(福岡県直方市直方692−4)
・宮田町石炭記念館(福岡県鞍手郡宮田町上大隅代の浦573)
・田川市石炭資料館(福岡県田川市伊田2734−1)
・大牟田市石炭産業科学館(福岡県大牟田市岬町6−23)


旧 三井三池炭鉱万田坑

「万田坑」の公式サイト(万田坑ステーション)


旧 三池炭坑宮原坑

三池炭鉱・宮原坑(平成10年5月 国重要文化財指定)近代炭鉱の坑口施設の遺構としては日本最古
福岡県大牟田市宮原町1丁目81−3外

三池炭鉱宮原坑跡(国重要文化財・史跡)は1898(明治31)年開坑し、年間40〜50万トンの出炭を維持した明治〜大正の主力坑で1931(昭和6)年閉坑しました。宮原坑は、第1立坑、第2立坑(現存)からなる。現在は第2竪坑櫓と捲揚機室、捲揚機などが残っています。

明治後期から大正時代にかけて三池炭鉱の主力坑

捲揚機室  イギリス積レンガ造切妻平屋建て、屋根はもとは瓦葺

捲揚施設・・・捲揚機室、捲揚機(原動機、捲胴)、鋼索(ワイヤーロープ)、櫓、ケージ(鉄製の箱)など


三池炭鉱・宮原坑 捲揚機
100馬力(HP)人車巻揚機・・・・届出認可速度 120m/min

捲揚機 明治33年頃 設計・三井炭砿製作所(のち三井三池製作所)、昭和8年 更新
     直結横置単胴型 75kw(100馬力(HP)) 三相交流誘導電動機
     (※昭和8年の更新前 横置双気筒不凝縮蒸気機関(気筒 直径56cm、行程1.22m)

捲胴  直径2.65m、幅1.83m
     (※昭和8年の更新前 直径2.44m)

鋼索  15本6撚り、長さ280m、直径32mm、最大抗張力70kgf
     (※昭和8年の更新前 ラング撚式16本線6撚、長さ260m、直径32mm、最大抗張力106kgf
       製造所「英国クラドッグ会社其他」と記録されている。)


現存する
第2立坑・・・深さ157m


櫓    鋼製  上から1/4のところにある2個のシーブ(滑車、直径3.74m)を介して立坑内にケージを
吊り下げる役目を果たす。主脚4本を矩形に配置し、基部をコンクリートで固定。高さ約22m。櫓頂部に2
個、北東主脚の基礎に接して1個の補助シーブが取り付けられている。設立当初の姿に近い。三池炭鉱に
おける最初の鋼製櫓。

ケージ 人員昇降、資材機材搬入搬出、揚炭
     1段式、積載鉱車数2台 当時の標準的な仕様


旧 三池集治監外壁(福岡県立三池工業高校外壁)

旧三池集治監外塀は現在福岡県立三池工業高等学校外塀となっており福岡県指定有形文化財に指定されています。1883(明治16)年開庁の石炭採掘を主な目的とした囚人収監施設の外塀で高さ5〜6m、現存長600mの煉瓦造です。


旧 三池炭坑宮浦坑(宮浦石炭記念公園)
三井石炭鉱業株式会社三池炭鉱宮原坑施設(国指定重要文化財)

福岡県大牟田市西宮浦町132−8
面積 約4700平方メートル

三池炭鉱宮浦坑跡(国指定重要文化財)は、1887(明治20)年開坑し、、1968(昭和43)年の閉坑までの81年間、三池炭鉱の主力坑口の1つとして約4000万トンの石炭を産出しました。現存する煙突は1888年建造で高さ31.3mあり炭坑節に歌われた面影を伝えています。1968(昭和43)年閉坑しています。ここにある煙突および大斜坑は、石炭採掘と大牟田発展の歴史を物語る重要なメモリアル的建造物であり、日本の近代史、産業史を知るうえで極めて貴重な施設と言えるものです。大斜坑のプラットホームや建造物内には、実際に使用された人車や石炭掘進機械などを展示しています。

三池炭鉱宮浦坑(三井石炭鉱業株式会社三池炭鉱宮原坑施設)
三池炭鉱の主力坑の1つ。
1887(明治20)年 宮浦第1立坑開坑(官営)
明治22年 三池炭鉱を払い下げ(民営)
明治36年頃 落差189mの断層に突き当たる
明治45年頃 断層先端へ向けて坑道掘進を開始
大正2年頃 上層に着炭
大正5年頃 本層に着炭
大正8年 宮浦第2立坑竣工
大正12年 宮浦大斜坑の開削を開始、貫通
大正13年 揚炭開始
昭和4年 年間100万トンの出炭を超える
昭和11年 エンドレスロープをベルトコンベアーに切り替える
1968(昭和43)年 本坑口を三川鉱横へ移転し閉坑


三池炭鉱宮浦坑煙突
(登録有形文化財 第40−0004号 文化庁 平成10年1月16日)
建造 1888(明治21)年3月
高さ 31.2m
直径 上部 2.9m
    下部 4.3m
耐火赤れんが 約13万8000枚使用
第1立坑の巻揚機は蒸気動力で動かされていました。その蒸気をつくるためのボイラー室で石炭を燃やし
たときの煙を排出するためにつくられたのが、このれんがの煙突です。
江戸時代から明治の初めの頃までは、掘った石炭は人や馬の力で運び出されていましたが、明治の中ご
ろからは蒸気動力が採用され、効率化が図られたのです。
大浦坑、勝立坑、万田坑など明治時代の坑口には、いずれもこのような煉瓦の煙突が立てられていました。
しかし、それらも今は残っておらず、「あんまり煙突が高いので〜」と炭坑節にうたわれた面影を現在に伝え
るのはここ宮浦坑だけになりました。この煙突が炭坑節に歌われたモデルとも言われています。




大斜坑跡
斜坑は、地上から石炭の層(地下180m)に行くまでの斜めのトンネルで、宮浦大斜坑は、1924(大正1
3)年から平成2(1990)年まで、坑内で働く人や採炭資材などの出入口として使用されました。また、人車
などは巻揚機のワイヤーロープで動き、掘り出された石炭もここから運び出されました。
大斜坑・・・長さ998m 坑口・・・高さ2m、幅5.61m



材料降下坑口跡
この坑口から、石炭を採掘するための材料を工具車・坑木車・タンク車などで運んでいました。
工具車・・・・石炭を掘ったり、坑道を維持するための道具を運ぶ鉱車です。
坑木車・・・・掘った坑道の天井や壁が、崩れないように支えるための木材を運ぶ鉱車です。
タンク車・・・・石炭を採掘したあと、不要になった空間を埋める材料を運搬する鉱車です。



坑内機器展示
フェースローダー(石炭掘進用積込機)
サイドダンプローダー(岩石掘進用積込機)
ドリルジャンボ(岩石掘進用削岩機)


(株)三井化学大牟田工場・J工場

ドイツの染料工場を参考にして1938(昭和13)年竣工。鉄筋コンクリート7階建。当時は東洋一の高さを誇る町のシンボルであった。

(株)三井化学大牟田工場・J工場

大牟田の石炭化学コンビナート
大牟田川沿いに集中して立地している大牟田市の石炭化学コンビナートは三池炭鉱の各炭坑で使用されている機器の修理工場(三池製作所)や製鉄用のコークスを石炭から製造するコークス工場からはじまりました。コークス工場から排出されるガスやコールタールを活用するために、1912(明治45)年頃、三井によって排出ガスからアンモニアを回収するための副産物回収コッパース炉を導入し、化学肥料の硫安を生産しました。さらに三池ガス発電所、ベンゾール工場、ナフタリン工場、ピッチ工場が副産物を原料として生産を開始しました。
1913(大正2)年には岐阜県の神岡鉱山から採掘された亜鉛鉱石(それまでは神岡鉱山の亜鉛鉱石は海外に輸出されていました)をコークスを用いて精錬を行う亜鉛精錬所である三池精錬所ができました。
1915(大正4)年には、コークスの製造過程で出てくるコールタールを蒸留してできるベンゼンを原料として、三池染料工業所が国内初の合成染料「アリザリン」の合成に成功し生産を開始しました。1924(大正13)年には合成染料「インジコ」の試験生産に成功し(当時はドイツだけ生産に成功しておりインジコはすべて輸入していました)、1932(昭和7)年に生産を開始しました。
1916(大正5)年には電気化学工場が完成し、石灰とコークスの混合物を電気によって加熱してカーバイド(炭酸カルシウム)を生産し、石灰窒素(化学肥料)や溶接・溶断用のアセチレンガス(カーバイドと水の反応により発生)、アセチレンプラスチック(乾電池の材料)、導電性添加剤(ゴム・プラスチックに導電性をもたせる)などに使われました。
1918(大正7)年 三池焦煤工場染料工場が竣工し石炭化学コンビナートが形成されました。
1940(昭和15)年に石油合成工場が人造石油の生産に日本で最初に成功して生産を開始しました。
こうして大牟田の石油化学コンビナートは、生産に伴って排出される副産物を活用しながら拡大してきたもので、日本で最初のコンビナートとなりました。このように綿密なプランによって最初からつくられた今日のコンビナートとは異なる発展をしてきたところに特徴があります。


三池炭鉱専用鉄道・電気機関車

旧三池炭鉱専用鉄道
1891(明治24)年開通。石炭や炭鉱資材、関連工場の製品等を輸送した貨物専用鉄道。本線9.3km、支線1.8km。一時は旅客営業もしていました。現在はJR線に接続している約1.5kmが残っています。

三池炭鉱専用鉄道・電気機関車
第1号電気機関車は1909(明治42)年に米国から輸入され三池炭鉱専用鉄道で使われました。その後ドイツ・シーメンス社から輸入した20tB型の電気機関車(形状が凸形)と、そのコピーである国産が最盛期には20両以上稼働していました。電気機関車は45t型と20t型があります。


技術教育研究会 第34回全国大会 福岡大会「地域の技術見学会」


石炭

石炭は、数億年前の植物が湖や沼の底に堆積して腐らずに地層の内部に蓄えられ、さまざまな分解作用や地中の圧力と熱による変質作用によって炭素が濃縮されてできた化石燃料です。(石油・天然ガスはおもにプランクトンが変化した化石燃料)
石炭の種類は石炭化度(炭素の濃縮の程度)によって濃縮の高い石炭から順に「無煙炭」「瀝青炭」「亜瀝青炭」「褐炭」「亜炭・泥炭」に分類され、また利用のされかたによって「原料炭(製鉄の原料)」「一般炭(火力発電用ボイラーの燃料)」「無煙炭(練炭・豆炭製造用の原料)」に分類されています。
石炭の確認可採埋蔵量は1998年末現在で9842億トンとされ可採年数は211年(石油39.4年、天然ガス64.4年、ウラン93年)とされています。また、分布が石油などのように地域的に限定しておらず単価が安いことなどの安定供給が可能で経済的なメリットが大きいという特徴をもっています。

石炭の利用の歴史
石器時代に採炭されていたのではないかと考えられたいます。
中国では約3000年前に陶磁器の製造に燃料として石炭が使用されていたとされています。
記録に残っているものでは、紀元前315年にギリシャの哲学者テオフラストスが「岩石には燃焼して鍛冶屋に使用されているものがある」と記しています。日本では、伝説として189年に神功皇后が戦の帰途に現在の福岡付近で「燃える石」を炊いて衣服を乾かしたといわれています。記録に残っているものでは、587年に天智天皇へ越後の国から「燃ゆる水(石油)と燃ゆる土(瀝青物質?)」が献上されました。石炭が炭坑によって大規模に開発されるようになったのは、1227年にイギリスのニューキャッスルで始まり、日本では1469年に伝治左衛門が三池郡稲荷山で「燃える石」(石炭)が発見され、これが三池炭鉱(1889年官営三池炭鉱が三井組に払い下げられ、三井三池炭鉱となる)のはじまりとなっています。
1620年頃にはイギリスで工業用に石炭の利用が始まり、1769年にジェームズ・ワットがニューコメン機関(大気圧機関)を改良してのち蒸気機関の燃料として石炭の使用が大幅に増加しました。19世紀にはコークスによる製鉄が行われ鉄の大量生産が可能となります。20世紀前半まででは石炭が世界のエネルギー源の約80%を占めるほどになっていました。20世紀後半は石油が石炭に代わって急速に利用されるようになりました。1973年のオイルショックによって安価な海岸炭が見直されるようになります。現在では環境問題に対応して石炭の有効利用と技術開発が重要な課題となっています。

日本・・・世界でいちばん多く石炭を輸入している国
 かつては、北海道や九州を中心として日本各地に炭坑がありましたが、現在では北海道の太平洋炭坑と九州の池島炭坑だけになっています。そのため日本の石炭輸入量は1998年度の統計によると年間1億2658万トンで、世界全体の輸入量の約27%を占めています。(輸入量が日本に次いで多いのは韓国10%、台湾8%、オランダ・ドイツ・イギリスは各4%、イタリア3%の順となっています。)また輸入先は2000年度の統計でオーストラリアからが54%、カナダ13%、中国10%、米国5%などとなっています。国内で消費される石炭の約96%が輸入した石炭で、国内産は約4%です。

暮らしを支える石炭
 日本における1次エネルギーの供給割合のうち石炭は14.9%(3562PJ)で、エネルギー消費のうち石炭の占める割合は全エネルギーの17%を占めており、発電では18%、鉄鋼では72%、セメントでは80%となっています。日本国内では石炭は年間1億3019万トンが使用されていますが(2000年度統計による)、そのうち鉄鋼で47%、電力で35%、セメント・窯業6%、コークス4%、パルプ・製紙3%などで、また、石炭は肥料、農薬、染料、医薬品、タイヤ、印刷用インクなどの原料となっており、炭素繊維の原料としても石炭が利用されています。石炭の燃焼による灰は、セメントの原料や建設・土木資材などに利用されるなど有効的な活用も行われています。

環境対策のための技術開発
石炭の燃焼によって発生する二酸化炭素・硫黄酸化物・窒素酸化物は地球温暖化や酸性雨の原因となっています。また燃焼による石炭灰(フライアッシュ)は、その処理が問題となっています。1975年には電源開発(株)高砂発電所で、石炭排煙脱硫1号機が稼働、1980年には住友石炭(株)赤平炭鉱で流動床ボイラーが稼働するなど環境対策のための技術開発が行われており、現在では「二酸化炭素などの発生を抑える技術」「硫黄酸化物や窒素酸化物を除去する技術(排煙脱硫装置など)」「石炭の石炭ガス化・水素化・石炭液化などの技術」「石炭灰を混入したセメントや培養土への有効利用のための技術」開発や利用が行われています。


その他の技術遺産

三池炭鉱万田坑跡(熊本市荒尾市)
(国重要文化財・史跡)※内部の見学に許可が必要
 1902(明治35)年開坑の大正〜昭和初期の主力坑で、当時日本最大規模の竪坑。1951(昭和26)年閉坑。現在は第2竪坑櫓と捲揚機室、安全灯室、事務所棟、山の神祠等が残っています。
捲胴 横置単胴複式 直径3.96m、幅1.52m
255kw三相交流誘導電動機

三池炭鉱七浦坑跡
 1883(明治16)年開坑。第1・第2立坑と第3斜坑があり大正〜昭和初期に閉坑。官営期に近代的な活躍を始めた主力坑。

山の神社跡
祭神は愛媛県大山祇大神。1905(明治38)年建立の鉱山の神。大鳥居は一般坑夫の寄付金等で1916(大正5)年に建立。

三池炭鉱・旧労務館
現(株)三井化学大牟田工場講堂
1932(昭和7)年竣工。初期の鉄筋コンクリート造の事務所建築。部分的なアールや壁面の一見タイル風の煉瓦が特徴。

泉橋
 1919(大正5)年竣工。大牟田市内で初めてのコンクリート橋(2連続剛節橋)。三池炭鉱の医局への通路として利用されました。

旧三川電鉄変電所
国登録文化財(平成12年12月)
現・(株)サンデン本社屋・倉庫
 1909(明治42)年に当時の三井鉱山が取得した切妻平屋煉瓦造の変電所。三池炭鉱専用鉄道の変電所。

カーバイド冷却室
1928(昭和3)年竣工。初期の鉄筋コンクリート造で平屋建切妻の建物。梁などに木造建築の技法が見られます。

旧長崎税関三池支署
現・三池港物流(株)渠内事務所
 1908(明治41)年に長崎税関三池支署として開庁。洋風木造瓦葺平屋建。屋根は入母屋風。三池港は開港と同時に開港場に指定されたため、外国の船舶も入港するようになり、通関の手続きをするために設置されました。

三池炭鉱三川坑跡
 1940(昭和15)年開坑。2本の斜坑と東洋一の選炭場を持つ戦後の最主力坑。本格的な海底採鉱のために開坑しました。戦後の三池争議炭塵爆発事故などが起こったのはこの三川坑。昭和43年 宮浦坑からの本坑口を三川鉱横へ移転。1997(平成9)年3月閉坑。これによって三池炭鉱は閉山しました。

大牟田商工会議所
 1936(昭和11)竣工。元の大牟田駅跡地に建設されました。鉄筋コンクリート造陸屋根2階建は当時の先端で商工業の近代化の拠点となりました。

大牟田市役所本館
 1936(昭和11)年竣工。当時の典型的な官庁建築。鉄筋コンクリート4階建。アールや装飾が特徴。4階の旧・貴賓室(現・教育委員会生涯学習課)にはマントルピース(暖炉)のレリーフやカーテンボックスが残っています。

早鐘眼鏡橋
日本最古の石造アーチ式水路橋 1674(延宝2)年に三池藩によって建造。
三池藩が灌漑用に三塚山麓に造った「早鐘池」(筑後第一の溜池といわれた)からの用水を大牟田川の南側に通すために早鐘眼鏡橋を建設しました。日本最古の石造アーチ橋が長崎で建造されてから40年後に建造されたもので、石造アーチ式水路橋としては日本最古のものです。

大牟田市上水道四山第1配水池
1925(大正14)年竣工。三川を見下ろす四川にあります。

その他の技術関連施設
昭和アルミニウム缶
日本初のアルミ缶製造会社の工場。缶ビール用製造工程を見学したり、アルミ缶リサイクルについて学べます。


三池炭鉱の歴史
1469年に農夫の伝治左衛門が薪集めの途中、三池郡稲荷山(現在の大浦町付近)で焚火をしているうちに、そばの黒い石に火が燃え移り「燃える石」(石炭)を発見したと言われています。
1721年平野山炭山が柳川藩営となる。
1738年稲荷山炭山が三池藩営となる。
1800年ころ(江戸時代)には三池で産出した石炭は瀬戸内海で製塩用の燃料として使われていました。
1873年三池炭鉱が官営となる。
良質の「三池炭」が国内だけでなく中国やイギリスなどに輸出される。
1878(明治11)年 大浦坑〜大牟田川河口に馬車鉄道が開通
1889年官営三池炭鉱が三井組(三井財閥)に払い下げられ、三井三池炭鉱となりました。
最高責任者(事務長)に團琢磨が任命される。
1891(明治24)年 三池横須浜〜七浦坑に蒸気機関車による運炭鉄道が開通、明治42年に全線開通。電化工事は明治末から開始されて大正12年に完成。
1892(明治25)年 三池横須浜にビーハイブ炉(コークス炉)が完成
1893年 勝立立坑が開削中に出水し水没。復旧に団琢磨は当時世界最大であったデービーポンプをイギリスから購入することを提案し、2台設置して復旧した。
1894(明治27)年 七浦に火力発電所が完成、坑外に電燈がつく。
1898(明治31)年 三池炭鉱宮原坑操業開始
1902(明治35)年 宮原坑に三池炭鉱で最初の電動によるチャンピオン扇風機が設置される。七浦坑に馬を使った巻揚機でのトロッコによる石炭の運搬に代わって、電動のエンドレス機を設置する。三池港築港工事が開始
1905(明治38)年 三池炭鉱専用鉄道 万田〜四山間開通
1908(明治41)年三池港開港
1913(大正2)年 三池ガス発電所が運転開始
1918(大正7)年 三池焦煤工場染料工場竣工、石炭化学コンビナートが形成される。
1919(大正8)年 万田坑に石炭掘削用のコールカッターを導入し手堀に代わって採炭法が機械化される。
1923(大正12)年 輸送石炭量が1日約1500t
1932(昭和5)年 三池、坑内請負制度・女子の入坑を廃止、囚人の採炭作業を廃止
1934(昭和7)年 團琢磨が暗殺される。
1940(昭和15)年 三池三川坑竣工
1945(昭和20)年 大牟田、米軍による空襲
1951(昭和26)年 人工島の初島ができる。
1953(昭和28)年 第2人工島の港沖人工島ができる。
1957(昭和32)年 大牟田市で産業科学大博覧会が開催
1960(昭和35)年 三池炭鉱の争議が10ヶ月間続く
1963(昭和38)年 三川坑で炭塵爆発事故が発生、死者458人
1970(昭和45)年 第3人工島の三池島ができる。
1997(平成9)年3月30日 三池炭鉱が閉鉱


三池炭鉱の出炭量
1890年  47万t
1900年  75万t
1910年 183万t
1920年 186万t
1930年 216万t
1940年 377万t
1950年 203万t
1960年 119万t
1970年 657万t
1980年 533万t
1990年 214万t
1997年 218万t(閉山時)

※三池炭鉱は、炭層が有明海側に傾斜しているため、時代とともに坑口が山側から海側へ移り変わっていきました。四山坑・三川坑・有明坑・三池坑は有明海海底350〜450m付近の炭層を採掘していました。

新開竪坑
新港竪坑
四ツ山竪坑 1918(大正8)年・・・高さ48m コンクリート製竪坑(東洋一の規模といわれる)
四ツ山新竪坑

大浦坑 1857年〜1926年
七浦坑 1883年〜1897年
宮浦坑 1889年〜1977年
勝立坑 1895年〜1928年
宮原坑 1898年〜1931年
万田坑(熊本県荒尾市) 1902年〜1951年 万田竪坑・・・明治31年レンガ造
四山坑 1923年〜1987年(三池坑へ)
三川坑 1940年〜1987年(三池坑へ)
有明坑(三池郡高田町) 1977年〜1989年(三池坑へ)
三池坑 1987年〜1997年(三池炭鉱閉山)


大牟田市
大牟田町が大牟田市になった1917(大正6)年は68000人であった人口も1959(昭和34)年には20万9000人まで増加していました。


三井石炭鉱業(株)三池鉱業所 従業員の推移(各年度4月1日現在)
1992(平成4)年 1793人
1993(平成5)年 1648人
1994(平成6)年 1506人
1995(平成7)年 1386人
1996(平成8)年 1327人
1997(平成9)年3月30日 三池炭鉱閉山


炭坑で使われていた言葉
ボタ・・・炭坑で石炭以外の廃石や捨て石のこと。これを捨てていくうちに積もってできたのが「ボタ山」
うまごろし(馬殺し)・・・炭層にあるボタ層のこと
先山・・・仕事に熟練した、経験のある人たちのこと
後山(後向き)・・・先山の仕事を助ける役割のことを指しますが、後山としての仕事は充分ありました。
スカブラ・・・なまけもののことをスカブラ鉱夫と言っていました。
ハガマ鉱夫(渡り鉱夫)・・・一定のヤマ(炭鉱)でながく働かない鉱員のこと
バレル・・・坑内の天井が崩れ落ちること
テボ・・・石炭を背負って運搬するカゴのこと
マンゴク・・・坑外で石炭を選別する道具のこと
ばんじり(番尻)・・・順番の一番後ののこと。番待のどんじり
ドマグレはずし・・・炭車や台車の脱線直しのこと。脱線戻しとも言います。
つらごうたい(面交替)・・・現場で交替すること
荷がくる・・・坑内で天盤に圧力がかかる状態を指します。
狸堀り・・・狸の穴のような坑道を掘って石炭を採掘する原始的な方法
けつわり・・・ずる休みをすること


参考文献
大牟田市史編集委員会編集「大牟田市史(中巻・下巻・補巻)」
町田定明編集・発行「みけのくに」「三井三池各事業所写真帖」
朝日新聞西部本社編「石炭史話」
大城美知信・新藤東洋男著「わたしたちのまち三池・大牟田の歴史」
三井鉱山株式会社発行「男たちの世紀・三井鉱山の百年」
朝日新聞社発行「アサヒグラフ3912号」
明治大正炭坑絵巻刊行会議編集「明治大正炭坑絵巻」
「三池炭鉱史」教育社
大牟田市石炭産業科学館「めたせこいあ」(創刊号 2000年)


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