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技術のわくわく探検記 2001.8.10.
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鹿児島・藩政時代の技術遺産めぐり〜厚地松山製鉄遺跡・二ッ谷製鉄遺跡(鹿児島県知覧町)
ミュージアム知覧(鹿児島県川辺郡知覧町郡17880)
※水車ふいごシミュレーション模型、発掘された羽口・鉄滓・砂鉄など
厚地松山製鉄遺跡(知覧町厚地松山枦場)
※江戸時代、鹿児島県知覧町厚地川上流一帯で操業されていた石組製鉄炉での砂鉄による製鉄所跡
厚地松山製鉄遺跡は厚地川上流一帯の約1万平方メートルにも及ぶ江戸時代から明治時代にかけての製鉄所跡です。これまで文献でしかわかっていなかった薩摩の水車ふいごを使った石組製鉄炉による製鉄の存在を裏付けるものとして注目されています。調査は現在続けられているところです。今回の見学会で案内していただいた厚地松山製鉄遺跡では、厚地川沿いの斜面に投棄された大規模な排滓場や、水車石積み跡などを見せていただきました。
二ッ谷製鉄遺跡(知覧町東別府二ッ谷)
二ツ谷製鉄遺跡は、薩摩半島中央部の山間地、知覧町東別府二ツ谷の永里川上流右岸一帯にあり、平成11年2月に発見されたものです。石組製鉄炉、水路、水車跡が発掘されており、江戸時代以降に操業されていたものとされています。
知覧特攻平和会館
海底から引き揚げられた特攻機「零戦」
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鹿児島県内に残存する石組製鉄炉〜知覧周辺の製鉄遺跡
鹿児島では古くから南九州沿岸の砂鉄を利用して製鉄が盛んに行われてきた地域で、現在までに98ケ所以上の製鉄関連の遺跡が発見されているということです。
明朝(中国)の時代、万暦20年(1592)頃に編纂された「日本風土記」では「薩摩州沿岸黒沙煎出・・・・」と記録されていて、薩摩の沿岸で採れる砂鉄が特産品となっています。
昭和7年(1932)に島袋盛範氏が「藩政時代における製鉄業」鹿児島県内34ケ所の製鉄遺跡の調査と古老から聞いて描いた知覧の製鉄炉(切石を組合わせて積み上げた高炉状の製鉄炉・・・・石組製鉄炉)について報告しており、このような製鉄炉が実際に存在していたかどうか真偽が問われていましたが、近年、鹿児島県大隅半島の二川・炭屋(肝属郡根占町)をはじめとして、平成8年に厚地松山、大隅半島内之浦町、平成9年には薩摩半島喜入町、平成11年には知覧町二ツ谷などで相次いで石組製鉄炉が発見されました。これらの石組み製鉄炉は、石を積み上げた高炉状の製鉄炉で砂鉄と木炭を投入しやすいように片側にスロープを設けて築かれているのが特徴です。こうした形態の製鉄炉は日本列島内では鹿児島周辺にだけにしか存在していないことや、かつて鹿児島周辺でこうした形態の炉による製鉄が盛んに行われていたということが明らかになりました。そして洋式の近代製鉄が始まる幕末以前に、日本でどのような製鉄技術も基盤が存在していたかを解明する手がかりとなる遺跡が発見されたことになります。しかし、こうした石組製鉄炉が使用された時期や、技術的な系譜、良質の銑鉄製造のために幕末の島津斉彬による洋式高炉製鉄の受容との関連など、まだ明らかにはなっていません。
文献では、天明4年(1767)の下原重信『鉄山必要記事』に「(薩摩は)鉄ノ吹ヤウ違フナリ、鞴ハ琉球人ノ細工ニテ、水車ニテ鞴ヲ差シ申シタルヨシ」とあり、また慶応3年に薩摩藩主島津忠義が招聘したフランス人鉱山技師コワニェ(Coignet)の日記(具体的な操業に関する記述がある)には「炉の内部は、円錐形をしていて、炉底の直径は1m、炉頂は直径66cm、炉高は2m25cmである」と記録されています。さらに幕末に知覧で製鉄所を経営していた赤崎休右兵衛に関する記事や、昭和7年の島袋盛範による知覧で聞いた炉のスケッチ画などに製鉄を行っていたことに関する記録を見ることはできますが、築炉の方法や形態、技術的なノウハウなどを記録したものが無いため、製鉄技術史上の系譜については明らかになっていません。
また薩摩の水車ふいご(水排・・・・水力を動力とする冶金用の送風装置)についても天明4年(1767)の下原重信による『鉄山必要記事』や天保14年(1843)編纂の「三国名勝図会」に記録があるが、これらがいつどこから伝えられたものかについてはわかっていません。今回の見学会で訪れた二ツ谷製鉄遺跡では、製鉄炉よりも高い場所に水路があり、また厚地松山製鉄遺跡も厚地川の面しています。湿気を嫌う製鉄炉をあえて川沿いに築いた理由は、鉄塊の冷却のほかに水車ふいごを利用していたことによるものであると考えられています。
石組製鉄炉の炉心部分は最大長約1.10m〜1.20m、最大幅約0.80〜0.90mで長方形状または隅丸方形状で、炉高は約1.20〜1.50m程度の竪形炉のものが見つかっています。
炉体を粘土から石組に変えることで、高温による長い操業(粘土で炉を築いた中国地方の「たたら製鉄」では通常3昼夜の操業が限界であったのに対して、鹿児島の石組製鉄炉では3〜7日間で、なかには15日間の長期間にわたって操業を行ったとされるものもあります)で量産が可能となり、炉も操業の度に壊す必要がなくなり炉壁の石組の一部を外すだけで鉄塊を取り出し、再び石組を補修して次の操業に使用することができます。
南九州沿岸の砂鉄は、リンやチタンが多く含まれているため、良質の銑鉄の精錬は難しいことがわかっています。薩摩藩では、石組製鉄炉によって、量産による安価な鉄を市場に供給することで、砂鉄のもつデメリットを克服しようとしたとする考察もなされています。18世紀以降に大坂の市場に薩摩産鉄が出回っていたことは、「元文元年(1736)諸色登高并銀高表」の原本である『元文元年丙辰年中従諸国大坂江所色商売物來高并銀高寄帳』には中国地方の諸国と並んで薩摩が鉄の産地となっており、天明4年(1767)の下原重信による『鉄山必要記事』にも鉄の産地として薩摩の記録を見ることができます。
厚地松山製鉄遺跡
鹿児島県知覧町の厚地川上流一帯は、多量の鉄滓が分布堆積していて、鉄づくりをおこなっていたという伝承が残っていた地域でした。1991(平成5)年の自然災害による水車跡石積み遺構の倒壊の危惧から保存のための発掘調査を進める過程で、平成7年〜8年にかけての発掘調査では、坊主木の軸受けと考えられる基礎石4基、鉄滓、炉壁、ふいごの羽口など製鉄炉・鍛冶炉に関連する数多くのものや鍛冶炉そのものが発見されました。平成10年には製鉄炉の発見がありました。さらに平成11年には金床石と考えられるものも発見されています。
考古地磁気年代推定法や14C放射性年代測定法によると18世紀後半〜19世紀前半頃のものとされています。厚地松山製鉄遺跡では、製鉄炉だけではなく、精錬鍛冶炉(楕円形で底部が椀形の土を掘った簡単なもの)も発見されています。このように厚地松山製鉄遺跡は厚地川上流一帯の約1万平方メートルにも及ぶ江戸時代から明治時代にかけての製鉄所跡です。これまで文献でしかわかっていなかった薩摩の水車ふいごを使った石組製鉄炉による製鉄の存在を裏付けるものとして注目されています。調査は現在続けられているところです。
今回の見学会で案内していただいた厚地松山製鉄遺跡では、厚地川沿いの斜面に投棄された大規模な排滓場(最大長約24m、最大幅約16m、高さ約4m・・・・排滓をわざわざこのような高い場所に運んできた理由はわかっていない)や、水車石積み跡、川底の凝灰岩を正方形にくり貫いた遺構、鍛冶炉などを見せていただきました。
二ツ谷製鉄遺跡
二ツ谷製鉄遺跡は、薩摩半島中央部の山間地、知覧町東別府二ツ谷の永里川上流右岸一帯にあり、平成11年2月に瀬戸口幸一氏によって発見されたものです。石組製鉄炉、水路、水車跡が発掘されており、江戸時代以降に操業されていたものとされています。今回の見学会では、製鉄炉を見せていただきました。遺跡に現存する製鉄炉は、石を積み上げて炉壁(炉壁には溶融した鉄滓が付着おり、石組の隙間を埋めるために粘土が充填してあります)とし、高炉状に築いたいわゆる石組製鉄炉で、最大長約6.30m、最大幅約1.80m、製鉄炉内の幅約1.10m×0.70mの長方形状で、高さ約1.10mです。なおこの他にも、作業場、岩盤刳り抜きの水路、排滓場(炉の東側)、石組みの水車跡(下流約50m)、直径約10mの巨大な炭窯(上流約50m)も発掘されているということです。
尚古集成館 文化財課長 松尾 千歳氏
ミュージアム知覧 学芸員 上田 耕氏
鹿児島大学教育学部 長谷川 雅康先生
鹿児島県知覧町教育委員会「鹿児島県知覧町埋蔵文化財発掘調査報告書第9集 厚地松山製鉄遺跡」2000年3月31日発行
上田耕「鹿児島県内に残存する石組製鉄炉」ミュージアム知覧起用第6号 2000(平成12)年3月