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技術のわくわく探検記 2001.8.10.


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「鹿児島・藩政時代の技術遺産めぐり〜石橋記念公園・石橋記念館」(鹿児島県鹿児島市)

鹿児島県立石橋記念公園(鹿児島市浜町1−3)
石橋記念館
西田橋
高麗橋
玉江橋

祇園之洲砲台跡

鹿児島市の中心を流れる甲突川には、かつて上流から「玉江橋」「新上(しんかん)橋」「西田橋」「高麗橋」「武之橋」の5つの大きな石造アーチ橋が架かり、「甲突川の五石橋」と呼ばれていました。1993(平成5)年8月6日、市街地の約1万2千戸が浸水するなど大災害をもたらした集中豪雨による洪水で、五石橋のうち「武之橋」と「新上橋」が流失してしまいました。そこで残った3橋は、貴重な文化遺産として後世まで確実に残すため、河川改修に合わせて移設して保存することになりました。石橋記念公園には「西田橋」(創建時の姿を基本に復元)、「高麗橋」(現存している史料に基づき、明治から大正にかけての改変後、昭和初期の姿を基本に復元、それ以前の姿がわかる史料は現存していないことによる)、「玉江橋」(昭和30年頃まで創建時の形状を留めていたと考えられ、写真などの現存する史料から、江戸末期の創建時の姿を基本に復元)が移設されており、「石橋記念館」では五石橋の歴史や架橋技術について、精巧につくられたジオラマ(特に「西田橋」の架橋工程はジオラマに加えてコンピュータグラフィックスで基礎工事・支保工の組み立てからはじまる架橋工程が紹介されています)や、ミラービジョン、大型マルチ映像などで解説しており、さらに鹿児島・日本・世界の石橋文化の比較や石橋の移設・復元工事の過程を映像として見ることができるようになっています。1階入口には、西田橋の基礎構造が再現されており、ガラス製フロアーの下に見ることができます。五石橋をどのように架けたかという具体的な史料は残っていないということですが、五石橋の解体復元工事や石橋架橋に関する史料、石材業者からの聞き取りによって五石橋の架橋工程を再現したことは、解体移設復元工事に伴う大きな成果であると言えます。肥後の石工・岩永三五郎を育てた石工集団と九州各地に数多く見られる石造アーチ橋との関連にも注目させてくれます。


技術教育研究会 第34回全国大会 福岡大会「地域の技術見学会」

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石橋記念公園・石橋記念館(鹿児島市浜町1−3)

鹿児島市の中心を流れる甲突川には、かつて上流から「玉江橋」「新上(しんかん)橋」「西田橋」「高麗橋」「武之橋」の5つの大きな石造アーチ橋が架かり、「甲突川の五石橋」と呼ばれていました。
 この五石橋は、江戸時代末期に鶴丸城下(1826(文政9)年には人口が約7万2千人に達し、名古屋、金沢と並ぶ都市になり城下は甲突川の川外である右岸側へも進展していき、交通路としての橋の重要性が増しました)整備の一環として架けられたもので、1838(天保9)年に発生した甲突川の氾濫を契機に、新上橋から下流の河川改修が行われ、このとき4つの木橋を石橋に架け替え、さらに玉江橋が上流に新しく架けられました。
甲突川は、天保以前は桜島から集められた人夫によって堆積した土砂を取り除く程度で、川の屈曲や堤防の凹凸も多く、毎年のように氾濫していました。1838(天保9)年の大水害を契機に、新上橋から下流の川幅の統一や堤防護岸の整備、川底の浚渫などの大改修を実施し、あわせて五石橋を架けました。当時の治水対策は、左岸側の城下を守るために、右岸の堤防を1尺(約30cm)ほど低くして田畑に溢れさせるという考え方が採られていました。
これらの事業は、薩摩藩の財政改革の成功と、1840(天保11)年頃に肥後(現在の熊本県)から郡奉行見習の待遇で招かれた石工棟梁・岩永三五郎によって架橋が実現した歴史的所産です。岩永三五郎の補佐は藩大工頭・阿蘇鉄矢が担当しました。
幕末の動乱期を控えた天保期(1830年〜1843年)には、幕府をはじめ各藩はは財政難に苦しむところが多く、薩摩藩も年間収入10数万両に対し、500万両の借金を抱えるという窮乏状態でした。そこで下級武士出身であった調所広郷を登用し、薩摩藩の天保の改革が始まりました。調所広郷による重商主義政策など様々な対策の実行によって、10年余で50万両を備蓄するとともに、200万両をつぎ込んで産業基盤となる社会資本の整備を進めました。甲突川の五石橋築造もそうした整備の一環として行われたものです。
こうして4キロメートルの区間に5つの長大石橋が架かる城下町が誕生することになりました。また、主に中国から伝わった架橋技術が石垣伝統技術とも融合して独自の発展を遂げた日本を代表する石橋群で、創建以来150余年の間、現役の橋として利用されてきました。
 しかしながら、1993(平成5)年8月6日、市街地の約1万2千戸が浸水するなど大災害をもたらした集中豪雨による洪水で、五石橋のうち「武之橋」と「新上橋」が流失してしまいました。そこで残った3橋は、貴重な文化遺産として後世まで確実に残すため、河川改修に合わせて移設して保存することになりました。
 西田橋の移設地は1701(元禄14)年に幕府の許可を得て造成された埋め立て地で、藩政時代には江戸芝の神明宮を祀ってからは神明前築地と呼ばれ、抱真院などの寺社のほか、島津分家の重富、今和泉の下屋敷や船着場などがありました。高麗橋の移設地は天保年間(1830年〜1843年)に稲荷川の浚渫土砂を堆積して祇園之洲と呼ばれ、1853(嘉永6)年には島津斉彬によって祇園之洲砲台が築造(薩英戦争でイギリス艦隊の砲撃により破壊され、その後修復強化されました)された場所です。これらの石橋の移設地(石橋記念公園)である稲荷川河口は、石工・岩永三五郎が鹿児島で最初に石橋を架けた場所でもあります。1842(天保13)年に木橋から石造3連アーチ橋の「永安橋」(洪水の最中に岩永三五郎自らが川に潜って橋脚基礎の安全をたしかめたことから名づけられたと言われています)を完成させると、さらに上流に2連の「戸柱橋」、1連の「黒葛原橋」「一ツ橋」「大乗院橋」を架けました。こののち甲突川に移って五石橋を架けることになりました。
 移設復元工事は、文化財や土木工学等の専門家の指導、助言を得ながら進め、「西田橋」(創建時の姿を基本に復元)、「高麗橋」(現存している史料に基づき、明治から大正にかけての改変後、昭和初期の姿を基本に復元、それ以前の姿がわかる史料は現存していないことによる)、「玉江橋」(昭和30年頃まで創建時の形状を留めていたと考えられ、写真などの現存する史料から、江戸末期の創建時の姿を基本に復元)の移設と、あわせて五石橋の歴史や技術等を伝える「石橋記念館」を整備して2000(平成12)年に「石橋記念公園」として開園しました。

石橋記念館には、1階に常設展示室、2階にガイダンスホールがあります。常設展示室には、五石橋の歴史や架橋技術について、精巧につくられたジオラマ(特に「西田橋」の架橋工程はジオラマに加えてコンピュータグラフィックスで基礎工事・支保工の組み立てからはじまる架橋工程が紹介されています)や、ミラービジョン、大型マルチ映像などで解説しており、さらに鹿児島・日本・世界の石橋文化の比較や石橋の移設・復元工事の過程を映像として見ることができるようになっています。ガイダンスホールでは五石橋のあらましや石橋移設地乗れ岸について紹介するとともに、石橋に関するデータや映像が検索できるようになっています。1階入り口には、西田橋の基礎構造が再現されており、ガラス製フロアーの下に見ることができます。
五石橋をどのように架けたかという具体的な史料は残っていませんが、五石橋の解体復元工事や石橋架橋に関する史料、石材業者からの聞き取りによって五石橋の架橋工程を再現したことは、解体移設復元工事に伴う大きな成果であると言えます。


「玉江橋」
石造4連アーチ橋
橋長50.7m 幅員4.0m
竣工 1849(嘉永2)年
建設費(当時)1560両
相対距離 0km(起点)
1999年移設
※城下の中心からやや離れた場所に架けられていますが、小野村・永吉村へ通じる橋で、伊敷不動堂に参詣する人たちのために造られたとされています。他の4橋に比べて、交通環境の変化による改造を受けていませんでしたが、最上流に位置し、洪水のために水切り石などがたびたび被害を受けて補修・補強がされていました。

「新上橋」
石造4連アーチ橋
橋長46.8m 幅員4.8m
竣工 1845(弘化2)年
建設費(当時)2415両
相対距離 2.07km
1993(平成5)年8月6日の洪水で流失
※甲突川に最初に架けられた石橋で、九州か移動へ通ずる脇道にありました。西田橋築造の際には代替橋に使われました。5石橋の名かではもっとも川幅が狭いところに架けられており、壁の踏ん張りを大きくして洪水時には堰きとなって上流右岸側の川外に溢れさせたと言われています。これは左岸側の城下を守るためのものです。

「西田橋」
石造4連アーチ橋
橋長49.5m 幅員6.2m
竣工 1846(弘化3)年
建設費(当時)7127両
相対距離 2.54km
1999移設
※九州か移動の道筋にあって参勤交代の列が通った西田橋は、城下の玄関口として薩摩藩の威光を誇示した橋で、岩永三五郎の代表作でもあります。木橋から石橋への架け替えの際にも、由諸ある橋として木橋時代の青銅擬宝珠をそのまま使い、丸柱の精巧な高欄とするなど、他の4橋に比べて約3倍の建設費がかけられました。左岸側(東側)の橋のたもとに御門があり、御門脇には番所があって城下の武士や町人、領内を通過する旅人はこの番所で改めを受けて通行していました。

「高麗橋」
石造4連アーチ橋
橋長54.9m 幅員5.4m
竣工 1847(弘化4)年
建設費(当時)2800両
相対距離 3.38km
1999移設
※五石橋のうち3番目に架けた橋で、それまでの新上橋や西田橋に比べて、上流側の水切石が垂直に近い勾配で立ち上がった独特の形状が特徴とされています。この頃から架橋には岩永三五郎の指導のもとで地元の棟梁・山田竜助らが活躍します。橋の両眼、加治屋町と高麗町からは明治維新の志士たちが輩出しています。

「武之橋」
石造5連アーチ橋
橋長71.0m 幅員5.5m
竣工 1848(嘉永元)年
建設費(当時)2400両
相対距離 4.05km
1993(平成5)年8月6日の洪水で流失
※五石橋のうちで最も河口近くに架けられた橋で、指宿、山川につながる道筋にあります。明治以前の石橋では唯一の5連アーチ橋として日本一の長さを誇っていました。創建時には中央部が盛り上がっていて、他の4橋のように橋面を単一曲線としていませんでした。これは技術的な制約によるものか、舟運の便を考慮したものか、意匠的なものか、その理由は不明です。上流に路面電車軌道を含む新しい橋が完成した1964(昭和39)年からは歩行者専用として利用されていましたが、1993(平成5)年8月6日の洪水で流失してしまいました。


肥後の石工・岩永三五郎
1793(寛政 5)年 石工・宇七の次男として八代郡西野津村で誕生
肥後石工で最初の石造アーチ橋を架けたという仁平の流れをくむ石工集団から技術を学ぶ。
1817(文化14)年 雄亀滝橋(現在の熊本県下益城郡砥用町)を架設
1820(文政 3)年 八代郷中石工共惣引廻役で七百町新地築造に着手
1830(天保 元)年 七百町新地の完成。この功績で岩永姓を許される。
矢部郷や八代郷などで8橋以上を架設する。
1840(天保11)年頃 薩摩藩に郡奉行見習待遇で招かれる。
1841(天保12)年 東風除岸岐(三五郎波戸)を築造
1842(天保13)年 稲荷川河口で、石橋の架橋をはじめる。石造3連アーチ橋の「永安橋」(洪水の最中に岩永三五郎自らが川に潜って橋脚基礎の安全をたしかめたことから名づけられたと言われている)を完成させると、さらに上流に2連の「戸柱橋」、1連の「黒葛原橋」「一ツ橋」「大乗院橋」を架け、合計6橋を架設する。
1845(弘化 2)年〜1849(嘉永2)年 甲突川に五石橋を架ける。
1842(天保13)年〜1849(嘉永2)年までの間に城下・川内・指宿などで20橋以上を架設し、河川改修や新田開発(潮止め護岸工事)も行った。
1849(嘉永 2)年 川内の「江ノ口橋」を最後に、八代郡鏡町村へ戻る。
1851(嘉永 4)年 死去(現在も鏡町芝口に墓が残っている)

当時、薩摩藩家老・調所広郷のもとで蔵方目付をしていた海老原清熙によれば、岩永三五郎は「性質淡薄寡欲まことに良工なりしは人の能く知るところにして、水利を視、損失を考え、大数を測るに敏なる所にして、初めて見る地と雖も神の如し」と優れた石工としての評価をされています。一方で「筆算に拙き者故、阿蘇副うて常に之を補う」とも言っています。岩永三五郎の補佐は藩大工頭・阿蘇鉄矢が担当していました。
当時は、設計についての理論的な計算方法があったわけではなく、紙の上や地面に川幅に相当する円弧を描いて基本の形状を決め、石の材質や運搬を考えて部材の厚さや幅、長さを決め、アーチ石の加工のための型板は、原寸の円を描いて作っていたと考えられています。
経験的に蓄積された石造アーチ橋の架橋技術ですが、基礎石の不同沈下を防止するための「梯子胴木」、アーチ支点を固定するための基礎構造、橋脚の水平移動を防止するための「楔石」、両岸のアーチ基部に作用する水平力に抵抗するための「反力石」(人口岩盤)、水流による河床の洗掘を防ぐための「護床敷石」(1673年に築造された木造アーチ橋の「錦帯橋」を除けばほとんど事例がない)、支保工とアーチの組み立て工程、洪水時の流水圧を橋本体に分散させる壁石の傾き(75度〜87度)と橋脚の「水切石」、左岸側の城下を守るために右岸の堤防を1尺(約30cm)ほど低くして田畑に溢れさせるという治水対策、機能性と美意識から生まれた単曲線アーチと壁石組み(二重アーチと扇状の壁石組み)、などに優れた工夫が凝らされています。