産業技術遺産探訪 2001.6.17./2002.12.15.

白石工業(株)
白艶華工場・炭酸カルシウム乾燥小屋  

群馬県甘楽郡下仁田町青倉1177番地

 白石工業株式会社・白艶華工場で製造される「膠質炭酸カルシウム(白艶華)」の最終工程である乾燥工程で使われていた乾燥小屋(本乾燥小屋)で、かつて最盛期にはこのような乾燥小屋が118棟ありました。

 現存する乾燥小屋は白艶華工場の敷地の南西部にある3ブロック20単位(1単位は3間(7.5m)×6間(11m))です。傾斜地を利用して、上段にある乾燥小屋の1階と、下段の乾燥小屋の2階がトロッコで結ばれていました。


木造2階建の乾燥小屋の高さは約10m
乾燥棚は43段あります。
2階建ては昭和10年代からつくられた乾燥小屋で、
白艶華工場の創業当時は平屋でした。

 
柱はカラマツ材、梁はクリ材、棚はスギ材が使われています。
1つの乾燥棚に、水分を含んだ加工品(ナマ)を入れた木箱(32cm×95cm)5個が並べられていました。
乾燥小屋の中央にはトロッコの通路が設置されています。


白石工業株式会社・白艶華工場

 1909(明治42)年、白石工業商会の白石恒二は、生石灰や消石灰を製造する工程で、石灰石を石灰炉の中で無煙炭またはコークスによって焼成するときに発生する炭酸ガスを廃棄せずに、生石灰に水を加えた石灰乳と化合させて炭酸カルシウムに再還元させることによって、アルカリ性の生石灰や消石灰と比べて扱いやすい中性で良質の沈降炭酸カルシウム(軽微性炭酸カルシウム)を得る「炭酸ガス化合法」を発明し、この方法による製造方法を開発することに成功しました。この軽微性炭酸カルシウムは、機械的に粉砕したものに比べ、粒子が均一で、粒子径も0.5〜3.0ミクロンと非常に微細なものを製造することができました。そして1910(明治43)年8月15日には、広島市吉島町に工場を建設し、「軽微性炭酸カルシウム(特許白石式軽微性炭酸カルシューム)」の製造を開始しました。これは、日本における最初の化学工業製品となりました。まもなく、高品質で安価な「軽微性炭酸カルシウム」の需用が高まったため、1919(大正8)年、三重県桑名市に「桑名第1工場」を新設しました。需用の拡大に対応するため、東日本に新たな製造拠点となる新工場をつくることになりました。良質な原料としての石灰岩と、乾燥工程に不可欠な気候などの立地条件を探し求めて日本各地を調査したところ、群馬県青倉村が選定され、1923(大正12)年10月22日に新工場の建設が着工されました。
 1927(昭和2)年、白石恒二は粒子径0.02〜0.08ミクロンという極めて微細な「膠質炭酸カルシウム」の製造方法を発明し、桑名第1工場で「白艶華」という製品名がつけられ製造を開始しました。「白艶華」という名称は、「亜鉛華」を意識して、それに対抗する製品という意味が込められています。欧米のゴムメーカーから「白艶華」の製造特許を買収したいという申込みがありましたが、白石恒二は輸入品であった炭酸カルシウムを国産化することにこそ自分の事業の目的があるとして、この新たな製品である「白艶華」を群馬県青倉村で建設中の工場で製造することにしました。そのため、1930(昭和5)年には、あえて工場名は地名の「青倉」ではなく、製品名の「白艶華」とすることに決定しました。この「白艶華工場」という名称には、日本の産業発展の願いが込められたものでした。1932(昭和7)年10月22日に「白艶華」の出荷がはじまり、特にゴム工業に欠くことのできない補強充填剤として認められ、1933(昭和8)年にはイギリスのダンロップ社が全工場で「白艶華」を採用しました。こうして国内はもとより海外10ヶ国以上に輸出されました。「白艶華」は学術名にもなり、白石工業株式会社は、日本の炭酸カルシウム工業のパイオニアとなりました。


世界最大の化合反応槽が1932(昭和7)年5月3日に竣工
(写真は1933(昭和8)年3月に撮影されたものです)



現在の白石工業・白艶華工場

工場の中央に水力発電用の水圧鉄管が残っています。
こうした水力発電施設をもつ工場のレイアウトは、碓氷第1工場にも採用されていました。


乾燥小屋側の工場入口にある門柱は、リベット接合の水圧鉄管を流用したものと思われます。


参考文献

ダイヤモンド社編著「白石工業〜ミクロの世界へ挑む」(ポケット社史) ダイヤモンド社 1970(昭和45)年


白石工業(株)碓氷第1工場・水力発電施設
(群馬県碓氷郡松井田町原25番地)


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