産業技術遺産探訪 2006.7.29./8.1.

中央本線 下り線 笹子トンネル
笹子隧道

長さ 4657.3m
幅   4.58m
煉瓦トンネル・石積坑門

1896(明治29)年12月着工
1902(明治35)年10月竣工

JR中央本線 笹子〜甲斐大和駅間
山梨県大月市笹子町黒野田甲州市大和町初鹿野(旧 東山梨郡大和村)

 笹子隧道(笹子トンネル)は、当時の最新技術を駆使し、日本人技術者によってつくりあげられたトンネルで、この工事によって日本における鉄道トンネル工事の近代化がはじまりました。


JR中央本線 笹子トンネル 入口(東側)
坑門は石積の冠木門タイプ、楯状迫石
右側の壁柱(ピラスター)に工事担当者名を記した碑板

 明治政府による東京−京都間の幹線鉄道計画は、東海道と中山道の2つのルートで比較検討されました。1870(明治3)年6月、土木司員の小野友五郎と佐藤政養(与之助)は東海道ルートの視察によって、在来の運送手段や地域開発の観点から中山道に幹線鉄道を計画すべきであると復命します。これをうけて政府は1871(明治4)年3月、小野友五郎、山下省三らに中山道を踏査させ、さらに1874(明治7)年5月と1875(明治8)年9月にはイギリス人建築師長R・V・ボイルが実地調査を進めます。しかし、緊迫した国内情勢による軍事費支出等で資金不足のため幹線建設は停滞することになります。
 そこで政府は「中山道鉄道公債証書条例」を1883(明治16)年12月に公布して、測量を着手することにしました。しかし建設に着手してみると中部山岳地帯および碓氷峠を通過することが予想外に難工事であり、1886(明治19)年7月19日閣令第24号で幹線鉄道計画は東海道にルート変更されることになりました。

 難工事が予想された中部山岳地帯と碓氷峠は、トンネルの掘削や急勾配を克服するための技術的課題が、当時の未熟な建設技術では解決できなかったことによります。当時のトンネルはほとんど手堀りで掘られていました。そのため短いトンネルしか作ることができなかったのです。
 しかし、1890年代に入ると、工部大学校や東京大学理学部工学科(1887(明治20)年以後は帝国大学工科大学)出身の技術者が、お雇い外国人技術者に代わって活躍をはじめました。その一方で、1892(明治25)年に鉄道敷設法が公布されて鉄道建設の基本方針が確立されていきました。当時、海岸線を走っていた東海道本線は、軍事上、海からの攻撃に弱いとされていたため、日清戦争を前に、東京から名古屋に至る第2の鉄道の建設は軍事面からも、経済面からも大変重要なものと考えられていました。
 この鉄道建設では、すでに開通していた碓氷峠のアプト式鉄道と同じ方式を採用するか、それとも笹子峠を貫く長いトンネルにするか、2つの計画案を検討していました。トンネル建設の経費は400万円(現在の金額に換算すると約230億円)、一方のアプト式鉄道の方は、その1/4の経費が見込まれていました。鉄道庁は鉄道創設以来、トンネルの掘削技術が技術的に未熟なことから、1600mを超えるトンネル工事は避けてきました。また工事にかかる経費も考えてアプト式の建設を考えていました。しかしそのアプト式鉄道に強く反対したのが陸軍でした。
 碓氷峠のアプト式鉄道は、ドイツの山岳鉄道で実用化されていた方式を採用したもので、線路の中央に3本のラックレールが敷設され、アプト式機関車に取り付けられた歯車(ピニオン)を噛み合わせるようにして急勾配の路線を運転するものでした。このアプト式鉄道では、輸送力が大幅に落ちると考えていた陸軍は、碓氷峠(碓氷線)で軍事輸送試験を行いました。(資料:「東京日日新聞」明治26年8月29日)当時の陸軍は、軍馬がトンネルに入ると、蒸気機関車の煙と騒音に驚き落ち着かない、また煙で窒息する馬まで出るだろう、さらに輸送時間がかかりすぎると批判しました。輸送に時間がかかり、輸送量も限定されるなどの欠点を持ったアプト式鉄道の案は却下され、最終的に陸軍の意見が通り、1892(明治25)年に政府は中央線の鉄道建設を決定しました。こうした状況をふまえて再び中山道幹線の計画が立てられ、路線の一部を変更して1896(明治29)年から中央線の建設工事が始まりました。
 中央線の最難関工事区間は、この笹子隧道(笹子トンネル)でした。長さ4656mに及ぶ笹子トンネル工事の成否は、中央線の建設ということだけに留まらず、日本の鉄道網の将来の計画に深くかかわるものでした。すでに甲府付近まで釜無川・富士川の不連続堤(霞堤)を連続堤に改修した舟運航路が1893(明治26)年に完成しており、中央線の鉄道建設が頓挫すれば、内陸の大量輸送手段の主流は河川の舟運の方に移ってしまうことが明らかでした。しかし、1896(明治29)年に釜無川・富士川の堤防が大洪水のために破堤し、その一方で、笹子隧道は1902(明治35)年10月に完成させることができました。これによって舟運に対する鉄道の優位性が確立していきます。

 笹子(ささご)隧道の建設工事は、工部大学校を卒業した古川阪次郎(ふるかわ ばんじろう)の設計・監督(監督長)のもとで、1896(明治29)年12月に着工されました。全長4657.3m(15280フィート)の当時としては考えられないような長さのトンネル掘削工事でした。工事はトンネルの両側から始められました。古川阪次郎はそれまでの旧態依然としたトンネル工事に対して、新しい技術を意欲的に導入していきました。
 古川阪次郎は、日本で初めてトンネル工事用の自家水力発電所をトンネル出口付近の川に建設し、ここで発電した電気によって坑内に電灯や電話を設置し、空気圧搾機を運転、さらに工事用電気機関車(米国製)を導入して、ズリ(掘削した岩や土砂)の搬出と資材の運搬を行いました。また、掘削には電気雷管を用い、三角測量には20秒読みのトランシットをはじめて用いています。
 こうして当時の最新技術の導入をはかり、建設途中の1900(明治33)年に勃発した「北清事変」のために工事を中断したり、硬い岩盤と湧水に妨げられ、一昼夜の掘削による進行がわずか30cmという状態が数ヶ月も続いたにもかかわらず、8年計画であった工事を6年間で完成させました。(1902(明治35)年10月竣工、延べ195万8000人、建設費約190万
で、建築用具費と運送費を合わせると合計220万円)

 中央線・笹子トンネル(長さ4656m)は1931(昭和6)年に上越線・清水トンネル(長さ9702m)ができるまで日本最長のトンネルであり、この時のトンネル施工法(ズリ積みの方法を除く)は1945(昭和20)年までの標準的な山岳トンネルの掘削法となりました。
 笹子トンネルは、当時の最新の技術を駆使して、日本人技術者がつくりあげたトンネルであり、この工事によって、日本の鉄道トンネル工事の近代化が推し進められました。笹子トンネルは、1世紀以上も経つ現在でもJR中央本線のトンネルとして現役で使われています。             

※鉄道トンネル(隧道)工事で、初めてダイナマイト、削岩機、空気圧縮機、換気用タービンが使用されたのは「柳ヶ瀬隧道」(1352m)で、1880(明治13年)に着工、1884(明治17)年に完成しました。この工事では三角測量も実施されました。
 また削岩機は、日本人技術者によってはじめて作られた鉄道トンネルである「逢坂山隧道」(1878(明治11)年着工、1880(明治13)年竣工、長さ665m)でも2台導入されましたが、実際の工事は手掘りで行われていました。

壁柱(ピラスター)に工事担当者名を記した碑板がはめ込まれています。
着手明治廿九年十二月
竣工明治三十五年十月

監督長               鐵道技師工學士 古川阪次郎
監督  自明治廿九年十二月 同          岡村初之助
     至同 三十年十月
同    自同 三十年十月   同   工學士 小川 東吾
     至同 三十二年三月
同    自同 三十二年三月  同   同   岸 金三郎
     至同 三十五年四月
現場監督 自同 三十ニ年九月 同   同   山本 信要
     至同 三十五年十月
電氣監督 自同 三十三年二月 同   同   月埜正五郎
     至同 三十五年十月
東口主任董工           鐵道技手    堅村市三郎
西口同                同        柳沢吉二郎
東口測量掛             同        松田  精
西口同                同        原仙太郎
東口董工助手            同        小山 彌悦
西口同                同         山田東吉郎
同電氣掛               同        大串一太郎
          職工人夫供給受負人    森清右衛門
       鐵道事務官補 吉田淳 書


JR中央本線 下り線 笹子トンネル
入口(東側) 出口(西側)
坑門の扁額「因地利」(額字は伊藤博文) 坑門の扁額「代天工」(額字は山県有朋)



煉瓦造アーチの排水口(笹子トンネル入口付近の擁壁)


竣工から1世紀以上経った現在でも現役のトンネル(写真右)として使われています。

・・・ いで武士(もののふ)の初狩に 手向けし征箭(そや)のあとふりて 矢立の杉も神さびし 笹子の山の峠路や
   横に貫くトンネルは 日本一の大工事 一万五千呎(15000フィート)余の 常夜の闇を作りたり ・・・
                    「中央線鉄道唱歌」(作詞 福山寿久 作曲 福井直秋 1911(明治44)年)


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