産業技術遺産探訪 2005.4.30.

旧 八百津発電所
旧 名古屋電燈 木曽川発電所

1911(明治44)年竣工

国重要文化財

岐阜県八百津町

大容量・高圧長距離送電と発電技術の自立化が始まった時期の代表的な発電所

 明治末、火力から水力へと発電の主力が移行する中、木曽川水系で最初の本格的発電所として、名古屋電力(株)によって木曽川発電所が着工しました。当時としては最新の発電機器を導入した水力発電所ですが、建設には在来の土木技術が大きな役割をはたしました。1911(明治44)年、名古屋電燈(株)による大容量水力発電所として竣工しました。その出力は7500kW(キロワット)、送電電圧66000V(ボルト)で、当時としては日本有数の水力発電所となりました。
 この発電所は、京都帝国大学工学博士の大藤高彦が技術顧問として設計施工全般の監督を行い、工学士の塩屋益次郎を主任技師として建設が行われました。しかし、設計・施工の水準は高いものではなく、発電所の立地や機器の選定を誤ったために難工事や水車の破裂事故を招き、建設予算400万円を大幅に超える700万円(当時)となってしまいました。
 しかし、これらの課題を解決していくことによって、先進国の発電技術の吸収と改良が行われ、国産技術の向上と自立化の基礎が固められていくことに貢献することとなりました。


 八百津発電所の本館建物は1911(明治44年)に竣工したイギリス積みの煉瓦建造物(外装はモルタル仕上げ、内装は漆喰仕上げ)で、アーチ状の窓開口部などヨーロッパ風建築の面影が随所に見られます。  

 本館建物は、発電機のある棟と送電施設の棟が一体となっており、発電機棟は軒高12mにも及ぶ空間となっており、3基の大型発電機とフランシス水車、天井には20tクレーンが設置されています。

WHITING
FOUNDRYEQUIPMENT CO.
HARVERY-ILL.U.S.A
CAP'Y 20 TONS.

 送電棟は1階が母線室、2階が配電室となっており、配電室の床はI型の鉄骨の床梁を1m間隔に架け渡し、その間に煉瓦をアーチ状に積み込んだ防火床と呼ばれるものとなっています。
 これらの工法は近代初期重層建築に採用されたもので、現存する例は極めて少ないものです。

内装の漆喰が剥げた部分から煉瓦積みが見えます。

旧 八百津発電所の発電機と水車
Generator and Turbine of Yaotsu Hydroelectric Power Plant

 1911(明治44)年竣工当初は、米国・モルガンスミス社製の横軸フランシス型水車4台とGE(ゼネラルエレクトリック)社製の発電機4台が設置されていました。1923(大正12)年に発電機の改造工事と水車の取り替えが行われ、現在展示されている発電機(芝浦製作所による改造)と水車(電業社原動機製造所製)に変更されました。

 1911(明治44)年11月、発電機器工事の完了検査時に水車事故が起こりました。発電機と水車の試験に取りかかると調速機が作動せず、水車の回転数が増加して突然水車のケーシングの一部が破裂しました。当時の大規模発電所の水車は、ほとんどがヨーロッパ製でしたが、八百津発電所は米国製の水車(モルガンスミス社製4200馬力(HP))を使用していました。この事故の原因分析によりコイルの製造方法などが研究されるようになり、ゼネラルエレクトリック社製の発電機は芝浦製作所によってコイルの巻き替えが行われ、水車は、電業社原動機製造所で1922(大正11)年〜1924(大正13)年に製造された4600馬力(HP)のものに取り替えられ、国産技術による出力の増強が図られました。このことはその後の発電所用水車の設計・製造技術の向上に役立ち、国産技術自立化の出発点となりました。

 


フランシス水車
 電業社原動機製造所製の横軸単輪複流渦巻型フランシス水車です。
 当初は、米国モルガン・スミス社製(1911(明治44)年)でしたが、竣工時とその後にも、渦巻ケーシングが破裂したので、1922(大正11)年から1924(大正13)年にかけて、水車はすべて電業社原動機製造所製のものに取り替えられました。
 水圧鉄管を通って流れてきた高圧の水が、渦巻ケーシング内に流入し、水流はケーシング内を回りながらガイドベーンを通って水車のランナに入り、ランナは水の力で勢い良く回転し、ランナと一体の水車の軸が回転するという構造です。フランシス水車を回した水は、左右の排出管から放水路に流れます。

フランシス水車
電業社原動機製造所製
4200馬力/台

 フランシス水車は、圧力の高い水が水車へ流入し、低圧となって流出する間に水のエネルギーを機械的エネルギーに換えます。中高落差の発電所で使われており、日本の発電用水車の多くがフランシス水車です。

発電機
 米国GE(ゼネラル・エレクトリック)社製の横軸回転界磁型発電機です。
 1911(明治44)年製ですが、1922(大正11)年から1924(大正13)年にかけて、出力を7500kWから9600kWに増強するため芝浦製作所(現在の東芝)がコイルを巻き替える改造を実施しています。
 フランシス水車に直結されている発電機の軸が回転すると、軸に固定されている電磁石が外環状コイルの中を回転し、磁界を切ることによってコイルに電流が流れます。発電機の電磁石への電気の供給は、励磁装置によって行いました。

発電機
芝浦製作所製
3200kW/台


GENERAL ELECTRIC COMPANY

励磁装置
 当初、発電室中央に2組の励磁装置が設置されていました。これは、親発電機の電磁石に直流を送るための発電装置で、励磁機用水車と直流発電機から成っています。新しい励磁装置に取り替えられた1964(昭和39)年まで使用されましたが、その後撤去されました。

調速機(ガバナー)
 電業社原動機製造所製の調速機です。当初は米国ロンバート社製でしたが、1922(大正11)年から1924(大正13)年にかけてのフランシス水車の取替えと同時に現在のものに取替えられました。調速機(ガバナー)は、フランシス水車の回転数を一定に保つための装置で、負荷の増減に応じてガイドベーンを開閉し、水車のランナに入る水量の調節を行いました。

自動油圧式調速機
電業社原動機製造所
BAGNALL & HILLES
CONTRACTORS
YOKOHAMA

八百津発電所のフランシス水車(電業社原動機製造所製)と発電機(芝浦製作所製)

1号機

2号機

3号機
 この発電機は1985(昭和60)年に茨城県筑波で開催された「国際科学技術博覧会(EXPO'85)」に出品展示されたものです。 

4号機(予備機)
 1949(昭和24)年12月に八百津発電所の水車と発電機の予備機(4号機)が、福井県にある足羽(あすわ)発電所(現在の北陸電力・足羽発電所)に移設され、現在も稼動しています。


4号機が設置されていた当時の発電室、いちばん手前が4号機
また、発電室中央に2組の励磁装置が設置されていました。

4号機が設置されていた場所

発電室
水車、発電機が設置された発電所の心臓部です。水圧鉄管からの水流は地下より水車内に入り水車を回しました。水車と連結された発電機により電気が発生し、水車を回し終えた水流は再び地下を通り放水されました。
天井にはクレーンが設置されています。

母線室

発電機から母線に流れてきた電気の電圧を高めるための変圧器(トランス)が設置されていました。


放水口発電所

1917(大正6)年竣工

 電力需要が急増したため、1917(大正6)年に放水の落差を利用した放水口発電所(出力1200kW)が完成しました。この放水口発電所を付属していることと、ここで使われた水車が類例のないものであることが、八百津発電所の大きな特徴となっています。

 八百津発電所の有効落差は46.2mでしたが、木曽川の洪水時の水位上昇を考慮して、放水口の水位に余裕が持たせてありました。そのため平常時には放水口の水面から河水面までに約7mの落差がありました。この残留落差を有効に利用するために、放水口に小発電所が設けられました。


左に八百津発電所本館・放水口

 当時欧米では低落差用の発電用水車の研究開発が盛んに行われていましたが、発電技術が自立期の日本には低落差用の発電用水車の開発は困難であったため、既存技術を応用してフランシス水車を発電機の左右に8台つなげた連成水車を採用することにしました。使われたフランシス水車(二輪単流露出型フランシス水車)は日立製作所の初期の製品で、既存技術を導入改良して限界まで高度に利用する日本の生産技術の特徴を示した典型的な例であると言えます。
 放水口発電所の発電機は水密構造となっている水車室の底部に設置され、水車と直結しており、発電所本館の放出水を堰堤で水車室に流入させ、吸出管から排出する方式となっています。
 左右の水車室には、開放型の横軸4連フランシス水車(合計8台、1800馬力)が設置されており、中央発電機(横軸回転界磁型、出力1200kW 国産発電機)を回しました。

二輪単流露出型横軸4連フランシス水車
日立製作所製
出力1800馬力(8台)
横軸回転界磁型発電機(国産)
出力1200kW

水圧管路


水槽・余水路

 文化審議会(阿刀田高会長)は2005(平成17)年4月22日に「旧 八百津発電所 余水路」を重要文化財に指定するよう中山成彬文部科学省に答申しました。1998(平成10)年5月に国重要文化財に指定されている旧八百津発電所関連施設では、水槽と水の放流に使った余水路などが追加指定されることになりました。


 八百津発電所は水路式発電所(河川をせき止め取水し、比較的ゆるやかな水路で水を下流に導き、河川の勾配による落差を得て発電する方式)と呼ばれるものです。ダム式ではなく、水路式にしたのは、発電所の対岸の錦織(にしこおり)には、かつて木曽木材流運の要所であった綱場があったためです。木曽山中で切り出された木材は、一本一本木曽川を使って錦織まで流され、ここで筏(いかだ)に組んで犬山を経て名古屋の白鳥や桑名の貯木場へ運んでいました。(錦織に綱場が最初に開かれたのは鎌倉時代といわれていますが、本格的に使用されるようになったのは江戸時代といわれています。木曽の筏流しは森林鉄道の開通、発電所建設等により、1926(大正15)年には綱場の機能も消滅し、筏による流運はすべて陸路輸送となりました。)
 現在の恵那市飯地町川平に取水口があり、発電所まで水路によって木曽川の水を運んでいました。現在、水路は水没してしまっていますが、全長9682.73m、その約64%がトンネルというものでした。
水路工事費は非常に莫大で、工事費のうち水路費(55.7%)、発電所費(20.7%)、送変電所費(23.9%)で、水路費が半分以上を占めていました。発電所の単位出力当たりの水路延長と工事費の値は、他の発電所に比べ大きく、水路式発電所としての立地選定が不適当であったことが伺われます。また難工事であったことから、多くの方が事故で亡くなられました。この方々の慰霊碑が善恵寺に建てられています。

単位出力当たりの水路長と工事費
発電所  水路長(m/kW) 工事費(円/kW)
八百津   1.29         931
長良川   1.19        578
駒橋     0.45        506
千歳     0.45        506

日本初の国産鉄塔による送電
 八百津発電所の技術的な特徴のひとつとして、43.4kmの送電に、当時としては最も高い高圧の66kVを採用し、日本初の川崎造船所製の鉄塔を使用したことがあげられます。それまでの送電電圧は、明治40年、山梨県の駒橋発電所から東京まで送電した55kVが最高であり、大正3年、猪苗代水力が154kVで送電するまで最も高い送電電圧でした。しかし、長良川発電所の50.4km、33kV送電など、他の発電所の送電距離と送電電圧に比べ、距離が短いにも拘わらず電圧が高く、不均衡な設計であったと言えます。


旅足川(たびそこがわ)発電所
八百津発電所の工事用として、旅足川の谷間に造った出力72kWの水路式発電所が旅足川発電所です。大正元年に不要となったものを八百津町が6900円で買収し、八百津町一円を電力供給区域とした町営電気事業を創業しました。昭和3年には改造が行われ、出力125kWのダム式発電所となりました。昭和16年に八百津町営電気事業は他町村の電気事業とともの東邦電力株式会社に買収合併されましたが、丸山ダム完成に伴って、昭和29年に機械は撤去搬出され、その後水車と発電機は飛騨小坂の御嶽山濁河(おんたけさんにごりご)温泉に設置され、20余年運転されました。1954(昭和29)年、丸山ダムの完成に伴い、八百津発電所水路や旅足川発電所とともに、下立(おりたち)地区などがそのダム湖の中に沈みました。


 丸山ダムと新丸山発電所の完成により、1974(昭和49)年に水力発電所の運転を終了、その後「八百津町資料館」として使われていました。1998(平成10)年に国重要文化財(近代化遺産)に指定されました。(近代化遺産としては全国で7番目の指定)現在は「国重要文化財 旧八百津発電所施設」として諸田公園の中に整備されています。

建第2346号
重要文化財指定書
旧八百津発電所施設 一構
発電所本館 一所
  発電機棟(発電装置三基、走行クレーン一基を含む)及び送電棟、水圧管路(水圧鉄管を欠く)五組、放水路からなる
放水口発電所 一所
  発電所建屋(発電装置一基、走行クレーン一基を含む)一棟、水槽からなる
(以下附書)
右を重要文化財に指定する
平成十年五月一日
文部大臣 町村信孝


旧八百津発電所資料館
開館時間 午前9時〜午後4時(冬季時間変更あり)
     (入場は午後3時30分まで)
休館日 毎月月曜日(月曜日が祝日の場合は火曜日)
    年末年始
入館料 一般 320円(団体210円)
    小中学生 110円(団体50円)
(杉原記念館との共通入館券)
    一般410円/人
    小中学生100円/人
旧八百津発電所資料館
八百津町教育委員会
電話 0574−43−0390


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