産業技術遺産探訪 2005.9.3.
旧 東北砕石工場
(石と賢治のミュージアム)
国登録有形文化財
岩手県東磐井郡東山町松川字滝ノ沢
鈴木東蔵(1891〜1961)は、妻の叔父・鈴木貞三郎(1882〜1940)、その弟で小岩井農場に勤める鈴木(川村)貞助(1887〜1944)の協力により、大正13年、東北砕石工場を設立しました。(鈴木東蔵と鈴木貞三郎の共同出資)地元の石灰資源と、大船渡線の開通で製品の鉄道輸送が可能になることが、事業をおこす大きな契機となりました。
当時、小岩井農場では、土壌改良のために農地に石灰を散布しており、年間かなりの量の石灰を八戸などから買い入れていました。(石灰石は主にアルカリ質の炭酸カルシウムでできている。酸性土壌の中和剤として、その粉末(石灰肥料)をまくことで、作物の生育に、より適した環境をつくりだす。)
その後、花巻の肥料店「渡嘉(わたか)商店」を通して、宮澤賢治の存在を知った鈴木東蔵は、宮澤賢治に工場への協力を求めたのでした。
「東北砕石工場」の歴史
1924(大正13)年 東北砕石工場 設立
1930(昭和5)年 宮澤賢治が石灰石粉を「肥料用炭酸石灰(タンカル)」と命名する。
1931(昭和6)年2月 宮澤賢治が技師として就任 その販路拡大に努める。
1937(昭和12)年 東北砕石株式会社に社名変更、法人組織となる。
1940(昭和15)年11月 東北タンカル興業株式会社となる。
1956(昭和31)年1月 東亜産業株式会社東北支店となる。その後も、永年親しまれてきた「タンカル」の名称から「東北タンカル工場」の呼称を通している。
1971(昭和46)年 販売協同組合をつくる。
1975(昭和50)年 協業組合をつくり、生産の一部を残し、主力を組合工場へ移す。
1978(昭和53)年 操業を停止。
1994(平成6)年10月 工場建物の保存を願って東山町に寄贈される。
1996(平成8)年7月 国土庁と岩手県の補助を受け、地域個性形成事業として工場周辺の整備開始。
1996(平成8)年12月 産業分野の近代化過程を物語る近代化遺産として、文化庁登録有形文化財に登録される。砕石産業関係建造物では第1号。
登録有形文化財 第33-0011号 この建造物は貴重な国民的財産です。 文化庁 この建物は大正年間に石灰を製造するために建てられました。 宮沢賢治と関わりのあることでも知られる遺構です。 |
ボールミル
ボールミル内で石灰石の粉砕に使われていた鉄球
フレットミル | フレットミルのローラー部分 |
フレットミル
石灰砕石をさらに細かい石粉にするための機械。最初に導入されたのは創業当初の昭和2年頃で、当時の工場としては、画期的な最新鋭の機械でした。本体であるローラーが回転し、砕石を粉砕しました。これによって、それまでの粗い砕石から、細かな石灰岩沫の生産が可能となり、小岩井農場でも効果が大きいと好評だったそうです。ここではその頃のフレットミルの様子を再現しています。
フレットミルのローラー部分
御影石製。創業開始間もない昭和2年頃に導入された粉砕機械。当時の工場にとっては画期的な最新機械で、「ひくす(方言でひきうすのこと)」と呼ばれていました。昭和25年頃まで炭酸石灰製造の主力として活躍した、かつての工場の主役ともいうべき機械です。
(展示資料は、昭和12年頃〜昭和35年頃使用したもの)
石灰製品の製造工程が解説されています。
石灰製品の製造工程
採石場→トロッコ→ジョークラッシャー(粗砕機)
1.採掘された石灰石は、ジョークラッシャー(粗砕機)に投入される。
クラッシャー(粗砕機)→バルトコンベア→サイロ→ハンマークラッシャー(粉砕機)
2.ハンマークラッシャー(粉砕機)に送られ粉砕
3.ハンマークラッシャー(粉砕機)→エレベーター→トロンメル(回転ふるい)
エレベーターで上部のトロンメルに送られ、粒度を選別し、各粉砕機(ボールミル、フレットミル、ヤリヤ式粉砕機)に送る。
フレットミルは補助的に使われていた。
トロンメル(回転ふるい)は、東北砕石工場では、3階に設置されている。
細かいもの→サイロ→ボールミル(粉砕機)(ヤリヤ式粉砕機:ボールミルが導入される昭和25年頃まで使われていた。あずき大の砕石をさらに粉砕する機械。細かくなった粉はエアセパレーターに贈られる。フレットミルと併用して使用された。昭和15年頃〜昭和25年頃使用、30馬力 展示:ヤリヤ式粉砕機の歯)→フレットミル(粉砕機)4基(フレットミルは補助的に使われていた。)
粗いもの→インベラブレーカー(粉砕機)→エレベーター→トロンメル(回転ふるい)→・・・
ボールミル(粉砕機)→バケットエレベーター→エアセパレーター(分 機)→コンベア→サイロ→袋詰機→製品
袋詰機
採石場から砕石工場までを、このトンネルの中に敷設されたトロッコ軌道で石灰石を運搬していました。 高屋栄助が鉱山で働いた経験を生かし、中心となって難関であった県道の下を通る隧道を完成させました。 |
東北砕石工場技師となった宮沢賢治が1931(昭和6)年3月26日に工場を訪れたとき、鈴木東蔵や工場の人々と記念写真をとりました。 「群像のひろば」には、そのときの写真をもとにした群像がつくられています。
宮沢賢治と東北砕石工場の人々
1931(昭和6)年3月26日撮影
高屋栄助・・・・鉱山で働いた経験を生かし、難関であった県道の下を通る隧道を完成させた石堀り名人。人の倍も働く豪傑で正直者。酒もよく飲む人でした。
細川正治・・・・トロッコでの運搬や、クラッシャー(粗砕機)の仕事を担当していました。
金野柳之進・・・・昭和6年当時19歳で、この中では最年少でした。群像建立時ただ一人存命でしたが、平成8年没。この群像の人びとの名前は、金野さんからお聞きしたものです。
鈴木貞三郎・・・・工場運営に関わるとともに、松川村の村会議員でもありました。馬が好きで、よく小岩井農場に馬を見に行っていたそうです。
山崎久三・・・・頼まれて、時々機械の設備などの仕事をしていました。頭のよい人で、東蔵に苦言をする唯一の人物であったそうです。
鈴木東蔵(鈴木藤三)・・・・いつも考えごとをしながら歩いている人で、牛に気づかずぶつかってしまったという逸話もあります。夢大きく、誠実で人情のある工場主でした。
宮沢賢治・・・・工場を訪れた賢治は、背広にネクタイという立派な格好でしたが、気取らず、話しやすく心のやさしい人でした。賢治が帰った後の工場には、賢治を思慕する不思議な空気が残っていたそうです。
偶然居合わせた魚屋さん
和賀嘉那理・・・・駅前で飲食業を営み、東蔵もよく顔をだしていたそうです。ハガキによる石灰注文の取り次ぎをやっており、工場にもよく出入りしていました。
鈴木貞治・・・・鈴木貞三郎の弟。賢治から影響を受けたのか、いつも鳥打帽をかぶっていました。工場に近い自宅は、応接間として使われたこともあるそうです。
佐藤与喜右エ門・・・・まじめな好人物で、東蔵の厚い信頼を受けていました。家が工場に近く、東蔵や工場の人たちがよく出入りし泊まっていくこともあったそうです。
千葉専蔵・・・・トロッコを押して駅まで製品を運ぶ仕事や、電気関係の仕事を担当していました。
細川寿七・・・・石堀り、トロッコ運搬、フレットミル(粉砕機)の仕事を担当していました。
山崎長之助・・・・工場のすぐ近くの人で、工場建設にいろいろと協力をした陰の功労者でした。
この写真には写っていませんが、他にもこんな人たちが働いていました。
鈴木軍之助・・・・事務担当。優れた能力を有し、東蔵の片腕となって働いた。
畠山八之助・・・・製品を入れた叺(かます)、セメント袋を縄で荷造りする名人であった。
畠山直之助、畠山信明(父子)・・・・山での採掘の仕事をした。直之助は八之助の兄。
和賀八重治郎・・・・採掘の仕事を担当。
和賀さよの・・・・サヨばあさんと呼ばれ、工場の仕事のほか、まかないの仕事もした。
鈴木まつの・・・・鈴木東蔵の妻、工場の仕事を手伝い、陰で支えてきた人。
名刺 東北砕石工場技師 宮澤賢治 岩手懸東磐井郡 陸中松川駅前 |
あらたなる よきみちを得しといふことは ただあらたなる なやみの道を得しといふのみ 宮沢賢治 |
大船渡線 陸中松川駅から見た「東北砕石工場」
東北砕石工場で生産された製品は、トロッコ軌道で陸中松川駅まで運ばれ出荷されていきました。