産業技術遺産探訪 2005.10.28.

旧 工部省鉱山寮 釜石鉄道
小川支線 1号橋・2号橋

1880(明治13)年竣工
設計 工部省鉱山寮
施工 G・パーセル、毛利重輔
煉瓦造アーチ橋梁

釜石市指定文化財
1980(昭和55)年9月指定

岩手県釜石市甲子町第14地割・第15地割

日本で3番目の鉄道
(新橋〜横浜間に次いで日本で2番目に着工された鉄道)


旧 工部省鉱山寮 釜石鉄道 小川支線 1号橋

岩手県釜石市甲子町第14地割


花崗岩の基礎の上部に21段の煉瓦積み

   アーチ橋梁 一号橋
 明治政府の工部省によって建設された官営釜石鉱山は、原料輸送のため、鈴子、大橋、途中わかれて小佐野、小川間の鉄道を明治九年(一八七六)に着工し、同十三年(一八八〇)に完成しました。このアーチ橋梁は小川山(わらび野)製炭所に至る四、九キロメートルの間に四ヵ所の橋梁がかけられたうちの一ヵ所であり、G・パーセルら鉄道雇英人技師三名と鉱山寮釜石支庁主任毛利重輔によって外国の技法でつくられました。
 この橋梁には三十五ポンド(十六キログラム)のレールが敷かれ、英国マンチェスター製の機関車が走りました。現在は道路として使用されていますが、この種の橋梁で残っているものでは、わが国でいちばん古いといわれ、小川小学校入り口にも同じアーチ橋梁(二号橋)が残っています。
   平成三年十月
                 釜石市教育委員会
長さ 4.8m
高さ 4.5m
幅  6.9m

              


かつての小川支線は、
現在は釜石市道桜木町上小川線になっています。
(1号橋付近)


旧 工部省鉱山寮 釜石鉄道 小川支線 2号橋

岩手県釜石市甲子町第15地割


花崗岩の基礎の上部に35段の煉瓦積み

長さ  9.9m
高さ  5.68m
幅  11m

      アーチ橋梁
 明治政府の工部省によって建設された官営釜石鉱山は、原燃料輸送のため、鈴子・大橋間
と、途中わかれて小佐野・小川間の鉄道をわが国では三番目として明治九(一八七六)年に
着工し同十三(一八八〇)年に完成しました。
 このアーチ橋梁は小川山(わらび野)製炭所に至る四、九キロメートルの間に四か所の橋梁が
かけられたうちの一か所であり、英人技師三名と毛利重輔によって外国の技法でつくられたもの
です。
 この橋梁には三十五ポンド(十七キログラム)のレールが敷かれ英国マンチェスター製の機関車
が走りました。現在は道路として使用されていますが、この種の橋梁で残っているものでは、わが
国で一ばん古いといわれています。
           昭和六十一年三月
                釜石市教育委員会
                  武山利一撰並書

 岩手県釜石市甲子町のJR釜石線・小佐野駅付近で国道283号線から北に分岐する釜石市道桜木町上小川線は、旧・工部省鉱山寮釜石鉄道小川支線跡です。1870(明治3)年に設置された工部省は、鉱山、鉄道、造船、工作、電信事業などの官営に必要となる調査を開始しました。1874(明治7)年5月21日、工部省お雇いイギリス人鉱山師長丁、J・G・H・ゴットフレー、鉱山権頭・吉井享の調査を受けて、明治政府は釜石に工部省鉱山寮釜石支庁(のちに分局)を設置しました。官営釜石製鉄所と大橋鉱山を結び鉄鉱石を輸送するための本線と、釜石製鉄所の高炉へ燃料の木炭を小川製炭所から輸送するための小川支線は、1874(明治7)年、工部省鉄道寮から派遣された、お雇い英国人技師C・セッパレト(チャーレス・セッパルト)が計画を立案しました。そして1875(明治8)年、鉄道寮のお雇い英国人技師G・パーセル、鉱山寮釜石支庁主任・毛利重輔らによって建設が開始されました。日本では2番目の鉄道として着工され、1880(明治13)年2月17日に竣工し、日本で3番目の鉄道が誕生しました。この鉱山寮釜石鉄道は、釜石港〜大橋採鉱所(鉱石積所)間の本線18kmと、釜石から4.4kmの地点で分岐し、小川山製炭所(木炭積所)までの4.9kmの支線、そして工場支線3.3km、計26.3kmでした。
 釜石製鉄所への資材輸送だけでなく、旅客・貨物輸送も1882(明治15)年から開始され釜石、甲子、大橋、小川(おかわ)の4つの駅が設置されました。
 1883(明治16)年に官営釜石製鉄所が廃業となり、鉱山寮釜石鉄道の敷地や橋梁などは岩手県へ移管され、レールや蒸気機関車は当時の「阪堺鉄道」(現在の南海電鉄)へ売却されました。

線路は平均16.7‰の片勾配で、釜石の基点と大橋の終点の高低差は302m、水平および10‰以下の緩勾配は本線の18kmのうち7.2kmで、最も急勾配は33.3‰でした。また本線は釜石港から甲子川に沿って仙人峠との麓に達するため、開削部分はごくわずかで、ほとんど築堤上を走り、トンネルはありませんでした。レールのゲージ(幅)は鉄道寮の標準とされていた3フィート6インチ(1067mm)ではなく、2フィート6インチ(838mm)が採用されました。これは、鉄鉱石および燃料の木炭輸送を目的としたためと考えられます。


機関車はイギリスより輸入
線路の最急曲線は小川支線で、半径60m、本線で90m、レールは初めの頃5マイル(8km)分には35ポンド(17kg)を使用したほかは、保線を特に綿密にした部分もあったらしく、錬鉄製平底52ポンド軌条(26kg)が標準とされていました。当時、鉄道寮の鉄道では、大半が61ポンド双頭軌条(30kg)で、釜石よりわずかに遅れて完成した幌内鉄道では30ポンド軌条(15kg)が採用されているのを見ると、釜石鉄道がいかに堅固につくられていたかがよく分かります。
橋梁は本線に17、小川線に4本でした。仮橋の4本は木製(桧杉材、ただし横桁には欅(ケヤキ)材も使われていた)で、その他の橋梁はすべて石積み、または煉瓦積みでした。橋梁の幅は、本線ではすべて12尺(3m60cm)、小川線は12尺(3m60cm)と14尺(4m20cm)で、橋梁の長さは、最も長いのは394尺(約118m20cm)、最も短いのは12尺(3m60cm)でした。
使用された機関車は3両。いずれも1878(明治11)年、英国マンチェスター製のSharp・Stewartで、その年、釜石港に到着しています。価格は1両1324ポンド(約6500円)。全重量(水、石炭を積載した状態)は18トン75、車輪は2対4個、径は2フィート6インチ(76.24cm)でした。エンジンはサドルタンクで、本格的に勾配用として設計されていたので、引張力は非常に大きく、その頃、京浜間で使用されていた機関車群より、この点で優れていました。具体的な引張重量は時速11.2kmのとき、約10パーミルの勾配線では24〜78トン程度でしたが、鉄道局傭土木工師長ホルサムの報告にもとづいて、時速10マイル(16km)で、汽車重量を除いた40トンを牽引して走っていました。この機関車のうち2両は義経号と弁慶号だったという人もありますが、これを照明する資料は見られません。しかし、軌道が敷かれ正しく当時機関車3両で運行された事実が古老などの話でも伝えられ、その機関車と軌道が藤田伝三郎氏に売却されているので、これらの機関車は阪堺鉄道で使用され、その後、北海道の羽幌炭坑に転売(弁慶号)され、のち鉄道博物館に入った。義経号は大阪で使用され、・・・・はっきりした資料がない・・・・
機関車以外の車両は、はじめ大型荷車20両、砂利車(小型)12両、鉱石車(小型)39両、小型台車(木材、軌条、重量物運搬用)7両、乗車3両、仮客車(鉱石車で代用)1両、小型台車10両でした。開通した1880年2月といえば、新橋〜横浜間、神戸〜京都間しか鉄道は営業しておらず、線路総延長121.9km、停車場25、機関車38両、客車175両、貨車345両にすぎませんでした。釜石鉄道をこれと比較してみますと、車両数では問題になりませんが、線路総延長は4.6分の1で、だいたい新橋〜神奈川間と同等の規模でした。いかに政府が釜石の製鉄所に大きな期待を寄せていたかがよくわかります。


馬車鉄道を敷設
1887(明治20)年11月、田中長兵衛は政府より旧鉱山の用地、建物、機械全部の払下げを受け、釜石鉱山田中製鉄所の名称で新発足しました。ここに現在の釜石製鉄所の基盤が築かれ、工業都市釜石の土台がつくられたのです。
鉱山の再興と同時に当然輸送の問題がでてきました。当時はすでに鉄道がとりのぞかれていましたから、馬車による輸送しかありません。鉱石を積んだ馬車が釜石〜大橋間を何台も走っていたと想像されます。1892(明治25)年10月、ときの政府は農商務技師の野呂景義(工学博士)、農商務技師試補の香村小録の両人に釜石鉱山を調査させていますが、その報告書は「大橋ヨリ鈴子ニ至ル四里余ノ旧汽車鉄道道路ハ殆ント平坦ナルヲ以テ運搬頗(スコブ)ル便ナリト雖トモ雨天ノトキハ悪路トナリ旦重量ノ真社ヲ往復スルヲ以テ年一年ニ破損ヲ生シ遠カラス大修繕ヲ要スルニ至ルヘシ。故ニ此際馬車鉄道ヲ敷設シテ運賃ヲ軽減シ又道路ノ保存ヲ謀ルハ最モ緊要ナリトス」と馬車輸送の模様と馬車鉄道の必要性を具申しています。
安政4年以降この地方の製鉄業の近代化とともに甲子町を中心に、荷馬車で鉄鉱石を大橋から釜石、木炭を小川から釜石と運搬するための運送業が盛んになっていました。これに従事したのは主として甲子、小川の馬を持っている人たちでしたが、のちには馬を購入して馬車引業に転じ賃金収入を得る人も多くなっていました。つまり馬車鉄道ができれば、すぐにそれに切り替えられる体制ができていたといえるわけです。1892(明治25)年、製鉄所の操業がようやく軌道にのると、鈴子工場との連絡輸送道路の整備がすすめられ、同時に馬車鉄道敷設の準備がすすめられました。当時、釜石〜大橋間の道路は幅員20mのうち中央8mは、県道敷地として県に移管され、両側6mは並木敷地として荒れたまま大蔵省所管になり県道の法敷傾斜地となっていました。田中製鉄所は北側並木敷地を大蔵省から借用し、これに近接する県道用地の内側3尺を県から借用して、県道北側の法肩を土盛拡張して大橋〜釜石間の鉄道を起工しました。これがかつて社線の通っていた敷地です。18938(明治26)年、ようやく馬車鉄道が開通し、鉱石運搬がはじまりました。鉱石その他の物資輸送のかたわら、公衆の便をはかって、1日1回客馬車が運転されていました。当時この業務いっさいを請負っていたのは甲子町門口こと佐野円之助でしたが、その子佐野治右衛門氏は当時のありさまを「馬一頭が各々一両のトロッコを引いて、早朝に甲子町を出発、大橋で鉱石を積んで昼頃に甲子町まで下り、一服、のち鈴子へ行って荷をおろし、夕方おそく甲子町に帰るという仕事だった。最盛期には120頭も馬がいて馬産地のようだった」と語っています。また荒木田忠太郎翁は「一条の軌道に一定間隔をもって数十台の馬車が長蛇のごとく疾駆する光景は実に勇壮そのものであった」と語っています。

軽便鉄道の認可
1910(明治43)年、軽便鉄道の公布によって、17年間もの長い間、鉱石運搬、客車の運行につくしてきた馬車鉄道も撤去されることになりました。そしてこれにかわって再び鉄道が敷かれることになったのですが、田中製鉄は、馬車鉄道以来、客馬車を運転し、公衆の利便をはかってきたことを考慮し、軽便鉄道法による公衆一般貨物運輸の認可を得るべく努力されました。
レール敷設工事は、釜石と大橋から同時にはじめられ、馬車鉄道を運行しながらレールの敷きかえを行ったのだそうです。レールはドイツ製の15キロのもので、「あのレールは金ノコで切るときはザクザクと簡単に切れるのだが、減り方が非常に少なく、最近(当時)まで大松付近で使用されていました」といわれるほど優秀なものでした。当時の貨車は、「スプリングも何も無い台車で、鉱石は大きな塊のまま運ばれており、その量は1日100トンぐらいでした」と当時を知る人は話していましたが、当時の高炉の性能からみても、この数字は確かなものといえるでしょう。

昭和8年はじめて日本製機関車購入
1913(大正2)年8月、仙人と大橋の間に索道が開通すると一般貨物の輸送量が増加してきました。そしてその翌年、1914(大正3)年、第一次世界大戦勃発、1915(大正4)年、花巻〜仙人峠間の軽便鉄道完成などにより、乗客・貨物の輸送量が増加してきました。
1917(大正6)年、石灰石の採掘場が大松から洞泉に移り、大松駅が廃止され洞泉駅が新設されました。
1923(大正12)年、笛吹峠自動車道路完成により、鉄道の利用者は減ってきましたが、1932(昭和7)年末頃からの好景気で、1933(昭和8)年には毎日300トンぐらいの鉱石を運び、この年の収入は34万円、14万5千円ほどの黒字を生み出しました。またこの年、日本車輌から、C20型蒸気機関車1号、2号を購入しました。「あの機関車は、納車のときも誰も立ち会いにきませんでしたが、製造元ではそれだけの自信をもっていたのでしょうね。たしかにいい機関車でした。」と当時の機関士の方が話していました。

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軽便鉄道時代に活躍したドイツ製機関車

釜石港桟橋と工場をむすんで活躍中のドイツ製機関車(大正時代・大渡鉄橋上)

昭和8年に購入した国産C20型蒸気機関車
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C20型 機関車
この209号は、釜石〜大橋貫に敷設された釜石製鉄所専用鉄道を走った日本製機関車で、昭和八年から国鉄釜石線が開通するまで活躍した。専用鉄道は、一般に「社線」と呼ばれ、鉄鉱石だけでなく、一般旅客をも運ぶ鉄道として、親しまれた。
製鉄所専用鉄道は、官営製鉄所(明治七年着工、同十三年操業)の原料、資材を運送するため、明治八年に着工、日本で三番目(着工は二番目)の鉄道として、同十三年から運行を開始した。釜石〜大橋間の本線は、鉱石、支線の小川線では木炭をそれぞれ運んだ。その当時の機関車は、イギリスのシャープ・スチュアート社製で三輛であった。しかし、明治十六年官営が廃止したとき売却され、大阪〜堺間の阪堺鉄道を走行した。今の何回鉄道がそれである。
明治十九年にスタートした田中製鉄所(釜石製鉄所の前身)では、一時期馬車鉄道(明治二十九年から)に代わったが、同四十四年に機関車となり、昭和四十年三月まで運行された。この209号は、専用鉄道撤去にあたり、昭和四十年三月二十八日、最後の鉱石を積んで走った「ミニSL」である。
昭和六十年六月
寄贈 新日本製鐵(株)釜石製鉄所

型式 C20
長さ 9メートル
幅 2メートル
高さ 3メートル
重さ 18.2トン


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