産業技術遺産探訪 2005.8.10./8.14.
ジェラール水屋敷 地下貯水槽(下部貯水槽、上部貯水槽)
A.Gerard's Waterworks
ジェラール西洋瓦・レンガ製造工場跡
A.GERARD'S STEAM TILE AND BRICK WORKS
ジェラール水屋敷地下貯水槽(下部貯水槽)
A.Gerard's Waterworks
国登録有形文化財
所在地:神奈川県横浜市中区元町1-77-4 元町公園内 建造年代:明治10年代 使用目的:湧水の沈殿および貯水 施主:A・ジェラール 設計者:不明 施工者:不明 構造形式:煉瓦造り 構造規模:平面規模 約17.6m×約6.5m 高さ約2.5m、面積114m2 使用材料:床煉瓦造、壁体煉瓦造 配管には木管、土管、鉄管などを使用。 所有者:横浜市 文化財指定:国登録有形文化財 平成12年11月指定 |
ジェラール水屋敷地下貯水槽(下部貯水槽)の概要
幕末から横浜に居留したフランス人、A・ジェラール(Alfred
Gerard、1837-1915)は、山手の丘の麓に湧いている良質な湧水に着目し、貯水施設をつくり船舶に供給する給水業を営んだ。本施設はそのための地下貯水槽。同氏はジェラール瓦として名高いフランス瓦製造業も併業し、これらの施設はジェラールの水屋敷として親しまれた。
ジェラールの水屋敷
A.Gerard's Waterworks
横浜の市街地の井戸の水は塩分を含んでいて、飲用には適していませんでした。他方、丘陵地帯の麓には良質の湧水が多く、上水道が整備されるまでは、そうした湧水を汲んで市中を売り歩く「水屋」の姿も見られました。この点に着目したジェラールは、山手の麓に水源を確保し、パイプを敷設して、山手居留地や寄港船舶に供給しました。これを見た横浜の人々は、ジェラールの給水業のための施設のことを「水屋敷」と呼ぶようになりました。
山手地区は慶応3年(1867)居留地に編入され、外国人の住宅地として発展しますが、周辺の地域をも含めて、搾乳や養豚、西洋野菜の栽培、給水、ビール醸造、製氷など、居住外国人や寄港船舶のための飲料や食料品の生産も盛んになります。ジェラールの給水業もその一つです。
ジェラールは、まず明治元年(1868)中村字池ノ谷戸(現在の横浜市中区打越)に水源を得て、給水業に着手します。現在の「打越の湧水」がこの水源の名残です。中村字池ノ谷戸(現在の横浜市中区打越)の水源からは、山下居留地169番(のち188番に地番変更)の事務所までパイプを通して山下居留地を対象に給水しました。
明治3年までには山手77番、78番に新たな水源を確保しました。ここが「水屋敷」と呼ばれることになります。「水屋敷」からは、堀川までパイプを通して、寄港船舶を対象に給水を行いました。
ジェラール水屋敷地下貯水槽(上部貯水槽)
A.Gerard's Waterworks
所在地:横浜市中区元町1-77-4 元町公園内 建造年:不明 使用目的:湧水の沈澄および貯水 施主:A・ジェラール 設計者:不明 施工者:不明 構造形式:煉瓦造ヴォールト構造2連 外寸 幅7.8m×全長11.6m×高さ3m 平面規模 2.8m×約10.2m+2.9m×10.2m 高さ約2.5m 面積65m2 使用材料:アーチ部は煉瓦積み(厚320mm)+コンクリート(100mm) 垂直壁体は煉瓦構造(720mm) 床版は煉瓦平敷き(厚150mm) 配管は6箇所で土管、鉄管を使用 |
昭和63(1988)年、さきに発見されていた下部貯水槽のわき水調査を行った際、上部水槽は発見されました。これは、A・ジェラールが船舶給水業を行うため建設したもので、この水は、明治時代に船乗りたちの間で「インド洋に行っても腐らない」と評判を呼んだものです。”ミナト・ヨコハマ”を世界的に有名にした「水」の貯水槽です。
この上部貯水槽は、周囲の山からの湧水が毎分約50リットル流れ込み、その水位が1m程度になると下部貯水槽へ流れるような仕組みになっている。ここで集水し沈澄させる役割を果たす貯水槽と考えられる。そして、上部貯水槽から堀川までは地下に管を敷設し、川岸から小船に積み替えて横浜港内の船舶に給水していたようである。
ジェラール西洋瓦・レンガ製造工場跡
A.GERARD'S STEAM TILE AND BRICK WORKS
ジェラール水屋敷、西洋瓦・レンガ製造工場跡は、1930(昭和5)年横浜市青年連合団の提案により、
湧水を利用したプールが建設され、周囲一帯は公園として整備されました。(現在の元町公園)
横濱元町山七十七番
船用最上飲用清水販売所
A GERARD'S NAVY WATE(R) WORKS
THE SOFTEST SPRING WATER.
IN YOKOHAMA
No.77 BLUFF OR MOTMACHI.
ジェラールの工場(外部)
Gerard's Factory (Outside),1886
「日本絵入商人録」 明治19年(1886)刊
佐々木茂市編
ジェラール西洋瓦・レンガ製造工場の入口を示した図で、左側の建物の下が下部貯水槽の位置です。塀に書かれた'A.GERARD'S STEAM TILE AND BRICK WORKS'は、蒸気機関を動力として使った西洋瓦とレンガの製造所であることを示しています。図中の「船用最上飲用清水販売所」と「A.GERARD'S NAVY WATE(R) WORKS」の文字から、軍艦などを対象に船舶給水を行っていたことがわかります。また図から、工場の1、2階の境目に自社製の瓦が張りつけられていたことや、門の上に飾りと侵入防止を兼ねた奇妙なかたちの瓦が置かれていたことがわかります。
ジェラールの工場(内部)
Gerard's Factory (Inside),1886
「日本絵入商人録」 明治19年(1886)刊
佐々木茂市編
ジェラールの瓦とレンガ
A Gerard's Tiles and Bricks
この地には明治時代の初期から末にかけて、フランス人ジェラールの経営する西洋瓦とレンガの製造工場がありました。特徴ある模様や銘のある瓦は「ジェラール瓦」と呼ばれて市民に親しまれてきました。
ジェラール瓦(西洋瓦)について
横浜開港後、来日した西洋人は、はじめ和(日本)瓦で葺かれた日本風の建物に住んでいましたが、しだいに自国流の建物を建て始めます。しかし、建築資材である西洋瓦やレンガ等を舶来品に頼っていたため、品不足に悩まされることもしばしばでした。
このことに目を付けたフランス人実業家A・ジェラールは、明治初期に、日本最初の本格的な西洋瓦とレンガの製造工場(A.GERARD'S
STEAM TILE AND BRICK WORKS)を始めました。
西洋瓦にはスパニッシュ瓦(スペイン)やフランス瓦(フランス)などの種類があり、ジェラール瓦はフランス瓦に分類されます。ストレート型(長方形型)で、上下左右につめ状の凹凸をつけ、相互を噛み合わせながら瓦桟に引っ掛けて葺き上げていく技法に特徴があります。
この元町公園プール管理棟の屋根の一部分は、そのジェラール瓦(黒色系統の中期型に分類される1878、1885、1887年銘入り)で葺かれています。
資料提供:横浜開港資料館・山手資料館
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初期型 I 1873年の銘のあるものが最古と考えられている。
初期型 II
初期型 III 「初期型III」には、「YOKOHAMA」の字間隔が異なる変型がある。
初期型 IV
中期型 1876,1877,1878,1886,1887,1889などの銘と、18□7,1□78,18□5などの銘がある。
後期型 1887,1889などの銘と、××-1887×-の銘がある。明治末頃まで製造されていたと推測される。
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隅切型
棟瓦
無孔煉瓦
有孔煉瓦
ジェラール瓦
Gerard Tilery
「山手80番館」跡に展示
元町公園は、日本の西洋瓦発祥の地で、明治初期からフランス人のアルフレッド・ジェラールが「ふらんす瓦」を製造していました。
確認されている最も古いジェラール瓦は、1873(明治6)年(瓦に刻まれた「1873」の数字は西暦、また「二五三三」の数字は紀元の年号を表示しています。)製で、関東大震災により倒壊焼失した「山手80番館」にも「ALFRED・GERARD」銘のあるジェラール瓦が葺かれていました。今日でも、山手では「ふらんす瓦」の異人館を多く見ることができます。
アルフレッド・ジェラールは、山手の湧水を利用して船舶給水業を営む一方で、「ふらんす瓦」「赤煉瓦・有孔煉瓦」「陶管」「タイル」の製造を手がけ、その工場は、「煉瓦屋敷」もしくは「水屋敷」と呼ばれていました。
ジェラールの肖像写真
A.Gerard,1878
明治11年(1878)頃の撮影。
陸軍省雇い軍事顧問団の一員として来日したフランス人士官クレットマンが、明治11年5月に帰国する際、記念に贈ったもの。ジェラール、41歳の肖像である。
ジェラールの署名
A.Gerard's Autograph,1878
上の写真の裏面のサインと1878年5月14日の日付。
A・ジェラール年譜
A.Gerard:a Brief History
1837(天保8)年
フランス、ランス市にて、パン屋の父、ジャン・ニコラス・ジョセフ・ジェラール(Jean
Nicolas Joseph Gerard)と母、テレーズ・ランベール・シェリュイ(Therese
Lambert Cheruy)の間に生まれる。
1864(元治元)年
来日、169番(のち188番に地番変更)で食肉など食料品の船舶供給業を営む。
1868(明治元)年
中村字池ノ谷戸(現在中区打越)に水源を獲得、給水業を始める。
1870(明治3)年
この年までに山手77・78番に水源を獲得。
1873(明治6)年
この年までに、山手77・78番に西洋瓦・煉瓦製造工場を建てる。また、この頃、山下居留地188番(旧169番)にジェラール・ビルを建設(最初期の煉瓦造建築の一つ)。
1981(明治24)年
この頃、帰国。在日中に収集した仏像・能面・刀剣・陶器・木版画・古銭などのコレクション約2500点をランス市に寄贈、現在ランス市美術館(Musee
Saint-Remi)に「ジェラール・コレクション」として保存されている。
工場の経営権はルイ・スゾール(Louis Suzor)が継承。廃業の時期は不明。
1915(大正4)年
ジェラール、ランス市で死去。享年78歳。
晩年は金利生活者として故郷で悠々自適の生活をおくっていた。農業技術に関する本の収集家として知られ、蔵書は遺言により、遺産によって設立された農業サークルに引き継がれた。遺産相続人は秘書のシャルトン(Julien
Henri Charton)。
1920(明治9)年
工場跡地に、大正活映の撮影所ができる。
1922(明治11)年
工場跡地に、ジェラール給水株式会社設立。
1923(大正12)年
関東大震災。ジェラール給水株式会社が罹災者への給水に貢献。
1927(昭和2)年
横浜市がジェラールの遺産相続人シャルトンから工場跡地の永代借地権を買収。
1930(昭和5)年
横浜市青年連合団の提案により、湧水を利用したプールが建設され、この年オープン。周囲一帯は公園として整備された。(現在の元町公園)