産業技術遺産探訪 2004.8.7.

三栖閘門
国登録文化財
1929(昭和4)年竣工

三栖閘門資料館
(旧・三栖閘門操作室)

三栖洗堰

京都市伏見区三栖町
国土交通省近畿地方整備局淀川河川事務所伏見出張所

 1929(昭和4)年に宇治川の改修を行った際に、宇治川との舟運連絡を図るために設けられた土木構造物です。現在では地域のランドマークとなっています。

 三栖閘門は伏見港と宇治川を結ぶ施設として1929(昭和4)年に造られました。2つのゲートで閘室内の水位を調節し、水位の違う濠川と宇治川を連続させて、船を通す施設です。
 昔は、たくさんの船が閘門を通って、伏見と大阪の間を行き来していました。
 現在、道路や鉄道の発達にともない、交通路としては利用されていませんが、地域との関わりが深く、歴史的にも大変貴重な施設です。
 ※濠川(ごうかわ)は、「ほりかわ」とも呼ばれています。


三栖閘門・前扉室

建設省淀川工事々務所
三栖閘門バイパスゲート(前扉)
型式 鋼製スライドゲート
門数 2門
扉体幅 1.640m
扉体高 1.480m
揚程  1.200m
扉体重量 0.687t
設置年月 昭和62年3月
製作 近畿設備株式会社
三栖閘門・前扉室 閘門ゲート 八幡製鉄所の表示があります。

宇治川展望スポット
「三栖閘門・後扉室」の塔に登って、宇治川の景色や伏見の町などを見ることができます。


三栖閘門巻上機モニュメント

三栖閘門・後扉室側の旧・巻上機

 巻上機は閘門のゲートを上下に動かす装置です。この「三栖閘門巻上機モニュメント」は、「三栖閘門」の「後扉室」側(現在の宇治川展望スポット)で実際に使われていた巻上機をモニュメントとして設置したものです。

 「三栖閘門巻上機モニュメント」の案内板には、「三栖閘門」の1929(昭和4)年の竣工時に閘室の壁として使用されていた鋼矢板が再利用されています。


三栖閘門資料館
(旧・三栖閘門操作室

旧・三栖閘門操作室を復元した資料館です。三栖閘門の役割や港町として発達してきた伏見の歴史などを紹介しています。

三栖閘門資料館 旧・三栖閘門操作室
三栖閘門資料館(旧・三栖閘門操作室)
開館 9:00〜16:30
休館 火・水曜日


三栖閘門・閘室の1/60模型

 三栖閘門は、濠川側の前扉室、宇治川側の後扉室、それに挟まれた閘室で構成されています。
 濠川にやってきた船が閘門に近づくと、前扉室が開き、船が閘室に入り、前扉室が閉まります。バイパス水路から閘室の水が汲み出され、水位が宇治川と同じになります。後扉室が開き、船が宇治川に進みます。
 宇治川から濠川へ入るときは、バイパス水路から水を汲み入れ、閘室の水位を濠川と同じにします。前扉室が開き、船は濠川へと進んでいきます。
 三十石船は、多くの物資を乗せて伏見・大阪間を行き来し、上りは1日または1晩を費やしましたが、下りは半日で料金も半額であったということです。年月とともに淀川の水運は三十石船から蒸気船へと移り、大阪と京都が鉄道で結ばれた後も、淀川は物資輸送の として賑わっていました。三栖閘門は、大阪と京都を結ぶ水運に重要な役割を果たしていたのです。 


「内務省」の紋が刻まれた「旧・三栖閘門操作室」の鬼瓦


三栖洗堰


閘室は船が航行していた当時の風景を再現し、船着場として利用しています。

観光用に「十石船」が往来していました。

淀川三十石の由来
 淀川三十石船は、桃山時代初期(412年前)から淀川を上下していた客船または荷物船のことです。伏見京橋から大坂天満八軒家まで運行していました。当時客船は870隻、そのうち、三十石船は177隻でした。長さ56尺(17m)、幅8尺5寸(2.5m)で、お客は35名程度、船頭4名、上りは1日1夜、下りは半日で運航していた当時最大の交通機関でした。上りは綱を利用した曳船で、船頭衆はたいへんな重労働を行っていました。枚方の「かぎや船宿」で休憩し、その時間に別の小船「くらわんか船」が近づき、酒、日用品などを三十石船の客に売りに来ていました。三十石船は1俵5斗入り(大正6年5月まで)を60俵積載していたため、5×6=30で三十石船と命名されました。明治6〜7年頃に廃船となりました。平成3年に124年ぶりに観光用として淀川三十石船が再現されることとなりました。


宇治川派流域の歴史

 伏見港・宇治川派流は文禄3年(1594)豊臣秀吉の伏見城築城にともなう建築資材を運ぶため、宇治川の流路改修工事によりつくられた内陸の河川港です。
伏見城の外堀りであった濠川につながる宇治川派流沿いには江戸時代に問屋、宿屋、酒蔵が建てられ、米や薪炭、できた酒などを運ぶ小舟が往来していました。現在も柳に酒蔵が映える往事の佇まいを残しています。
 淀川三十石船をはじめとする大小の船で賑わった伏見港の中心地は現在の京橋付近でした。
 前を流れる宇治川派流の両岸は総称して伏見浜と呼ばれる荷揚げ場で、弁天橋の西は主に材木を荷揚げしたことから本材木町という町名が残されています。
 月桂冠旧本店のある付近は馬借前として、大阪からの旅人や船から荷揚げされた物資が馬や荷車に積み替えられ、陸路を行くための中継基地として繁栄を極めました。
 なお、このあたりの浜は、弁天浜とも言われています。

伏見港の歴史

 伏見港・宇治川派流は、豊臣秀吉の伏見城築城・流路改修によって形成され、各時代にわたって京都・大阪を結ぶ交通の要衝として栄えた河川港です。幕末には、寺田屋騒動や坂本龍馬の活躍など、わが国の歴史の主要な舞台ともなり、また角倉了以の高瀬川開削、近代の琵琶湖疎水開削・淀川改修などと深くかかわるなど、わが国の政治経済・土木技術史上、極めて高い歴史的意義をもった地域です。

伏見港の生成(1594年頃)
 秀吉は、伏見城築城の際、伏見地域を中心とする交通路の整備と水害対策を図るため、宇治川の巨椋池との分離をはじめとする大規模な改修を行いました。伏見城下町形成の際造られた外堀と改修された宇治川によって、大坂との水運の拠点となる伏見港が形成されることとなりました。

高瀬川の開削(1614年)
 伏見城築城以前、京都の外港の役割を担っていたのは、淀や下鳥羽でしたが、伏見港の開港によって、物資の流れは伏見地域の方に移りました。角倉了以は、京都と大坂を水運で直結することを目的として、伏見から京都市中に至る水路である高瀬川を開削しました。この高瀬川開削は伏見地域がますます港湾都市として発展する基礎となりました。

港湾都市の発展(江戸期)
 京都・大坂の水運の拠点としての港があったことと、伏見を拠点として京都・奈良・大津等にいたる陸路が整備されたこと、そして江戸幕府が伏見を伝馬所(公事方の書類等を運ぶための馬の乗り継ぎ場所)として位置づけたため、港湾都市として発展しました。伏見伝馬所は伝馬100匹を常置する宿駅で、参勤交代の西国大名たちは、必ず伏見に立ち寄ることになりました。このため、伏見には4つの本陣と脇本陣があり、大名屋敷もいくつか置かれました。また、同業者集団(仲間)を見ると、運送・問屋・旅宿に関する仲間が多くありました。天保期(19世紀前半)には、車借3組、車両数172両、旅籠屋42軒、水上仲仕42人、船大工12軒を数えたと言われています。さらに淀川を運行する船は享保年間(1700年頃)には、過書船742隻、淀船507隻、伏見船200隻、高瀬船128隻を数えたといわれています。こうして、伏見の町は、当時の大都市であった京都を背後に持ち、江戸末期には人口4万人を擁する日本最大の内陸港湾都市として栄えたました。

鉄道の開通と水運機能の低下(明治初期)
 1877(明治10)年、神戸・京都間に鉄道が開通すると、水運の要衝としての機能は低下していくこととなりましたが、鉄道に対抗してその後しばらくは大阪・伏見間を川蒸気船が就航していました。

琵琶湖疏水の開削と水運の再生(明治中期)
 こうした状況で、水運の再生に大きな役割を果たしたのが琵琶湖疏水の開削です。琵琶湖疏水は大津から京都の蹴上を経て西進し、川端通りまでの鴨東運河と、以下、鴨川に沿い南進し、濠川を経て伏見につながる鴨川運河とから成り立っています。琵琶湖疏水で運搬された貨物は、日本海側から琵琶湖を経由して関西方面へ送る物資や、大阪方面から淀川をさかのぼった石炭などが、その主なものでした。特に石炭は京伏間で使用するほとんどが、淀川〜琵琶湖疏水の水運によってまかなわれ、その産業発展に果たした役割は大きかったといえます。

宇治川の大改修(大正〜昭和初期)
 大正6年、当地域一帯を大洪水が襲い、淀川右岸地区は河口部まで家屋が浸水するという大きな被害が発生しました。そのため木津川・宇治川・桂川の三川合流点付近の改修に力が注がれることとなりました。

 この時、改修事業の一環として宇治川の派流が本川と分離されました。この事業は、大正11年より着工され、昭和5年に完了しました。これによって平戸樋門、三栖閘門、新高瀬川開削などが竣工するとともに、関連事業として疎水放水路が建設され、現在の地形がほぼこの時期に形成されました。

 大正時代に入ると、度重なる宇治川の氾濫を防ぐため、堤防が築かれ、その結果、濠川と宇治川に水位差が生じました。そして昭和になり、水位の異なる濠川と宇治川を船で行き来するために、三栖閘門(みすこうもん)が設けられました。1929(昭和4)年のことです。

近代的港湾の整備(1930年〜1950年)
 昭和10年代、工業化を図る中で、京都市の周辺の工場において使用する原料のほとんど全てが鉄道または道路によっており、重工業の発展には制約があったことから、そうした状況を改善するため、昭和16年には、内務省によって大規模な伏見港改築計画が策定されました。しかし、その規模は縮小され、昭和22年には、伏見港の船溜り等が整備されました。

伏見港の変貌(1950年以降)
 昭和30年代に入り、陸上運送が盛んになり、水上運送は次第にその地位を低下していきました。昭和38年には泊地の埋め立てが決定され、伏見港公園として生まれ変わりました。


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