技術のわくわく探検記 2004.7.19./10.3.   

稲を考える
ビデオ「稲と環境〜多様性から未来を探る〜」
完成記念上映会・シンポジウム


2004年7月19日 15:30〜18:00
紀伊國屋サザンシアター

(JR新宿駅南口 紀伊國屋書店新宿南店7階)

 私たち日本人は、遠い昔からずっとお米を食べてきました。ところが、こんなに身近なお米のことを、果たしてどれくらい知っているのでしょうか。
 近年の科学技術の進歩に伴い、稲作の発生や展開について、多くのことが解明されてきました。ビデオ「稲と環境」では、稲の起源を探るタイ、ラオスの旅から始まり、日本における稲作の現状に到ります。そして、未来の稲作や私たちを取り巻く環境について、考えてみたいと思います。

第一部 ビデオ上映
「稲と環境 第1巻 稲作の起源」(41分)
「稲の歴史 第2巻 日本の稲作」(22分)

   監修:佐藤洋一郎・総合地球環境学研究所教授
   監督:飯塚俊男
   企画・発行:紀伊国屋書店

第二部 シンポジウム (1時間7分)
出席者
     佐々木高明氏(国立民族学博物館名誉教授)
     立松和平氏(作家)
     佐藤洋一郎氏(総合地球環境学研究所教授)
     飯塚俊男氏(ビデオ「稲と環境」監督 映画監督)


それでは第二部シンポジウム「稲を考える」を始めさせていただきたいと思います。
はじめにパネリストの皆様をご紹介いたします。

本ビデオ「稲と環境」の監修をご担当いただき、出演をしていただきました総合地球環境学研究所教授の佐藤洋一郎先生です。
植物遺伝学の立場から、イネの起源の研究を進められ、1992年、「アッサム雲南起源説」とイネの祖先の一元論を否定し、ジャポニカだけが長江の中・下流域に生まれたという「ジャポニカ長江起源説」を発表されました。

続きまして、国立民族学博物館名誉教授の佐々木高明先生です。
照葉樹林文化、農耕文化研究ではたいへん多くの業績を上げられております。また本年4月、「南方熊楠賞」を受賞されました。

続きまして、作家の立松和平さんです。
1980年、「遠雷」で「野間文芸新人賞」、1997年には「毒 風聞・田中正造」で「毎日出版文化賞」を受賞されました。行動派作家として、近年は資源環境保護問題に積極的に取り組んでいらっしゃいます。

そして最後は、本ビデオの監督をつとめられました飯塚俊男さんです。
本日は、進行役をお願いしております。
では、飯塚監督お願いいたします。

飯塚
飯塚です。司会というのは慣れない仕事なものですから、うまくいくかどうかわかりませんが、せっかく先生方にお集まりいただきましたので、できるかぎり今日の映像を読み解きながら、さらに皆さんに稲につい関心を持ってもらえるような話ができればいいなというふうに考えています。
今、2本の作品を見ていただきましたが、1本は「稲作の起源」で、これは一般向けと言っていますが、研究者や図書館などで購入をお願いするという趣旨の「稲と環境」の第1巻目、そしてその後、20分の短いものを見ていただきましたが、これは中学・高校生向けの「稲と歴史」の2巻目の「日本の稲作」という作品になりました。この2本目の作品は、言ってみれば一般向けの2巻目と3巻目をダイジェストにしたような作品なわけですね。そのため今回は一般向けの1巻目を全て、2巻目と3巻目をダイジェストで見ていただいたということになります。これを見ていただいてどんな感想を持たれたのか、その辺からお話をしていただきたいと思います。
まず、立松さん、今ご覧いただいたばかりなのですが、どんな感想を持たれたでしょうか。

立松
僕も、稲のこと、稲作を非常に興味を持っていまして、佐藤先生の説とはまたちょっと違うシーサンパンナンのあたりにずいぶん出かけていって野性イネを見つけて、どちらかというと佐々木先生の影響で照葉樹林文化を研究するようなことをちょっとやっていたこともあります。このビデオの「稲の起源」というのは、僕らにはよくわからないのですが、現状に対する告発という意味で、「イセヒカリ」という品種に、僕も非常に興味を持っているんです。なぜなら、伊勢神宮のことを毎日新聞の名古屋版にずっと連載していたわけなんですね。伊勢に行って、1300年くらい前の生活文化が今もしっかり残っていることが非常におもしろくて、日本人のルーツみたいな感じがあって、御神殿に行きまして、当時の稲作の技術とは違うのですが、品種が昔の古代米を作っているのかと思ったら、いちばんおいしいお米を神様に食べさせてあげているんです。品種は「イセヒカリ」ですって言われました。「イセヒカリ」は、まさに今、伊勢神宮でつくっている品種なんですね。それがこうやって生まれてきた。そしてこのビデオの問題提起は、多様性ということですね。今はどこへ行っても「コシヒカリ」ばっかりで、「コシヒカリ」の流れを継いだものばっかりなんですけれども、今、日本の稲作文化には多様性というものがぜんぜん無くなってしまった。今、山に行っても杉の木しか植わっていなかったとか、これが合理性の行き着く果て、そしてやがて滅びていく過程に考えられていくわけですね。ですから稲の多様性について、ビデオ作品の最後に「イセヒカリ」を持ってきて、「イセヒカリ」もなかなか複雑な品種のようで、しかしその多様性というのが、われわれの今、この時代に欠けていることではないかと、稲作だけではない、他人、他者を排除するような時代になってしまって、寛容な気持ちが無くなってくる、そういう時代に対して、稲作の側からきちっと打ち出すことに非常に気持ちがいいという、素朴な感想を言わしてもらいました。

飯塚
それに関連してもいいのですが、佐々木先生はどうですか。

佐々木
「稲と環境」という、これは3巻あるわけですが、今日われわれはその1巻目を見せていただいたわけなのですが、飯塚さんはこれを一般向けとおっしゃっていますが、内容から見ると、もちろん一般の方がご覧になっても十分なのですが、同時にあれは研究者向けと言っても十分通じるものであって、そういう意味では非常にレベルの高い内容になっています。これだけ稲について詳しい内容で詳しい映像を撮ったビデオは、または映画は他にはないと思います。そういう点では、これはもう稲に関するたいへん詳しいビデオであったと思います。このビデオの中には、遺伝の話がある、栽培の話がある、考古学の発掘の話がある、さらには民族学から、農学から、まあ稲をめぐる、あるいは稲作文化をめぐる極めて広範な課題が得られている、しかも中身は、だいたいは学会の最先端をいっとるのでありまして、場合によっては、今の中学校の教科書なんかを見ると、書いてないことがいっぱいあることを言っているわけです。たとえば、弥生時代あるいは古墳時代の稲作は、たくさんの雑草みたいなものがいっぱいあって、水田は半分以上が休耕田であったというようなことを佐藤(洋一郎)さんは言っているわけです。そしてそれを発掘の成果にもとづいておっしゃっているわけですけれども、これは現在の日本の考古学では言っておりません。考古学者は水田を発掘いたしますと、その発掘した水田に全部、やっぱり稲が植わっていて欲しいんです。(会場から笑)あるいは現在の稲田のように想像したいんです。佐藤(洋一郎)さんみたいに、半分は雑草が生えていたと言われたら、もう発掘した考古学者はなんとなくかなわんので、まあ考古学者の気持ちもわかるんですが、こういうこともはじめとして、学会の最先端をいっているということは、学会の常識とはややずれている、最先端というのは常に常識よりも前にいくわけですから、そういう点でこの映像は、ある意味で学会の最先端をいっているビデオだと、そういう意味ではひょっとしたら一般向けではないのかもしれない(会場から笑)いや、これは宣伝用に言うとそうなるわけで、ただこれは、もう数年すれば、あるいは学会がもう少し敏感に新しい学説に反応すれば、数年すれば学会の常識になるもので、それを先取りしているすばらしいビデオだと思います。まあ、一言で感想を言えというならば、そういうことです。

飯塚
今回のこの企画は、一番最初のことをちょっとお話すると、私と紀伊國屋書店・映像情報部の部長さんとの話の中から、次は何をやろうか、と、その前に「菅江真澄の旅」という、これも長大なもので、全6巻のシリーズを作らしてもらいまして、それが終わったあとに、次は何をやろうか、という話をしたときに、稲の話が出てきまして、私は満蒙開拓団の問題を、その研究会に入れていただいて、後からついて時々撮影に行ったりだとかしてきたのですけれども、そうすると満州にですね水田がザーッと広がっているわけですけれども、その満州の水田というのは中国人はほとんど興味を持たなかったと、昔、清の時代には。満州の、あの東北部に植えたのは、粟、稗、黍(きび)とか、そういう雑穀類が中心で、あと小麦ですね。ところが日本が占領したというわけですから、植民地になったわけですけれど。その時に、お米を持っていって、そして向こうに育てたということがあって、米というのは、稲というのは熱帯からはじまって、中国を経由して日本列島に入ってきて、それが旧・満州に入っていくというような、そういう壮大な流れがあるのだというようなことを知りまして、満州の米をやってみたいと言って、こちら(紀伊國屋書店・映像情報部)の部長さんを悩ましたのですけれども、満州まで行くのはともかくとして、稲そのものならばいんではないかというわけで・・・。佐藤(洋一郎)先生とは前に、縄文、漆をテーマとした映像を作りましたときに、佐藤先生に漆の遺伝子分析などをやっていただいた時から、次は稲をやろうというお話をしていたものですから、稲に関する関心があったものですから、今回、佐藤説といったら悪いのですが、佐藤先生の考え方に沿って作ろうと徹底的に考えまして、非常に難しい、DNAなど映像化するのはとっても難しかったのですけれども、大きな動機というのは佐藤洋一郎先生から始まっているという。で、佐藤さんに振りますけれども、どんなことで、この企画をお考えになったかという・・・

佐々木
ちょっと・・・ですね。佐藤先生自分で言いにくいでしょうから、佐藤さんが企画者として言われる前に、佐藤さんという方を言っておきますと、現在、日本における稲の、イネというものを遺伝学的にきちっと研究しているのは、最近、佐藤さんの教え子の中からでてきましたけれども、もともと佐藤さんは遺伝学者なのです。農学者ではなかったのです。最近はだんだん農学からはみだして、だんだん文化人類学みたいなことをおっしゃるようになったのですが、もともとはきちっとした遺伝学者なんです。そのイネの遺伝学では、いまや日本では最先端の学者です。だから佐藤さんを中心にやろうということになったのです。
それから、先ほどあなた、満州を黍(キビ)・粟・稗と言ったでしょう。あれは違うんです。あれは中心はモロコシ、コウリャンなんです。粟・稗・黍(キビ)というのは間違いなんです。(会場から笑)

飯塚
いい加減なものですから・・・(笑)
えー、それでは佐藤先生。

佐藤
佐々木先生の後に話をするのは、しにくいんですよねえ。いつもどうしようかとおもうんですけれども・・・(笑)
飯塚さんから話があったときに、これは困ったことになったと思いまして、というのは飯塚さんというのは、あの映画見たらわかるでしょ、マニアというかね、フェチですよ(笑)、フェチズムですよ(会場から笑)、あのもうイネ・フェチみたいなところがあるんですけれども(笑)、これはしつこい映画になるぞと思って、だけど私の方も悪巧みをしまして、それだったらひとつ乗ってやろうかと、思っていることを全部言うてやれと思って、申しましたら、飯塚さんはほぼ全部取り上げて下さいました。出来上がった結果は、いま佐々木先生が言われた通りで、考古学者がなんとかという佐々木先生の件は本当でありまして、名前を出すといかんかなあ、某考古学者、H先生がですね、ある研究会で私に面と向かって言うたことがあるんです。あなたみたいに、わたしたちが掘った田んぼの中に草が生えているなんてことを言われたら、わたしたちとしては、もうほんとうに汗水垂らしたあの努力はどこに行ったんだと思うんだと言われて、いや困ったなと思ったのを思い出しましたが、私は別にそんなことを考えて飯塚さんにこういう映像を撮って下さいと申し上げたわけじゃなくて、わたしがいちばん言いたかったことは、今日、このビデオの中で、あれ飯塚さんをほめたらいいのか、カメラマンをほめたらいいのかわからないのですけれども、いい画がいっぱいあったんです。野性イネがぱっと花を咲いて、おしべがぱっと出るていう、あれね、世界初公開なんです。あんな映像どこにもない。よく、まあ汗の出る熱帯の灼熱地獄の中で、お撮りになったと、飯塚さんほめるんじゃなくて、カメラマンの方にお礼を申し上げたいのですけれど・・・。ああいう熱帯にいるときの日々の感動をどうしたらわかっていただけるかという思いがあったので、それを飯塚さんのフェチズムに乗っかってですね、うまいこと言って撮ってもらったというのがほんとうのところなんです。そういう意味で私は、なるほど良く撮れていたというふうに思っております。

飯塚
今、稲の開花、特に野性イネの開花の場面の話が出ましたけれども、私は前に山形県に十数年前に「幸生の郷土芸人」制作実行委員会という集団の中で稲を撮影していました。その時は、もう夏の間というのは、ちょうど甲子園の野球放送が流れている中で、毎日、稲の開花をフィルムで撮っていたんですね。フィルムで撮るというのは非常に難しので、時間設定をしなければいけない。1時間の開花を何分で見せるかと考えて、何秒に1コマとか、1分で1コマという計算をしながら撮らないといけない。それで最初はタイマーで撮ったりしていたのですけれども、それだと非常に機械的にしか見えない。そのうちカメラマンがシャッターを手で打つようにした・・・レリーズをつけて。そして動きがズーッと激しいときは、パッパッパッパッとたくさん打ってですね、ゆっくり見せる。そして動きがズーッと止まってくると、時々シャーッターを打つという・・・

佐藤
マニアでしょう。こういう話をすると1時間しゃべっている(会場から笑)

飯塚
・・・そういうようなことを3年ほどやったものですから、今回のイネの開花は、4日間で撮れたんですね。カメラマンの方が(会場に)来ていますけれども・・・ビデオですから1時間ずーっと回しっぱなしにしまして、後から処理しました。
それで、今回の難しかったところは、インディカ、ジャポニカ、それから熱帯ジャポニカ、温帯ジャポニカの話が出てきますね。それは非常に新しい見方だと思うのですけれども、それにもとづいて最近、「朝日百科」の日本の歴史なんかも大幅に訂正されて組み直されました。あの熱帯ジャポニカのあたりはどうですか。

佐々木
今回の佐藤学説で、私は、インディカとジャポニカという、これは戦前からイネを2つに分けるのは、インディカとジャポニカということになっていたんですね。もっともどっちにもつかんからというので、真ん中に(分類を)つくろうじゃないかという人もあったわけなんですけれども、だいたい大きく2つに分類された。その大きく2つに分類されたのは、野性イネの段階にまでも遡っても、やっぱりそうやちゅうことを遺伝学的にきっちり証明できたのが、まあ佐藤さんだけではありませんが、佐藤さんを中心とするグループがきっちりとそれを証明できた、そのことを映像的にもはっきりと捉えられたというのが今回の大きな、ユニークな点の1つだと思います。それで、インディカとジャポニカはぜんぜん別やと、今日(見たビデオ)の起源論は、ちょっとそこをごまかしてあるんで、インディカの起源というのは今はわからん、わからんからぜんぜん映像の中には話として出てこないで、これは伏せておいて、今は、話はジャポニカに集中している。そのジャポニカが今までは1つやったと思っていたのが、実は「温帯ジャポニカ」と「熱帯ジャポニカ」だった。従来、「ジャポニカ」と言われていたものが、大半は「温帯ジャポニカ」だったんですね。だから新しく「熱帯ジャポニカ」というイネのグループがあることを遺伝学の立場からも、栽培の立場からも強調なさって、それは非常に古いイネの系統につながるんだということを、いろんな点から強調なさったのが、今回の最も重要な点だったと私は思っております。
立松さん、今の話・・・・

立松
僕は、中途半端にしか・・・学者の先生2人を前にして言えませけれども、何年か前に西双版納(シーサンパンナ)で、未分化のイネがあると、実は彼らが一番望んで作る山岳民族の焼畑、焼畑といっても永久な畑になっている斜面の畑で、 ? というお米があり、それは陸稲と水稲が未分化であり、ジャポニカとインディカが未分化の米があるというふうに聞いたんですよ。これは実は「ニュース・ステーション」という番組で昔、僕がやったんですけれども、やりたいものだから(笑)それを彼らはとてもおいしいというわけです。最高の米だと、僕が食べてもおいしくないわけです、はっきり言うと。これはまあ食味というのは、起源とはちがいますからね、慣れとかそういうものがあるんでしょうけれども。そういう起源の米というのは無いんですか。

佐々木
立松さん、今の話ね、いつごろの話ですか。

立松
10年ちょっと前ですね。12年くらい前だったかな。

佐藤
みんな雲南に行かれる人、私も雲南に行ったんですけれども、あすこは秘境雲南と言われてですね、雲南といったら文明も何にもない、文明から隔離された昔の生活がそのまま残っていると思って行くんですね。今は、西双版納(シーサンパンナ)の飛行場の近くは青い灯、赤い灯がワーッとネオンが光って、携帯電話がピッピーと鳴るようなところになって、実はあすこにあるお米は、文字通りハイブリッド・ライスといって、インディカとジャポニカを交配させてですね雑種強勢の理屈で中国政府が作ったお米があるんです。それがつまり未分化というか、あいのこですね。それかもしれません。

佐々木
今、立松さんのおっしゃったような、いわゆる水陸未分稲というのは、1982年に渡部さん、稲の専門家でございまして・・・、先ほど佐藤さんの紹介の時に「アッサム雲南起源説」を主張されたのが佐藤(洋一郎)さんの恩師にあたる渡部さんなんです。(会場から笑)その渡部さんとご一緒に行ったときに、1982年ですから今からもう20数年前です。その時はハニ族の村で確かに、立松さんのおっしゃるような陸稲でも使えるし水稲でも使えるというたいへん未分化な稲があったことは事実です。

佐藤
それは、水陸未分化なのか、その水陸未分化というのは渡部先生の言葉ですけれども、それはほんとうに「インディカ」「ジャポニカ」の未分化なのかそれはわかりません。

立松
それは、向こうの人が言っているという話なだけで・・・(笑)

佐々木
水陸未分化なのであって、「インディカ」「ジャポニカ」未分化という話とはちがいます。ややこしいのは、「インディカ」「ジャポニカ」という分け方、あるいは「熱帯ジャポニカ」「温帯ジャポニカ」という分け方と「水稲」「陸稲」という分け方とがどういう関係をするのか(笑)という話があったと思います。

立松
山の乾いた土で、播いて育っている「陸稲」と、「水稲」とはぜんぜんちがうものなのですか。

佐藤
なんか矢がこちらに向けられているという(笑)

立松
ただ知りたいだけですよ(笑)(会場から笑)

佐藤
われわれの認識というのが、日本にいて日本のお米から得る認識というのは、ものすごく狭いんですね。で、立松さん、私もそうですけれども、初めて向こうに稲を見たら、何だこれはというカルチャーショックにまず打ちのめされるんですけれども、日本で陸稲というとね、関東地方の北の方に行くと畝をたててお米をつくるのを陸稲って言いますね。あれを思い浮かべると思うんですよ。ところが向こうの、それこそ20年前の雲南の、今ではラオスなどもそうですけれども、「陸稲」と呼んでいるものは、それは「陸稲」といえば「陸稲」だし、雨が降ったら水が溜まるし、もともとが陸で植にゃいかんとか、水が無いといかんとかいう認識の無い人たちですからね、もともとは水陸未分化だと思います。その意味では。

立松
それとね、野生種というのは、僕はほんとうに素人で、お二人の前で素人っていうのを強調するしか立場がないんだけれども(笑)野生種というのがね、その時はテレビの取材で行って、飯塚さんみたいにフェチでやれるほど予算が無いんで、行ってすぐやってかなくちゃいけない状態で行ったわけですけど、中国の学者の人が、これが野生種ですと採ったのですけど、僕らにはわかりません。ネコジャラシにしか見えないわけです。(笑)で、ほんとうにわけがわからないんですよ。あれは遺伝子でしかわからないのですか。

佐藤
いや、そなことはないですよ。ネコジャラシは遺伝子を使わなくてもネコジャラシですからね。(会場から笑)それはやっぱり人間の目がいちばん僕は確かだと思います。でね、ネコジャラシと野性イネを間違えるというほどの素人ではないので・・・

立松
ネコジャラシのようなという・・・イネ科の植物だという意味ですよ・・・

佐々木
立松さんね、今、聞いてらっしゃる方の代表として立松さんいらっしゃるわけで、立松さんが疑問に思うことは、あなた(佐藤)が答えなければならない。

立松
稲というと、みのるほど頭を垂れる稲穂かな、でしょう。今、画面に出てきた稲はみなこうですよね。みのっていない状態だったのかも知れないんだけど、雑草ですよね。

佐藤
それは、穂が出ないとわからないですよ。穂が出ないと野性イネなんだか、葦なのか、恥ずかしい話なんですが、穂が出ないとぜんぜんわかりません。それは、雑草というのは的確な表現だと思いますね。

佐々木
1982年に渡部さんと一緒に行って、その前後に、カメラマンとディレクターだけで、専門家なしで撮って行かれた雲南の映像を見ますとね、はいこれが野性イネですといって出てくる映像が、だいたいが栽培イネがエスケープするというか、横へ出たものが何年かたって勝手に出たもの、そういうのを見て野性イネというんですね。勘違いしている映像があるんです。

立松
それは思いあたります。ようするに畦道に生えているから・・・

佐藤
豚が逃げて猪になったような、ああいうやつなんです。

立松
だからいつも僕は思うんですけれども、たとえば北海道の北の方でお米ができますよね、「きらら」というような・・・もし考える米とういうのが1粒いたとして、自分のルーツはどこかということでも、もうわからないわけですよね。われわれ日本人のルーツがどこかということがわからないのと同じように・・・。今日のビデオの中でも、末期的な稲作だという、1種類しかつくらないという、なんか病虫でも入ったりしたら防ぎようがないわけですよね。その時に遺伝のルーツをつかんだならば、また新しい米、強い米をつくることができるわけですね。それに必要になるのが野生種、畦道に生えている野性の米であると。そんなふうに思っていればいいんでしょうか。

佐藤
当たらずといえども、遠からず。(笑)いや、じつはですね、立松さんがご覧になった雲南の野性イネというのは、あのビデオの中の野性イネでいうと、タイの国道2号線でトラックがバーッと走っている横にポッとあったやつ、あれのほうなんですね。で、わがジャポニカのご先祖さんは、水の中からニョキニョキッて出ていた、あちらがご先祖さまなんですね。背の低い方はたぶんインディカのご先祖さんなんだろうと思います。この問題は、また佐々木先生にひやかされる・・・あんたはジャポニカの起源はやったというけれども、インディカの起源はどないなってるのか・・・と言われるけれども、それは先生、今日は聞かないでもらいたい。(会場から笑)

佐々木
はい。(笑)今日は言わない。

立松
じつは今、昔のことを思い出しているんですけれども、はっきり言うと、佐々木先生の照葉樹林文化に影響を受けて、(笑)はっきり言うと雲南に行ってるわけですよ。渡部先生の本をずいぶん読まさせていただいて、イネの起源は、照葉樹林文化の中では、イネの起源というのは、はっきり雲南だと先生はおっしゃってないんですかね。

佐々木
雲南だと言ってないんですけど、ただね、「照葉樹林文化の道」というのを書きました段階では、「アッサム雲南起源説」が唯一の説だったんです。1982年に実際に渡部さんと一緒に行った段階でも、その頃はまだ実際に「アッサム雲南起源説」が学会における唯一の説で、その頃はこの人(佐藤)も、そう思ってはったんです。

佐藤
私、学生でした。(笑、会場からも笑)

佐々木
で、そこが最初に申し上げたように、最先端というのは、そこからわずか20年の間に学説が動くわけでございます。その動いた学説の最先端、だから私はこの頃、さっき飯塚さんが言ってくれたように、朝日新聞から出ている「週刊 朝日百科」の「稲作のはじまり」というのを全部書き直したんです。つまりそれくらい今や、稲の起源説というのは動いているわけです。だからまだこれでも少しくらい今日の話の中から、いやもうちょっと違うということが出てくるという可能性が、全然無いわけではない・・・といいますのは、「熱帯ジャポニカ」というものが先ほどはっきり言ってないんですが、じゃあ何がいちばん起源なのか、「熱帯ジャポニカ」と「温帯ジャポニカ」という2種類が、今、ジャポニカの中にあるということがわかってきたのです。で、この人(佐藤)は、ちらりと言ってるんですが、きっと「熱帯ジャポニカ」が古くて、「温帯ジャポニカ」がそこから出てきたのではないかというようなことを、先ほどのビデオの中ではおっしゃっているんですが、あんまり大きい声で胸を張っておっしゃってないんです。それはまだ、その証拠がきっちりないわけですね。で、相対的に「熱帯ジャポニカ」の方が、悪い粗放な条件で栽培できるし、「温帯ジャポニカ」の方が良い、水田のようなきちんとした良い条件でないと栽培できない。そうすると粗放な栽培のできる方がきっと古いのだろうという推論だと思うんですが、実際にそうだという証拠が、今、押さえられてかと言うと、必ずしも現時点では押さえられていない、という所へんがまだ問題なんです。

佐藤
もう、私、何も言うことがありません。(笑、会場からも笑)
いやー、じつはその通りでありまして、常識的には、じつはここがくせものなんですが、常識的には「熱帯ジャポニカ」の方が古そうです。だから常識的に考えると数千年前、1万年に足りるか足りないかの頃に、長江の流域で最初に「熱帯ジャポニカ」が生まれた。で、その中から、これがいつかはわからないのですが、水田というしかけをつくるような稲作と、それにあった「温帯ジャポニカ」というイネが生まれた。こういうふうに考えるのが1つの仮説ですが、残念ながらまだ証拠がないんですね。じゃ何をしなければいけないかというと、もう一回、飯塚さんを中国へ連れて行って、(笑)またフェチズムを発揮してもらって、この頃のお米をもらってきて、またDNAをとるということをやらないといけないんですが、もひとつ可能性がありまして、これは佐々木先生をヨイショするわけではないんですが、「熱帯ジャポニカ」というのがどこから・・・南の要素のにおいがする・・・柳田国男さんのにおいがプンプンとする。さあ、これをどう片づけるか、この2つの仮説、つまり「温帯ジャポニカ」があとからできたというのと、「熱帯ジャポニカ」と「温帯ジャポニカ」というのは、ひょっとしたら系譜が違うのかもしれない・・・

佐々木
と言いますのは、先ほどの稲が伝わってくる道という地図をちょっと思い出していただきたいのですが、稲は揚子江、長江の下流から北の方を廻って、山東半島から朝鮮半島へ行く。それから長江下流から直接、日本列島や朝鮮半島へ行く。もうひとつが、ずっと南の沖縄の列島をやってきた。前の2つ、長江から朝鮮半島や北九州に来たのは、たぶん「温帯ジャポニカ」だった。それで、南の島を伝わってきたのが「熱帯ジャポニカ」だというふうに考えられます。と言いますのは、ごく最近まで沖縄の在来稲は、インドネシアの「ブルー」によく似たと言われております典型的な「熱帯ジャポニカ」だったんです。だからまず南を通ったんだろう・・・そうなると佐藤(洋一郎)仮説をそのままいきますと、やっぱりいちばん古いものがいちばん先に来ているのです。先に「熱帯ジャポニカ」が来て、後から「温帯ジャポニカ」が来たんじゃないかと・・・まあそういうふうになるんでありますが、そうなってくるとなかなか今のところ考古学との兼ねあわせも難しい・・・問題が残っているし、そうすると疑問が出てくるのは長江下流の「河姆渡(遺跡)」で出てきた稲の中で、古そうなものの中でやっとわかったのは「熱帯ジャポニカ」だったらしい。それならその「熱帯ジャポニカ」はどこへ行ったのかという話になる・・・沖縄経由でないところにだってあるではないか・・・ということになってきて、このへんからはまだ(「稲と環境」の)3巻は、何年かしたらもう一回やり直しということになるかもしれない・・・もし、商業的安定性を考えたら、学会の最先端の話をすると(なかなかうまくいかないのですが)・・・でもやっぱりそこが謎解きのいちばんおもしろいのは学会の最先端の話でして、まあ皆さん方はどちらをお取りになるか・・・

立松
ちょっと質問いいですか。

佐々木
はい、どうぞ。

立松
米を食べている人たち、われわれもそうですけれども、食味っていうのが非常に重要になりますよね。うまいものとまずいもの、「熱帯ジャポニカ」とか考えないとだめなわけですよね。これはどっちがうまいのですか。

佐藤
これについては言わねばならないことがあるんですか、まず1つだけ申し上げておきましょう。われわれがビデオ(「稲と環境」)の中で見た「熱帯ジャポニカ」は「糯(もち)米」なんですね。それで、彼らは「米」=「糯米」だと思っているふしがあるんです。日本人は米というのは・・・

佐々木
彼らというのは、東南アジアの焼畑をつくっている山地の人たちです・・・

佐藤
・・・ビデオ(「稲と環境」)に登場した方々です。

立松
そしたら、今、北海道の北の方でできているのは、ほとんど「糯米」ですよね。寒いところの地方は、「粳(うるち)米」というのはあまりできないんですか。

佐藤
できないのではなくて、「粳米」をつくっても売れないんですよ。おいしくないから。「糯」だとごまかせるでしょう。

立松
ああ、そういうことなんですか。

佐藤
しょせん「糯」ですから。

立松
・・・旭川とかあっちの方は100%といっていいくらい「糯」をつくっていますね。

佐々木
ただ、「糯」というのは「熱帯ジャポニカ」にもあるし、「温帯ジャポニカ」にもある。「野生イネ」にもある。

佐藤
「野生イネ」にはありません。もし、佐々木先生が「野生イネ」の「糯」のタネを持ってきて下さったら、一粒10万円で買いますよ。(会場から笑)

立松
安いじゃないですか。僕なら100万円ですよ。(笑)
あのね、シーサンパンナンに行って「野生イネ」を持ち出したら捕まりますよ。

佐藤
そうです。

立松
もう、たいへんな目にあいますからやめてくださいよ。

飯塚
僕は映像人間ですからね、いろんな論理があるんですけれども、その論理をどういうふうに映像化するのかということをいちばん考えるわけですね。(「稲と環境」の)1巻目というのは「稲作の起源」ということだったから、稲作の起源のイメージというものが、どういうものかということを表したかったんですけれども、結局、ラオスの焼畑で撮影して、それ以上、中国の長江流域に行けなかったわけですね。まあ、僕は前に調査で河姆渡遺跡に行ったことがあるんですけれども、もうほんとうに長江下流というか、長江の支流の川の、それこそまさに多年生の「浮稲」が育つような深い水のところの遺跡ですよね。それで、その辺が(イネの)起源地だとすれば、何であんな山の中の斜面で育っていく稲で起源を考えなければいけないのかということが、いちばん強く思ったことなんです。

佐藤
それは、おもしろい問題ですね。さっき、立松・佐々木対談の中でですね、「照葉樹林文化」っていうことばが出てきて、「照葉樹林文化」っていうのは今でもアッサムから雲南にかけての地域に残っている文化ですね。それと稲とのかかわりがあると言えば、稲のふるさとはやっぱり「アッサム・雲南」ではないかという話になるじゃないですか。それで結論から言ってしまうと、「照葉樹林文化」・・・ねばねばを好む文化・・・というのは、もともとは「河姆渡(遺跡)」を中心とする長江の下流にあったのではないかと思うんですよ。それが何らかの原因で、川の上流の方へ行ったのが、今現在我々が見ている「照葉樹林文化」と「糯米」の文化であると考えられるわけです。「照葉樹林文化」と「稲」の関係というのは、そのまま残るんです。僕は、長江の下流に「照葉樹林文化」が既にあって、彼らがイネを最初に栽培した人たちであって、そのイネが「糯米」であったという仮説を立てたらどうかなあと思うんです。どうです、第4巻。

飯塚
(笑)中国の長江流域で稲作の起源を撮りたいと思ったんですが、今回行きませんでしたが・・・「焼畑」というのが、ああいう山の斜面の焼畑ではなくて、平らなところで雑草を焼いて稲を育てるみたいなね。だから水浸し・・・ラオスのあそこはデルタ地帯で、平らなところですから・・・僕は熱帯の気候というのを初めて体験して、ああそういうことかと思ったんですけれども、あんな水浸しになっているのが、乾期になるとまったくの草原みたいに変わってしまうのですね。今回、10月に1回だけ2週間撮影に出かけただけなんで、乾いた映像というのは僕らは撮れなくて、佐藤さんの映像ストックの中から使わせてもらって組み合わせて、季節の変わり方を描いたわけです。映像をいただいたことで熱帯のイメージというのがよくわかったのですけれども、あんな水浸しのところでも生きられて、それから水が無くなっても生きられるという、そういう2つの生き方を持っているというのが、イネの本来の姿であるため、長江流域だって生きやすい環境であったでしょうし、そういうイネの起源のイメージというのを、もっとはっきりととらえると、「熱帯ジャポニカ」の話とつながっていくというあたりが次の大きな課題だなあと思います。

佐々木
起源のイメージだけを考えれば、あんなに「焼畑」に・・・いろんな作物があるけれども見渡す限り「陸稲(おかぼ)」というような・・・あれは起源のイメージにならんということになります。それで起源のイメージをもっと考えれば、もうちょっと谷間というのか、私は「原初的天水田(げんしょてきてんすいでん)」ということばを使うんですけれども、雨の多い年には水浸しになるし、雨の少ない年には乾いている。そういうところに、イネも粟(あわ)も・・・稗(ひえ)はありませんが・・・黍(きび)とかそういうものを一緒に播くと・・・そうして雨の多い年にはイネが実るというような、雑穀の混作の中からイネが出てくるという、そしてちゃんとした水田になるのは、もうちょっと後であるという。そういうふうに思うんですよ。私はそれを「雑穀栽培型稲作」と名付けているんですが、そういうものをイメージとして考えれば、照葉樹林文化というのも原初的に考えれば、そういうような農業に支えられたものが、長江の下流にあったのか、あるいは山よりにも広がっていたのかよくわかりませんが、日本の縄文時代の古い時代にもそういうような農耕と採取・狩猟がかみあわさったような文化が広がっていた、その中からだんだんイネが選択されていった、そういうプロセスを考えるのがいいと思うんです。

佐藤
「焼畑」というと、我々はラオスを見ても、それから今、日本にかろうじて残っている「焼畑」を見ても、みんな山の斜面なわけですよね。だけど佐々木先生、どうですか、「焼畑」の中で、平らなところでやる「焼畑」というのは、あるわけですよね。

佐々木
あったと思うんですよね。

佐藤
この間、ラオスに行ってきたときには、やっぱり平らな所でもやるんですって。それで「山の斜面でやるのは何でか?」って言ったら・・・僕は通訳を通じて聞いたわけですけれども・・・口を尖らせて「斜面でしかやらせてくれないから、しょうがない」と、「できることなら、平らな所でやりたい」と言うから、ああ、よかったなあと思ったんです。

佐々木
もう今や、水田というものが、ここ何百年の間、日本だって律令政府が出来て以来、水田というものをつくらせることが政府にとって大事ですよね。ですから水田ができるようなところで焼畑はつくってはならん、みたいなことになりますよね。

立松
長江の中流域っていうのは、今でこそ広大な平野ですけれども、もともとは大森林だったわけでしょう。

佐々木
はい。

佐藤
僕も、中国へ行ってみて思ったのは、ちょっと高いところには家とかがあって、ちょっと低いところには池があって、そこで魚を飼っている。地図で見ると緑一色ですよ。東京と同じですよ。僕は何十年も昔、東京に遊びに来て、坂の多いのにびっくりした、というのは地図で見ると緑色にかいてある。それと同じだと思います。

立松
ほんとうに平らな所って、あんまりないでしょう。だから今は水田になっているけれども、あれは人工的なもので、本来は斜面だから水稲よりも陸稲のほうがつくりやすかったのではないかと・・・沖縄の与那国島で取材したことがあるんだけれども、半分は稲作だったんですよ。それは完全な沼だったですね。だから水を抜かないんです。土は一見軟らかそうなんだけれども、田植えをするために入ると硬くて、指が・・・繊細な指が(笑)・・・ペンしか持っていないような指だから・・・どうでもいいことですが・・・・(笑)

佐々木
「稲と環境」という全3巻、副題は「多様性から未来を探る」ということで、いちばんはじめに立松さんが言われたのですけれども、最近の文化っていうもの、われわれ日本人を取り巻く文化っていうものが、明治以来、単一化、均質化の過程を辿ってきたと思うんですね。まあ、簡単な話が、たとえば方言一つをとってみても、あるいはわれわれみんなが同じような服装をしていますし、言葉も同じですし、昔はもっと方言が豊かにありましたし、いろんなことが地方ごとに豊かだったのが、均一化してくる。最近はコンピュータが普及してくると、グローバル・スタンダードだとか言って、世界中を一つにするような傾向があるわけですけれど、それでは文化の多様性が無くなってくる。わたしは、「イネ」も同じことだと・・・「多様性から未来を探る」というテーマは、「イネ」を取り上げながら、未来に多様性を残していきたいということで、最後に「イセヒカリ」というものが出てきたのですけれども・・・私、見ていてちょっとわからなくて教えてほしいんですけれども、あの映像を見ていると、はじめに神田の「イセヒカリ」が全部倒伏しているときに、(倒れていないので)偉いやっちゃということで取ってきた・・・というと何かえらい多様性があって、遺伝的多様性があって、その中から「極早生」も出てくるし、「糯」も出てくる・・・いろいろ出てくるっていう話があって、「イセヒカリ」っていうのはえらい多様な「イネ」なんだなあと思って感心して見てたんですが、最後の場面で「御田植え祭り」で、きれいな(着飾った)女の子が田植えをしている。これは「イセヒカリ」ですか。

佐藤
「イセヒカリ」です。

佐々木
あの「イセヒカリ」はいろんなのが出てくるのですか。

佐藤
これは飯塚さんが悪いのですが・・・(笑)
ちょっと説明なんですね。

飯塚
そうですね。今回、2巻目と3巻目をダイジェストして上映したということもあって、育種というものがどういうことなのかということを省いちゃっているんですね。3巻目をよく見ていただきたいと思うのですが・・・(笑)

佐藤
あれの種明かしをすると、こういうことなんですけれど、「イセヒカリ」という品種を、おしなべて見ていると、そのなかから「早生」が出てくる、「糯」が出てくる、いろんなものが出てくるんです。でも、これでは今の「イネ」の品種としては困るので、「山口イセヒカリの会」の人たちは何をしたかというと、「イセヒカリ」の中で安定したおとなしい「イセヒカリ」、本家本元の「イセヒカリ」をお作りになった。それは「イセヒカリ」という名前で売れるわけです。

佐々木
分家は分家でそれぞれまた他品種に仕立て上げる・・・

佐藤
別な品種に仕立てているわけです。お酒用に・・・
したたかなんですよ。

佐々木
元祖「イセヒカリ」というのと、それから出てきた本家「イセヒカリ」というのは、分けて考えなくてはいけないですね。

佐藤
おとなしくて何の変化もしないのを本家「イセヒカリ」、その他に分家は分家でわるいことをしないようにというか、変わらないようにしたのを「糯」というように・・

立松
本家というのは、「コシヒカリ」の系統に入るわけですか。

佐藤
いや、そこがねえよくわからないんですけれども、少なくとも別物なんですね。同じだったら多様性にならないんですよね。

佐々木
もっとね、これは控え室でも言ってないような質問をするとね、少なくとも「イセヒカリ」は「コシヒカリ」との関係で言って、あれは「温帯ジャポニカ」ですね。それは「熱帯ジャポニカ」とどんな関係があるのか。

佐藤
あんまり言いたくないんですけど、あとで違ったと言わないように・・・(笑)どうも「イセヒカリ」というのは「熱帯ジャポニカ」の遺伝子の一部を受け継いでますよ。

佐々木
だから多様性・・・

佐藤
はい、そういうことですね。「コシヒカリ」の兄弟分だったらね、同じことなんですよ。
佐々木
あれは純粋に・・・というのは言葉がわるいかもしれないが、「コシヒカリ」というのは、新潟コシヒカリというのは「熱帯ジャポニカ」の影響がほとんどない・・・

佐藤
ほとんどないですね。「イセヒカリ」は相当入っているみたいですね。

佐々木
ということは、多様性と言うものを考える時の・・・

佐藤
キーワードになるわけです。

立松
質問なんですけれど、ある一つの性格だけを取り出して残していくと、多様性ではなくなっちゃうんではないですか。

佐藤
はいっ、それだけを見ると多様じゃないんですけれど、ほかのものもあわせて、いろんなものがありますよっと、つまり「コシヒカリ」だけ、「コメ」=「コシヒカリ」という、さっきの文化の多様性という話ですけれど、それをやめて、今日は「イセヒカリ」を食べてみようとか、明日は「コシヒカリ」にしてみようというようなことも含めて、それからこの田んぼは「イセヒカリ」、この田んぼはまた別の品種というような、多様性を確保するには、いろんな品種があることが大事です。

立松
そういう意味なんですね。そうか、「イセヒカリ」の中に、今年の「イセヒカリ」はちょっと糯がかかっていますよっとか、ちょっと「コシヒカリ」っぽいですよとか、ヴィンテージですよとか、そういうことは考えられませんね。(笑)

佐々木
ご商売にならないんじゃないですか。そういうふうにしてしまうと。だけども遺伝子が非常にバラエティを持っている、「熱帯ジャポニカ」の遺伝子の要素すら持っているであろう多様性に富んでいるのだろうけれども、立松さんがおっしゃったようにそのまま栽培したら、年ごとに変わってして、去年はわりに「早生」だったけれども今年は「晩生」となったら、これは・・・

飯塚
選抜して、よしこれでいい「イセヒカリ」の稲が育ったぞっていう段階で、20kg種籾をとって、それを冷凍保存して、それを1袋200gの袋に分けて、100年分冷凍保存してあるです。そしてそれを毎年播いている。

佐藤
元種ですね。

飯塚
そしてそれを圃場で育てると1000倍くらいに増えますから 、それをまた・・・

佐々木
もともとあった「極早生」とかね、「糯」とか、お酒にいいとか、そういうのはその中に入っていないわけですね。

飯塚
それとは別に育てている・・・

佐藤
それはそれで別に育てている。

立松
伊勢神宮の御神田では、何をつくっているんですか。

飯塚
「山口イセヒカリの会」でつくったものを10kg分けてもらって育てている・・・

佐々木
もともとの多様性を中にもっているような種はどうなっているんですか。

佐藤
それは研究用にとっておいてもらっているんです。私らは、食べるのもおいしい方がいいですけれども、いろんなものが出てくるっていうのは実におもしろくてですね・・・

佐々木
研究用としておもしろい・・・

佐藤
江戸時代の朝顔の品種改良の専門家が、いろんなものを庭に植えておいて、変わっているっていってとってきたものと同じで、おもしろいですよ。斑入りの稲なんて、鉢植えにしようかなって思いますよ。(笑)

佐々木
稲にしろ何にしろ、明治以降の日本の近代化のプロセスの中で、政府なり、つまりお上ですね、お上が旗振って一様化・均質化を奨めてきた。ところが江戸時代の農業を考えたら、篤農家というのがいて、いろいろ努力して、つまり民間の努力でいろんな品種をつくってきたわけですね。「イセヒカリ」の先ほどの話のように、お上に持っていくと、お上は言うことを聞いてくれない・・・

佐藤
・・・相手にしてくれない・・・

佐々木
そこで、そんならいっちょやろうかっていうことになって、まさに民間でおやりになって、いろんな新しい品種ができてきた。これは、僕は非常に重要なことだと思うんです。つまり、明治以降、近代化の百数十年のプロセスの中で、均質化・単一化ということで、日本文化全体が単一化してきたのは、やっぱりこれはお上主導できたからからです。

佐藤
そうだと思います。

佐々木
やっぱり、もう一回、ものすごい多様性のあるものとして再編成するのは、お上ではない。研究者も含めた民間でやる・・・

佐藤
・・・そうだと思いますね。ここに農水省の方がおられたら、耳にふたをして聞いててもらいたいのですが、(笑)まったくそのとおりで、品種改良の事業っていうのは、やっぱりどっか民間に託してみるということの大事さというか、そういうものを僕は教えているんだと思うんですね。

立松
この「稲と環境」の全3巻のビデオの最後に「イセヒカリ」出て、一種の未来を暗示するというつくりですよね。構成では。で、まだちょっと疑問なので、もう一回もどる可能性があるかもしれないんだけれども、その多様性をですね、摘んじゃって、一つの性格だけを残すというのは、この「稲と環境」というテーマできたわれわれに、まさに今の産業との折り合いでそうならざるを得ないということなんですね。そういうふうに理解すべきなんですね。

佐藤
そうだと思いますね。一様化っていうのは、その単純化するっていうのは、効率を考えたらしょうがないところがありますよね。だけどちょっと行き過ぎたんじゃないかと。やっぱりここでもういっぺん、少し立ち止まって、もういっぺん少し昔のことを、昔に戻れとは言いませんけれども、昔の知恵をくみ取ることはできないかと、そういうヒントですよね、飯塚さん。

飯塚
そうですね。

立松
だから、たとえばね、考え方を変えるんだったら、今年のイセヒカリとか、(笑)僕らは今、麦などをわざと混ぜて食べてる・・・別に同じ米を食べているわけではない・・・ベースは同じかもしれないけれど・・・だから考え方を思い切って変えちゃって、今年はこんな案配でとれたけれど・・・っていうみたいな、消費者に向けての、何が入っているかわかりませんと・・・(笑)

佐々木
いろんな要素をもっているものを、ダーって栽培して、今年はえらい極早生みたいになったって・・・

佐藤
僕は、いちばん理想的な姿だと思うのは、何が混ざっているかわからないっていうのは、まだ受け身なわけで・・・いろんなものがあります、どうぞそのなかからいいと思うものを自分で選んで、今日はこれとこれをブレンドしてみようと、今日は「赤米」と何を混ぜてみようとか、今日はお寿司だからちょっとこの品種を混ぜてごはんを炊いてみようとかね・・・

飯塚
・・・そういう意味でね、ビデオの3巻目のラストの方に、京都のお米屋さんが出てきて、「われわれはあまりにコシヒカリに、ブランドとしてね売れるものだから・・・」

佐々木
そういえばね、私は今75になるんですが、僕らの小さい頃は米屋っていうのがあった。それで、米屋っていうのはいっぱいね、安いのから高いのまで、値段も違うし種類も違って、何やいっぱい売ってたよね。この頃、「コシヒカリ」しかあらへん。

飯塚
ブレンドもしている・・・

立松
ブレンドをしているんだったら、「イセヒカリ」は自然のブレンドじゃないですか。
佐藤先生の研究でおもしろいなあって思ったのは、休耕田をつくっていましたっていうでしょう。今はもう4割くらいが休耕田なんですよ。これは別の要請でそうなって、もう草が生えて荒れているんですけれど、あれは歴史的に見ていいことなんですね。(笑)

佐藤
それでね、休耕田やりましょって言うとね、必ずまず行政にしかられます。虫が発生して苦情が来ますからやめて下さい。美観を損ねますからやめて下さい。最近は見晴らしが悪くなって・・・公園の木まで切る時代ですからね・・・ですから、そういうのはやめて下さいって言うんですけれど、価値観の大変革っていうか、やはりものの考え方を変えなくてはいけないんだと思いますね。それこそが多様性なんだと。

立松
だから、そういう根底からですね、発想を変えていくためには、いろんな多様性のお米が、いろんなものがあっていいわけで・・・

飯塚
ちょっと時間が迫ってきましたので・・・
山口の方から、イセヒカリ会の会長さん、先ほどの(ビデオの)映像にも写ってましたけれども、前の山口県農業試験場の場長をされていた岩瀬さんがいらっしゃっているので御紹介いたします。岩瀬さんお立ち下さい。(会場から拍手)
岩瀬さんから「イセヒカリ」のお米を頂戴しまして、(会場の)入口に小分けしまして、1袋2合ずつ、50袋くらいあるでしょうか、希望者だけにしかまわらないのですが・・・何しろ去年は山口といえども冷害というか天候不順でお米がとれなかった・・・去年から今年にかけては非常に米不足、特に「イセヒカリ」は米不足、まあ、その中から20kgを、自分たちの飯米をですね、特別にこちらへ持ってきていただいた・・・それとあと、「イセヒカリ」でつくったお酒なども置いてあります・・・このシンポジウムが終わった後、会場入口のロビーで皆さんとまた、今日の話が30分ほどですが、お互いに会話できる場が用意されていますので、どうぞお残りいただきたいと思います。
時間がまいりましたので、まとめはありませんけれども、これにて終わりにしたいと思います。(会場から拍手)


注)シンポジウムの内容は、パネリストの発言を忠実に再現したものではありません。掲載した内容に関する文責は、Webページ作成者にあります。


イセヒカリ
 生産者は、山口県玖珂郡美和町阿賀、佐伯全男氏、山口県山口市朝田、宮成惠臣氏です。
 昨年(2003年)の長雨、日照不足の大凶作の中で、最高の食味のお米でした。
 イセヒカリは軟質米のコシヒカリとは違って、今は殆ど姿を消した硬質米です。関西育ちの方からは絶賛を受けるお米です。寝る前に羽釜で仕掛け、朝、薪で炊いたあの昔のお米です。
イセヒカリを美味しく炊くには、水に6時間は淅して下さい。水に淅す十分な時間がとれない時は、淅した水を捨て、等量の熱湯で湯炊きをしてみて下さい。
 寿司米には最好適のお米です。米を洗わないで調理するパエリア、リゾットなどの本格的欧風調理では、この米に追いつく日本の米は無いと思います。日本の米であり、世界に通ずる米と自負しております。
 サンプルは、自家用常温貯蔵のものですから、梅雨に入った高温下で、味が少々落ちたのが残念ですが、賞味してみて下さい。両者とも除草剤1回使用のみで、農薬撒布なしで栽培された米です。
 平成16年7月19日 山口イセヒカリの会

紀伊国屋書店ビデオ
「稲と環境〜多様性から未来を探る〜」
完成記念・前橋上映会


対談「焼畑稲作の豊かさを考える」
赤坂憲雄(東北文化研究センター所長)
飯塚俊男(映画監督)

2004年10月3日(日) 13:30〜16:00
煥乎堂ホール
煥乎堂書店・前橋本店
(群馬県前橋市本町1-2-13)

1.上映作品
お米のふるさとをたずねて」<小学校向け>(22分)
稲と環境 第2巻 稲の渡来と展開」(39分)
   監修:佐藤洋一郎・総合地球環境学研究所教授
   監督:飯塚俊男
   企画・発行:紀伊国屋書店

2.対談「焼畑稲作の豊かさを考える
赤坂憲雄(東北文化研究センター所長)
飯塚俊男(映画監督)


ただいまWebページ作成中!


会場には、岡本敏子さんもおいでになられていました。

3.民族映像シリーズ「牛房野のカノカブ〜山形県尾花沢市牛房野の焼畑」(48分)上映

 2003年「地方の時代・映像祭」最優秀賞受賞作品
 製作:東北文化研究センター
 指導:飯塚俊男
 制作:東北芸術工科大学学生


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