技術のわくわく探検記 2003.3.18.

 
パウアー教授と松井田町教育委員会文化財担当の萩原さん

 2003年3月18日にドイツのマールブルク大学(Philipps-Universitat Marburg)・日本研究センター(Japan-Zentrum)副所長 パウアー(Prof.Dr.Erich Pauer)教授が、小栗上野介の業績を訪ねて、「東善寺」(群馬県倉渕村)にやってきました。パウアー教授は、技術史や日本経済史(日独の産業技術交流や日本の産業の発展)について研究し、東京大学社会科学研究所・客員教授も兼任されています。

 パウアー教授は、日本の産業発展について研究の過程で小栗上野介の名にたびたび遭遇し、関心をもっていたところ、2002年11月にNHKで放送された「その時、歴史が動いた 改革に散った最後の幕臣 小栗上野介〜一本のねじから日本の近代ははじまった〜」と、2003年1月に同じくNHKで放送された「またも辞めたか亭主殿〜幕末の名奉行・小栗上野介」を衛星放送で視聴し、大変興味深く感銘を受けたということです。
 毎年、3月初めから4月初めに日本に滞在して研究を行っており、小栗上野介がアメリカ合衆国の「産業のシンボル」あるいは「産業発展のシンボル」として持ち帰ったネジなどを写真撮影したいということで今回の「東善寺」への訪問ということになりました。
 東善寺の村上泰賢氏によって、まず水沼河原の顕彰慰霊碑に案内されると、「ここですか」といって感慨深そうに何枚も写真を撮影されたそうです。東善寺でも小栗上野介のお墓をお参りし、興味深そうに遺品を見て、特に小栗上野介が米国から持ち帰ったネジ釘(木ねじ)や手回しドリル(くりこぎり)に興味を引かれたということです。村上泰賢氏によると、「安中藩の記録」にある小栗上野介からの押収品リストのうち、「ランドセール」はドイツ語では「手提げなどの革カバンすべてをいう・ランセル」ということで、「幕末の兵隊さんのルックザック」という説明に「49個」もあることに納得していたということです。日本で「ド」がついたということになります。

 パウアー教授は学生時代に2年間留学生として日本に滞在し、その後毎年来日して研究を行っています。技術史研究のきっかけは、日本の農機具の研究からはじめられたということです。そのため、鉄の技術史についても研究され、「たたら製鉄」に話が及ぶとニコニコされていました。もともとは高等専門学校で電気工学を学ばれておりエンジニアでもあったパウアー教授は、電気技術史についても詳しく、木本忠昭氏(東京工業大学教授)や故・山崎俊雄氏(元・東京工業大学教授)の名前も会話の中に出てきてびっくりしました。山崎俊雄氏は中学校の技術科の新設や、技術科の教科論・学習内容論、民間の教育研究団体「技術教育研究会」などにも深くかかわっておられた技術史研究者でした。

 村上泰賢氏から、この訪問の連絡をいただき、午後は碓氷峠鉄道施設(国重要文化財)を案内しました。

 旧・丸山変電所や旧・矢ケ崎変電所の変電機器(回転変流機・回転変流機用変圧器・・・フェルテンギローム・ラーマイヤ・ウェルケ・ゲゼルシャフト(ドイツ)製、ピラニー式リバーシブル昇圧機・・・ドイツ・AEG(Allgemeine Elektrizitaets Gesellschaft)製)、電気機関車に送電するための特殊鋼製双頭分銅型の第三軌条(ドイツ・ドイチャーカイゼル社製)、3900形アプト式蒸気機関車(ドイツ・エスリンゲン(Esslingen)機械製造所製、10000形(EC40)アプト式電気機関車(ドイツ・AEG:Allgemeine Elektrizitaets Gesellschaft製)、軽井沢〜横川間のアプト式線路に沿って敷設されていたシームレス鋼管(継目無鋼管)を使った送油管(石油パイプライン)・・・ドイツ・マンネスマン社製、鉄製枕木など、碓氷峠鉄道施設にはドイツの技術が数多く導入されていました。

1000形(EC40)アプト式電気機関車 旧線・第6号隧道 碓氷第3橋梁

 当日は、丸山変電所修復工事を担当されている佐田建設の前村均さん、松井田町教育委員会社会教育課で文化財を担当されている萩原豊彦さんに詳細なお話をお伺いすることができました。

旧・丸山変電所
佐田建設の前村均さん 松井田町教育委員会社会教育課の萩原さん

 現在非公開となっている旧・丸山変電所内部もレポートいたします。お楽しみに!


 ドイツマールブルク大学(Philipps-Universitat Marburg)・日本研究センター(Japan-Zentrum)副所長 パウアー(Prof.Dr.Erich Pauer)教授からおたよりが届きました!(2003/4/21)


マールブルク大学や日本研究センターの紹介・・・そしてドイツ・メルヒェン街道のルートマップ(^^)
マールブルク大学・・・マールブルクは町それとも大学?
 大学都市マールブルクは、フランクフルトから北へ100km、ラーン川沿いの風光明媚なヘッセン州中部、メルヒェン街道の南にあります。マールブルクは「ドイツ・ロマンティックのゆりかご」とも言われていて、グリム兄弟はこの町で民族文芸の研究をはじめました。グリム兄弟が生まれたハーナウ(Hanau)を起点とするドイツ・メルヒェン街道では、マールブルクは13番目の町になります。
 大学の正式名称は「マールブルク・フィリップ大学」で、宗教改革直後の1527年(何と476年の伝統!)に「豪気なフィリップ」といわれたヘッセン方伯フィリップによって設立された最古のプロテスタントの大学です。
 昔から「他の町には大学がある。マールブルクは町そのものが大学だ!」と言われてきました。マールブルクの人口は約7万人、そのうち1/5を越える1万6000人が学生です!教授は500人以上、研究者は1500人、6000人に及ぶ教職員が大学で働いています。
 476年の長い大学の歴史には、蒸気機関の発明者デニス・パパン、化学者ローベルト・ブンゼン(ブンゼンバーナーで良く知られていますね)、哲学者クリスチャン・ヴォルフ、法制史家フリードリッヒ・カール・フォン・サヴィニー、新カント派のマールブルク学派の代表者ヘルマン・コーエンとパウル・ナトルプ、医学の分野でノーベル賞を受賞したエミール・フォン・ベーリング、実存主義哲学者マルティン・ハイデッガー、キリスト教非神秘家の代表者ルドルフ・ブルトマン、哲学者の三木清もここで仕事をしていた時期がありました。モスクワ大学創立者ミカイル・ロモノソフ、オルテガ・イ・ガセ、ポリス・パステルナク、T.S.エリオット、オットー・ハーン、グスタフ・ハイネマンらを輩出しています。


パウアー博士の論文も同封して下さいました。
・「幕末民営佐田反射炉の新資料」
・「幕末南部藩宮古の反射炉の生産過程計画」


アーチ橋、自動車・・・見ているだけで楽しくなる切手です(^^)


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