技術のわくわく探検記 2003.8.27.
大井川鉄道井川線アプト式鉄道
アプト式電気機関車ED901〜ED903
1990(平成2)年10月2日開業
大井川鉄道井川線「アプトいちしろ駅」とアプト式機関車基地
ED90形アプト式電気機関車(日立製作所製)
全長14020mm、車高3860mm、自重56t
ED90形
ED901〜903
「アプトいちしろ」駅〜「長島ダム」駅間のアプト区間で補機を務めるために1990(平成元)年に日立製作所で製造されたアプト式電気機関車です。自重は56tあります。出力は走行用に53kWの電動機4基、ラック歯車用に175kW電動機2基のモーターを搭載しています。ED90形電気機関車2両の重連で12両まで牽引することができます。
井川線ではアプト式区間の規格が高く、車両限界が大きいため、井川線の他の車両よりもやや大きく、アプト式電気機関車の高さが高く見えます。ED90形機関車3両は、スイス製のそれぞれ異なった音色の汽笛を装備しており、異なった音色の汽笛が渓谷にこだましています。
アプト式区間の勾配は、何と90パーミル(90/1000)
「アプトいちしろ駅」構内のエントランス
アプト式機関車基地には3両のアプト式電気機関車が配備されています。
ラックレール(歯軌条)に噛み合う機関車のピニオン(歯動輪)
資料
1.大井川鉄道の前身・駿府鉄道
大井川鉄道の始まりは、大正7(1918)年に設立された、静岡に本社を置く駿府鉄道である。
駿府鉄道は大井川上流部・奥大井の木材輸送と旅客輸送を目的として名古屋の近藤紡績ほか地元の人々により創立され、静岡−千頭間の洗沢峠を越える経路の鉄道建設を計画、同年、免許を申請した。時代的な背景としては、第一次世界大戦中の軍需生産と大正12(1923)年の関東大震災によって静岡県の木材業界は好況となり、生産能力も大幅に上昇、大正15(1926)年には製材能力が全国一となったことがあり、奥大井からの木材搬出の強い要求が起こっていたことがある。
その後、駿府鉄道は起点を島田に変更し、大正10(1921)年7月6日に免許を取得。東海道本線島田駅を起点に、大井川の東岸をさかのぼり東川根村の藤川まで40.1kmに蒸気鉄道を敷設するというものであったが、鉄道建設は莫大な資金が必要であり、資金調達は難航、なかなか着工には至らなかった。
2.大井川鉄道の創立
この鉄道事業が容易に進まぬ中、金谷町の有力者達が新たに参加、大正11(1922)年4月の発起人総会において、ルートを現在の様に金谷を起点にして大井川西岸を通り現在の本川根町に至るものに変更するとともに社名を大井川鉄道に改称することが決定した。
この頃、電力戦国時代といわれるほど電力会社の過当競争が行なわれており、競い合って電源開発をしていたが、大井川も例外ではなく、電源開発計画が盛んに立てられていた。そのような中での駿府鉄道の免許取得であり、各電力会社はこれに注目、当初木材輸送が目的であったこの鉄道敷設計画は、電源開発というもう一つの大きな目的をもつこととなった。
発起人の一人である静岡火力発電社長熊沢一衛は、実業家であり日英水力電気の役員であった榛原郡吉田町の中村円一郎に発起人総代への就任を依頼、中村は発起人総代となり資金集めに奔走、東邦電力および東京電力の社長、松永安左右ェ門らに会社設立の協力を依頼した。株式募集はなかなか上手くいかず、松永の方針により、大井川地方で株を募れるだけ募り、残りは東京で調達しようということになったが、地元では目標の3分の1程度しか集まらなかった。そこで松永自身が乗り出し、残り3分の2の資金調達に成功した。ちなみに松永は発起人に名を連ね、昭和2(1927)年から11年までは大井川鉄道の取締役もつとめている。
こうして大正14(1925)年3月10日、静岡市に資本金300万円をもって大井川鉄道株式会社が創立された。初代社長は発起人総代であった中村円一郎。中村は牧ノ原大地の開発に尽くし、「茶業の父」ともいわれる人物で、電力会社の他に銀行、紡績会社など多くの事業に関わり、貴族院議員にも3回当選している。
この時の大株主の一人は内蔵頭(くらのかみ)で、これは皇室の株式所有の名義人であり、南アルプスの御料林開発の目的からであった。
3.開通と延伸
会社設立と同時に金谷に出張所を置き、翌年には着工、昭和2(1927)年6月10日に金谷−横岡間6.5km(後に廃止)を開通。蒸気機関車2両、客車4両、貨車4両からのスタートであった。昭和3(1928)年7月19日には乗合旅客自動車(バス)事業(新金谷−島田間5.7km)、同年10月24日には貸切旅客自動車営業も開始している。
さらに、金谷から5.8kmの地点(横岡分岐点)から千頭に向けて延長工事を開始した。昭和4(1929)年には奥大井の電源開発をめざす大井川電力、富士電力などの電力会社の全面的な協力により増資が行なわれ、これにより千頭までの延長にめどがつき、家山、下泉へと延長は続けられた(表1を参照)。
こうして金谷−千頭間39.5kmが全通したのは昭和6(1931)年12月1日。イカダと舟、峠越えの馬しか交通手段のなかった奥大井の人々の生活は、鉄道の開通によって大きく変化した。また、この全通により奥大井の電源開発が初めて可能となったのである。
なお、全通日の翌日には横岡への分岐線は廃止されている。
大井川本線の歴史 年月日 区間 キロ程
昭和2(1927)年6月10日 金谷−横岡 6.4
昭和3(1928)年7月20日 横岡分岐点−居林 2.6
昭和4(1929)年12月1日 居林−家山 8.6
昭和5(1930)年7月16日 家山−地名 5.8
昭和5(1930)年9月23日 地名−塩郷 1.4
昭和6(1931)年2月1日 塩郷−下泉 3.1
昭和6(1931)年4月12日 下泉−青部 8.6
昭和6(1931)年12月1日 青部−千頭 3.4
昭和6(1931)年12月2日 横岡分岐線廃止
開業当初は蒸気機関車(SL)牽引による客貨混合列車で運行されていたが、昭和5(1930)年10月9日にはガソリンカーの併用を開始。その後、一部を旅客専用として気動車(キハ)を導入したりした。第二次世界大戦中は木炭や薪による代燃機関を取り付けたりして燃料不足の時代をしのいだ。
戦後は石炭の入手難と大井川の電源開発計画による輸送力増強のため、昭和24(1949)年12月1日に全線電化が実施された。電気機関車(EL)3両を新造、SLは昭和51(1976)年に復活するまで、いったん姿を消すこととなる。
客車専用の電車の登場は昭和26(1951)年8月である。フリークエントサービスのため国鉄より電車を譲り受け、客貨を分離すると同時に旅客列車の電車化が行なわれた。
4.経営難と再建
昭和36(1961)年から電源開発に伴う奥大井の開発が進み、南アルプス国立公園の指定や寸又峡温泉・赤石温泉などの開発がなされた。このような観光地化によって観光客が増加、沿線住民の通勤通学の需要も増えたため輸送体制の重点を旅客に置くようになった。8月には快速列車「あかいし号」運転開始。昭和44(1969)年4月26日には国鉄80系4連による東海道本線直通運転(静岡−千頭間「奥大井号」土曜・休日のみ運転)を開始している。
こうして観光客は増加したものの、昭和40年代には過疎化が進み沿線人口が年々減少。さらに、ダム建設の終了、モータリゼーションの進行により旅客・貨物ともに輸送量が減少。相次ぐ水害も重なり存続問題に発展するほど経営状態は悪化した。しかし、沿線住民の大井川鉄道への依存度は依然として高く、なんとかして経営を立て直さねばならなかった。
そこで、私鉄経営のノウハウを導入すべく名古屋鉄道(以下名鉄)に経営参加を求め、昭和44(1969)年11月、経営支援が実施された。名鉄は10%の株式を取得、大井川鉄道は名鉄グループ企業の一つとなった。
人員削減のため昭和45(1970)年から5年間におよそ2億4千万円をかけ合理化設備投資を行った。この時実施した事項は、
・自動洗車装置新設、車輌工場近代化、変電所の改良などによる省力化、無人化
・単線自動閉塞装置・列車無線の設置(昭和45(1970)年12月26日)、踏切自動化、重軌条化による安全性、快適性の向上
・電車増備による輸送力の増強
などがある。また、これらの設備投資により
・急行列車の新設(昭和46(1971)年、転換クロスシート車による急行運転)
・無人駅化・券売委託駅化(主要5駅を除く)
を行った。
この時期に貨物輸送も再編し、荷・貨物取扱駅を1町1駅として4駅に集約化した。なお、一般貨物の取扱いは大井川本線では金谷駅の東海道本線からの分離により昭和60(1985)年3月に廃止、現在は発電所建設時の資材の契約輸送のみを行っている。
5.SLの復活、そして現在へ
大井川鉄道に忘れてはならないのがSLの運転である。観光路線としての性質を活かし、鉄道自体を観光資源化するという斬新なアイデアを実行、SLの動態保存を行ない、昭和51(1976)年7月9日、「川根路号」として大井川本線でのSL営業運転を復活させた。昭和52(1977)年12月12日には同様にSLの保存運転を行っているスイスのブリエンツ・ロートホルン鉄道(BRB)と、昭和61(1986)年1月25日には台湾の阿里山鉄道と姉妹縁組をし、従業員の交流研修を行っている。これが縁で平成8(1994)年8月10日に金谷町とブリエンツ町が姉妹都市宣言をしている。昭和63(1988)年8月からは日本ナショナルトラストの動態保存列車「トラストトレイン」運転開始、平成8(1996)年6月からは元日を除き毎日SL運転を実施、またこの年には環境庁「残したい日本の音風景100選」に「大井川鉄道のSL」が認定された。SL列車利用客の比率は年々増加し、SL弁当やグッズなどの関連商品の販売も含め、収益に大きく貢献している。
鉄道・バスの輸送部門以外でも、多角経営化をはかり新規事業の展開を推進した。事業部門を昭和47(1972)年3月30日に設立、ボウリング場の開業(昭和50(1975)年11月閉鎖)、加工食品販売、SL車内販売、観光業、広告事業などを手がけ、現在に至っている。食品部門は昭和60(1985)年11月1日に大鉄フードを設立し、販路の拡張に努力している。昭和55年からは宝石・貴金属類の販売を始め、従業員全員でセールス活動をしている。
こうした経営努力の成果から、昭和47(1972)年から受けていた国の欠損補助金を昭和55(1980)年からは受けていない。
近年も重軌道化、ワンマン運行化(昭和59(1984)年12月6日から実施、現在電車列車は原則としてワンマン運転)などを行なっている。また、ジャズトレイン(昭和58(1983)年7月から)ビール列車(昭和59(1984)年7月から)SL結婚式などのイベント列車や各種イベントの実施なども行っている。
バス部門での合理化では、特に平成3(1991)年に井川静岡線・井川線を廃止したことが挙げられる。ピークの昭和40年代には360kmほどあった営業路線は現在では寸又峡線・日切線の2路線20.4kmとなっている。
平成4(1992)年10月には千頭駅舎を改築、駅前広場も整備している。なお、千頭駅にはSL資料館が併設されている。平成6(1994)年からは南海電鉄、京阪電鉄、近畿日本鉄道の特急車輌を相次いで導入し、サービスを向上させている。平成9(1997)年4月には観光客にSLの待ち時間を過ごしてもらうよう、新金谷駅前に展示館・サービスセンター・休憩広場・特産品コーナーをもつ「プラザロコ」をオープンさせ、増収をはかっている。
2.井川線の歴史
千頭から井川を結ぶ井川線は、昭和10(1935)年に大井川電力が奥泉ダム建設の資材輸送用に敷設した千頭−奥泉大井川堰堤(市代(いちしろ)付近)間約10km、軌間762mmの大井川電力専用鉄道に始まる。昭和11(1936)年には大井川鉄道との直通運転を考え、軌間を1067mmに変更している。
大井川電力は電力国家管理に伴い昭和14(1939)年、日本発送電に統合、戦後は電力再編成に伴い昭和26(1951)年に中部電力株式会社(以下中部電力)が発足し、同時にこの専用鉄道は中部電力に引き継がれた。
中部電力は井川発電所の建設を昭和27(1952)年に着工、資材輸送手段として既存の専用鉄道を改良して使用することにした。計画は専用軌道を井川村西山沢まで延長し、木材輸送のために井川ダムにのぞんだ堂平へも支線を敷設するというものである。
工事は堂平まで17.1kmを延長し、昭和29(1954)年に完成。総工事費25億5千万円を投入する難工事であった。旧専用鉄道の関係上、車輌規定は最大幅1850mm、最大高2700mmとなっている。なお、この時に新造された車輌は現在でも多くみられる。この専用鉄道は専用といいながら、沿線住民のために客車を増結し、井川−千頭間を無料で輸送した。
井川発電所およびそれに関連する奥泉発電所の建設終了後もしばらくは資材の輸送と電源開発の補償としての沿線住民輸送のため中部電力が管理・運行していたが、昭和33(1958)年6月30日、中部電力は大井川鉄道とこの専用鉄道の賃貸契約を結び、以降大井川鉄道が運行することとなった。
昭和33(1958)年12月13日、地方鉄道の免許を取得、昭和34(1959)年8月1日に大井川鉄道井川線として千頭−堂平26.6kmを装いも新たに開業した。
昭和30年代以降、井川線は観光鉄道としての色合いを強めたが、昭和40年代にはダム建設が一段落し、資材輸送が大幅に減少、また、建設省長島ダムの建設に伴う一部路線の水没問題が起こり、存続問題にまで至った。昭和46(1971)年4月1日に井川−堂平間1.1kmを廃止、昭和48(1973)年には定期貨物列車の設定が消滅している。
存続か廃止かの議論がなされたが、その後昭和53(1978)年に路線存続が決定、昭和57(1982)年に水没区間である川根市代(現在のアプトいちしろ付近)−川根長島(現在の接岨峡温泉)間を付け替え、アプト式の区間を作ることを決定、平成2(1990)年10月2日、市代−ダム堰堤のアプト区間1.5kmを含む新線区間が開業した。
なお、最近のまとまった貨物輸送には、大井川上流の赤石発電所建設に伴う資材輸送があったが、平成6(1994)年には終了しており、以降行なわれていない。
井川線は現在、奥大井県立自然公園や南アルプス国立公園、寸又峡、接岨峡温泉、赤石温泉、井川湖、畑薙湖などへのアプローチとして欠かせない交通路線となっているが、経営状態は非常に苦しい。平成8(1996)年には342百万円の赤字を出しているが、別途収益として中部電力から損失補填金が出ており、損失が相殺されるかたちとなっている。
井川線の施設は中部電力が所有しており、運営・管理は井川開発事務所という独立した組織が行なっている。
井川線の歴史と営業キロの変遷 年月日 できごと
井川線営業キロ
昭和34(1959)年8月1日 中部電力から移管、開業
26.6
昭和46(1971)年4月1日 井川−堂平間廃止 25.5
昭和56(1981)年4月1日 川根小山−奥泉間が路線変更
25.4
平成2(1990)年10月2日 アプト式区間開業、路線変更
25.5