産業技術遺産探訪 2001.8.13.

旧・小野田セメント 徳利窯
セメント焼成用竪窯
1892(明治25)年竣工

大阪砲兵工廠製蒸気機関
1881(明治14)年製造

樽造機

太平洋セメント株式会社・小野田工場
 山口県山陽小野田市大字小野田6276番地 


旧・小野田セメント 徳利窯
1892(明治25)年竣工 7基目のセメント焼成用竪窯

山口県指定史跡 1969(昭和44)年2月4日指定

焼成部の高さ   5.5m
煙突部の高さ  11.0m
全高        16.5m

焼成上部内径   4.48m
煙突頂部内径   0.68m

小野田セメント徳利窯

 小野田セメント徳利窯は、笠井順八が1881(明治14)年に創立した日本で最初の民間セメント会社「セメント製造会社」のセメント焼成用竪窯です。この竪窯は「セメント製造会社」の創立時から建造が開始され12基が設置されました。1基目は1883(明治16)年の夏に完成し、1891(明治24)年までに6基がつくられました。当時、ヨーロッパではセメント焼成に竪窯が一般的に使われていて、この竪窯を「Bottle Kiln」と呼んでいました。「徳利窯」もこの竪窯の形状に由来しています。唯一現存しているこの竪窯「徳利窯」は1892(明治25)年に完成した7基目の竪窯12万5000個のレンガ(これらの煉瓦は地元で生産され、1889(明治22)年7月に設立した「日本舎密製造株式会社」向けの硫酸瓶製造とともに、小野田の窯業を発展させることになります)が使用されました。内部の火袋は「白煉瓦」(耐火レンガ)で覆われています。窯の下部には鉄製の火床が水平に設置されていて、窯の内径は上部ほど細くなっており、煙突のはたらきをさせるような構造になっていました。

 火床に焚き付け用の松材(松の枯枝)を敷き、その上に煉瓦の厚さで2枚分に相当する石炭(中粒)を載せ、その上に石灰と泥土が混合されている原料(乾燥してある)を煉瓦の厚さ5枚分になるように積み、窯内部の最大径部分に達するまで12〜13段交互に積み重ねていきましたが、石炭は上層ほど厚みを減らしていき、最終的には煉瓦1枚分となるようにしていました。のちになって、こうしたおおまかな方法ではなく、石炭と原料を鉄製の缶を使って正確に投入するようになりました。
 原料と石炭の装填が終わると火床上の松材に点火して焼成を開始しますが、終了するまでに約7昼夜かかりました。焼成の終了直前に窯の内部上面へ石炭と原料(生焼のもの)を投入して、余熱を利用した焼成も行っていました。この竪窯による焼成は、約7昼夜で約10トンのクリンカーを製造する能力がありました。
 焼成が終了すると、窯の下部にある火床を取り外してクリンカー(焼塊)を取り出しました。
 徳利窯は焼成が不均一であったため、取り出したクリンカー(焼塊)を選別する必要がありました。クリンカー(焼塊)を粉砕するために蒸気機関によって回転するフレットミルを用いました。操業当初は1時間あたり250kg(1樽半に相当)でしたが、のち熟練して1時間あたり500kgを粉砕することが可能となりました。粉砕後のセメントは回転する六角形の篩(ふるい)でふるい分けられ、「精粉」は「セメント風化倉」へ送られ、残滓はフレットミルへ送り返されて再び粉砕されました。竪窯による焼成は、その焼成過程で遊離石灰(フリーライム)を生じることが多かったため、そのまま使用すると、セメントが硬化したのちに亀裂を生じることがありました。そのため「精粉」は十分に風化させ石灰分を安定させた後でなければ使用することができませんでした。日本では「竪窯」に代わって「回転窯焼成」に移行するまではセメントの風化が行われていました。風化は、風化倉の床上に約2mの厚さで精粉を積んで、時々上下に打ち返して行われましたが、あまりに能率的でありませんでした。そこで風化倉の床上に木箱を並べ、空気の流通を促すために木箱に約60cmの竹筒を立てて、その木箱の上にセメントを約2m盛って行われました。それでも風化には5ヶ月を要しました。そのため、風化倉を増設し、精粉を盛る厚さを約1mほどに減らして、時々打ち返しながら風化させるように改善させていきました。
 風化が完了して石灰分が安定したセメントは、風化倉内で詰め(はじめは手詰めで、のち機械化)を行い、隣接する海岸から船舶によって出荷しました。
 竪窯による焼成は操業が非連続であり、焼成時間も長く、焼成も不均一であったため、こうした欠点を克服することができる「輪窯」の導入によって、1913(大正2)年9月には、この竪窯による焼成が廃止されました。

 小野田セメント「徳利窯」は、洋式ポルトランドセメント製造の黎明期にその製造法を伝える唯一の遺構であり、士族授産(小野田セメント設立資金に、県からの補助金を借用しました)、殖産興業政策の足跡を物語る資料として重要な技術遺産です。

原料と燃料の投入口

窯の中央部分を取り巻くように斜めに積まれた煉瓦は、この竪窯の下部が屋根で覆われていたためで、屋根の取り付け部分です。

見学したとき(2001年8月13日)には、窯の下部と基礎部分の補修工事(地盤沈下による)が行われていました。

この「徳利窯」は「小野田セメント龍交会」によって、これまでに次のような保存修理が行われています。

1978(昭和53)年2月
目地補強
補強バンド取替え
協力 小野田セメント株式会社

1988(昭和63)年3月
内壁付着セメント粉の固定
全煉瓦壁面の清掃
煉瓦及び目地の補修
鉄帯の防錆
内外壁の防水剤含浸
円筒頂上部の天蓋取り付け


大阪砲兵工廠製蒸気機関
(1881(明治14)年製造)

横置単筒型蒸気機関

シリンダー直径(ボア) 360mm
行程(ストローク)    720mm
回転数(rpm)    60回転/分

コルニッシュ型ボイラー
ボイラーの直径    1520mm
全長           6080mm

蒸気圧           4気圧
※ボイラーは現存していません。

 1881(明治14)年に創立した日本で最初の民間セメント会社「セメント製造会社」で、セメント製造用の機械を駆動させるために導入された蒸気機関の1つです。創業者の笠井順八は、公称8馬力の蒸気機関を「工部省・神戸工作分局」に、公称20馬力の蒸気機関やさまざまな機械類を「大阪砲兵工廠」に発注しました。当時の工場の多くは水車を動力としているのが一般的で、蒸気機関のほとんどは欧米から輸入されたものが官営工場に設置されているだけでした。そのため国産の蒸気機関製造がまだ始まったばかりの時代であったわけです。当時、蒸気機関を製作することができたのは、工部省・赤羽工作分局、工部省・神戸工作分局(兵庫造船所)、東京砲兵工廠、大阪砲兵工廠、長崎製鉄所(造船所)、横須賀製鉄所(造船所)、石川島造船所などに限られていたようです。この蒸気機関は、大阪砲兵工廠が蒸気機関の製造をはじめてから初期の頃のものであり、民間工場向けに製作されたものとして、極めて貴重な技術遺産と言えます。

遠心調速機(ガバナー)

樽造機

 セメントを出荷するための容器には、木製の樽(のちになって生産コストの低い麻袋が使用される)が使われました。1917(大正6)年に「小野田樽材株式会社」が設立されました。


太平洋セメント・小野田工場(旧・小野田セメント・小野田工場)

 「小野田セメント製造会社」は、笠井順八が1881(明治14)年5月に創立した日本で最初の民間セメント製造会社です。笠井順八は1875年からセメント事業の調査に乗り出し、セメント製造会社の設立準備は1880年1月から具体的に進めていきました。工部省深川工作分局へ山口県産の大理石と小野田にある有帆川の泥土をサンプルとして持参し、セメント製造の可能性を確認しました。(工部省深川工作分局は、日本で最初にセメントの生産を開始した官営工場である大蔵省土木寮建築局・摂綿篤製造所が移管したもので、のちに浅野セメントを経て現在の太平洋セメントとなっています。)
 セメント製造に必要な原料については、石灰石を豊後恒見、無煙炭を紀州天草、粘土は有帆川と厚狭川河口のものを採用し、小野田新開作に工場を建設して1883年9月からセメントの製造を開始しました。湿式で始まった製造方法を、1887年にドイツ人技師を招聘して技術指導を受けて乾式に変更しました。また、1896年にはドイツで開発されたディチュ式を採用するなど、製造技術を効率的なものに改善していきました。1900年代前半にはセメントの年間生産量が約30万樽(4樽で約1トンに相当)に達しました。

工場正門前に「徳利窯」見学通路が設置されています。入口では資料も配布されていました。


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