技術のわくわく探検記 2000.8.29.

トーマス転炉
NKK日本鋼管・京葉製鉄所で1937(昭和12)年から1957(昭和32)年まで使われていたもの
外径 約4.2m 高さ 約7.6m 重量 約60トン

神奈川県川崎市中原区等々力1-2(等々力緑地内) 川崎市市民ミュージアム

トーマス転炉

 1879年、S.G.トーマスSidney Gilchrist 1850-1885 イギリス)は、いとこのギルクリストと共同の研究で脱燐が可能な塩基性耐火材を用いた塩基性製鋼法(転炉法・平炉法)を発明し、それまでの転炉法や平炉法が銑鉄の中に含まれる燐(リン)を除去できないという制約を克服することに成功しました。鋼は燐(リン)を多く含むと脆くなってしまうため、それまでは燐(リン)を多く含む鉄鉱石は原料として使うことができませんでした。トーマスによる塩基性製鋼法の発明は、その後の溶鋼法を大きく発展させるきっかけとなりました。

 転炉は、高炉(溶鉱炉)でつくられた「銑鉄(せんてつ)」(炭素量1.7%以上)から「(はがね)」をつくるための炉で、現在一般的に使われているものに転炉のほか、電気炉、平炉などがあります。
 高炉(溶鉱炉)でつくられた「銑鉄」は炭素を多量に含んでおり、またケイ素、マンガン、リン、硫黄などの不純物も含まれています。鉄の性質にいちばん大きな影響を与えるものは炭素で、炭素含有量の少ない鉄は、やわらかくてのびやすくさびにくくなります。炭素量が増えるにしたがって、かたさと強さは大きくなりますが、もろくなっていきます。実用的な鉄である「鋼」をつくるため、銑鉄に含まれる炭素量を1.7%以下に減らし、不純物もできるだけ取り除くための過程が製鋼法であり、日本ではその約80%が転炉によって行われています。
 転炉の中に冷却効果のための「くず鉄」を入れ、次に溶融状態(摂氏約1400度)の「銑鉄」を入れます。転炉の上部の開口部分から「ランス」と呼ばれるノズルを溶融状態の銑鉄(溶銑)の中へ差し込み高圧の酸素を吹き込みます。この吹き込む工程を「吹錬(すいれん)」と言います。この吹錬によって転炉の中の温度は急上昇し、溶銑中に含まれている炭素が酸素と化合して一酸化炭素となり溶銑中から出ていきます。ランスを差し込んだ時に、不純物を取り込んで鉱滓となる「石灰」を入れます。溶銑中の不純物は酸化物などとなって石灰に取り込まれ、「鉱滓(こうさい)」となります。転炉の下部にある羽口からは溶銑をかくはん(攪拌)するために窒素ガスを吹き込みます。転炉の中では比重のちがいから鉱滓が溶融状態の鋼(溶鋼)の上に浮いた状態になります。こうして炭素量を調整された溶鋼に、用途に応じた成分を調整するために必要な元素を添加して、転炉から取鍋に移されます。そのとき転炉は傾動軸によって傾けられ溶鋼を取鍋へ注ぎ込みます。転炉という名称は、このように炉を回転させることができることからきています。
 取鍋に移された溶鋼は、圧延工程へ運ばれます。このような高炉・転炉・圧延による製鉄法を「銑鋼一貫生産方式」といい、日本では鋼材の約80%を、この方法で生産しています。(電気炉で「くず鉄」を溶融して圧延する製鉄法を「再圧延生産方式」といいます。)

 上の転炉の写真からわかるように、左が傾動軸を回転させるための歯車で、右の写真は傾動軸がパイプになっていて、転炉の下部にある羽口へパイプがつながっており、ここを溶銑をかくはん(攪拌)するための窒素ガスが通っていきます。

 トーマスの発明した塩基性耐火材は、ドロマイト(石灰、マグネシア)を高温で加熱してできたクリンカーを粉砕した後、タールで固めて耐火材をつくりました。この塩基性耐火材で内張した炉を用いると、銑鉄に含まれている燐(リン)を除去することができます。また、製鋼が終わったあとに残ったスラグは農業用の燐肥として使うことができました。
 トーマスが塩基性耐火材を発明するまでは、炉の内張りに使われた耐火材は珪石などの酸性耐火材であったため、多量の石灰(塩基性)を投入して、銑鉄の酸化された珪素(ケイ素)のスラグである珪酸(ケイ酸)を塩基性スラグに変化させていました。ところが、この塩基性スラグは酸性耐火材と激しく化学反応を起こし、酸性耐火材でできた炉壁を浸食してしまい耐久性がありませんでした。
 ハービック夜学校で学んでいたトーマスは、チャロナー教授から転炉法による脱燐が課題となっていることを知り、研究に打ち込むきっかけを得ました。


展示説明には次のような解説がありました。(一部加筆変更しました)

トーマス転炉(NKK寄贈)
外径 約4.2m
高さ 約7.6m
重量 約60トン
 このトーマス転炉は、イギリス人シドニー・G・トーマスによって発明された燐を含む鉄鉱石の利用を目的とした製鋼炉である。NKK(日本鋼管株式会社)では1937(昭和12)年にトーマス転炉を導入し、翌年の1938(昭和13)年から1957(昭和32)年まで京浜製鉄所に設置し、稼働させていた。設置当時、日本は満州事変などによる景気の好転を背景に、鉄鋼の国産化推進が強く求められていた。NKKの今泉嘉一郎は、輸入スクラップに依存しない鋼の高能率製造法としてこの転炉に着目し、ドイツで普及していた転炉を、日本で唯一導入したのである。これによりNKKは、民間鉄鋼業界では初めての銑鉄一貫体制を実現させた。
 このようにトーマス転炉は、日本の鉄鋼業界の発展に大きく貢献し、世界屈指の鉄鋼生産国に日本を成長させる基礎を作ったのである。それと同時に、京浜工業地帯発展史の上でも象徴的な産業遺産と言えるだろう。

   


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