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メンデル葡萄の由来

 

「メンデル葡萄」の由来については、

 中沢信午「小石川植物園のメンデル葡萄」(「遺伝」1989年3月号(43巻3号) pp.46-48)

に紹介されています。


1840年 チェコスロバキアのブルノ(旧名:ブリュン)で、「全ドイツ農業技術会」か開催される。
       議長であった聖トマス修道院長のチリル・ナップ(C.Napp)が
     「人工交雑による品種改良には、長い年月を要する。それは遺伝の法則が未知だからである。
       と意見を述べた。
       19世紀のヨーロッパでは、良質の羊毛やブドウ酒の原料としてのブドウの要望が高まっており、
      そのための品種改良が期待されていた。   

 修道士であったメンデルは、植物雑種の研究に着手して、遺伝の根本的な法則(メンデルの法則)を発見して、この原理に基づきブドウの品種改良をするために、修道院の庭にブドウの木を植えた。これらのブドウの木は、メンデルがイタリア旅行でフローレンス(フィレンツェ)から持ち帰ったものや、オーストリアのシュタイヤ(Steyr)からのもの、あるいはモラビア地方在来のブドウなどが栽培されていたという。

 1913(大正2)年の秋 ウィーンで開催された医学生理学会議に出席していた東京帝国大学教授・三好学は、チェコスロバキア、ブルノ出身の植物学者ハンス・モーリッシュ(HansMolisch)と、メンデルの研究家フーゴ・イルチス(Hugo Iltis)の勧めでブルノにある、かつてメンデルが所属していた修道院を訪問することになった。
 三好は1908年、ブルノでメンデルの石造を建設するための国際基金募集に、日本植物学会で集められた65人 からの醵金105円50銭を送っていた。

 1913(大正2)年10月1日 メンデルの研究家フーゴ・イルチス(Hugo Iltis)と、彼の友人である鉱物学者ブルカルト(Dr.EduardBurkart)(ブルノにあるモラビア博物館の鉱物部門に在職しながら出版業も営む)の出迎えを受けて三好はメンデルがかつていた修道院を訪問した。三好はここで、メンデルが使用していた顕微鏡、メンデルの肖像画、植物の実験園、植えられたブドウの木、修道院裏手の丘にあるミツバチ小屋などを見学し、さらに25点にも及ぶ記念品を贈られた。その中に修道院のブドウの枝があった。(記念品の品目は三好学「欧米植物観察」(1914年)318−320ページに記録されている。)

 1914(大正3)年4月 記念品として贈られたブドウの枝が、ブルカルトによってシベリア鉄道経由で東京の三好のもとに送り届けられた。三好は小石川植物園の内山富次郎・園丁長に依頼して、挿し木にしてもらい、根付き生育した。小石川植物園で現存するメンデル葡萄は、こうして生育した1株から、さらにもう一度枝を取って挿し木した1株の合わせて2株が育っている。

 そののち、第2次世界大戦後の1949年に、この修道院は解散した。(現在は「メンデル記念館」となっている。)

 中沢信午氏は、1982年8月30日 ブルノで開催されたメンデル記念シンポジウムに出席したのを機会に旧・修道院(現在の「メンデル記念館」)を訪問し、旧・修道院の庭にあったブドウの木は消滅していたが、裏手の丘にあるミツバチ小屋の南にメンデルが植えたブドウの葉を2枚入手した。さらに1988年8月30日に小石川植物園のメンデル葡萄の葉も2枚入手できたため、この両者を比較した。
  その結果、次のような差異が確認された。

 1.葉の外形は、小石川植物園の方が刻みが細かく、葉の縁に約65の小刻みをもっている。ブルノのミツバチ小屋のものは、
  葉の縁に約40の大きな刻みがある。
 2.小石川植物園のメンデル葡萄は、葉の裏面全体に細かい毛があるが、ブルノのものには全く毛がない。


 これらは、偶然による「彷徨変異」を越えるもので、遺伝的な「特異形質」と考えられ、品種レベルの差異がある。

 すなわち、小石川植物園のメンデル葡萄は、ブルノ修道院のミツバチ小屋のものではなく、すでに絶えてしまった修道院の庭に植えられていたブドウが親木ということになり、すでに失われてしまったブルノ修道院の庭のブドウの木が、挿し木によるクローンとして、遠く日本に残存したと言える。 

メンデル葡萄の葉

  


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