信越線碓氷峠鉄道施設(近代化遺産)
橋梁 疎水橋(カルバート) |
隧道 (トンネル) |
丸山変電所 | 線路・ラックレール |
鉄道車両 | EF63動輪 | 横川駅舎 | 跨線橋 |
送油管 | 熊ノ平変電所 | 横川火力発電所跡 | (旧)軽井沢駅舎 |
熊ノ平殉難碑 | 碓氷嶺鉄道碑 (アプト式開通の碑) |
招魂碑 | 刻苦七十年碑 |
熊ノ平駅跡 (熊ノ平信号所) |
横川駅給水タンク跡 | 軽井沢駅構内 給水煉瓦サイロ |
峠の釜めし |
明治政府による東京−京都間の幹線鉄道計画は、東海道と中山道の2つのルートで比較検討されました。明治3年6月、土木司員小野友五郎、佐藤政養(与之助)は東海道ルートの視察によって、在来の運送手段や地域開発の観点から中山道に幹線鉄道を計画すべきであると復命します。これをうけて政府は明治4年3月、小野友五郎、山下省三らに中山道を踏査させ、さらに明治7年5月と明治8年9月にはイギリス人建築師長R・V・ボイルが実地調査を進めます。しかし、緊迫した国内情勢による軍事費支出等で資金不足のため幹線建設は停滞することになります。
そこで政府は「中山道鉄道公債証書条例」を明治16年12月に公布して、測量を着手することにしました。しかし建設に着手してみると中部山岳地帯および碓氷峠を通過することが予想外に難工事であり、明治19年7月19日閣令第24号で幹線鉄道計画は東海道にルートが変更さることになりました。
明治17年5月、日本鉄道株式会社により上野−高崎間が開通したのをうけて、明治18年10月には高崎−横川間が開通します。中山道幹線鉄道の建設資材を輸送するための路線として計画された直江津−上田間の直江津線は、幹線ルートが東海道に変更された後は、中部横断鉄道として工事が進められます。そして明治21年12月直江津−軽井沢間が開通しました。こうして、太平洋側と日本海側を結ぶ列島を横断するルートとしての役割を担い、碓氷峠越えの鉄道建設は着手されることになりました。
明治17(1884)年3月から測量技師南清、小川資源によって進められていた横川−軽井沢間の調査により、いくつかの鉄道建設ルートが検討されました。25〜100パーミルにも達する勾配と、ループ線、スイッチ・バック、ケーブル線などが検討されました。また当時ドイツに留学中の鉄道局技師仙石貢と吉川三次郎によるアプト式の紹介などもあり、最終的には建設費用等の理由から、アプト式により66.7パーミルの勾配を乗り切る方式に決定し、明治24(1891)年着工、明治26(1893)年開通しました。横川−軽井沢間の建設工事には、イギリス人建築師長C.A.W.パウネルと本間英一郎技師が統轄し、横川−熊ノ平間は吉川三次郎技師、熊ノ平−軽井沢間は渡辺信四郎技師がそれぞれ担当しました。横川−軽井沢間約11.5kmにトンネル26、橋梁18(疎水橋等を除く)が建設されることになります。
アプト式軌条材料一式およびアプト式蒸気機関車(3900形・エスリンゲン機械製造所製)はドイツから輸入しました。その後は、アプト式蒸気機関車は、イギリスからベイヤー・ピーコック製の3920形、3950形を輸入し、さらに国産の大阪汽車製造合資会社製3980形というように輸入された車両を手本にして国産の機関車を設計・製造していくことになります。
しかし、最高速度9.6km/h、1日24往復、1列車10両(客車)が限度であったために、輸送力の面で飽和状態になってしまいました。そこで、最高速度19.2km/h、1列車15両連結が可能となる電気機関車の導入が、トンネルの多いこの区間での安全性等も考慮に入れて計画されるようになります。ただし、当時の日本の電気技術の水準や、発電所建設の費用の面から決定が遅れ、1910(明治43)年になってから着工されることになります。横川火力発電所(出力3000kW)を新設し、ボイラー8基で出力1000kWの蒸気タービン直結発電機3基によって、3相交流6600V、25Hzで発電し、地中ケーブルによって丸山変電所および矢ケ崎変電所で直流650Vに降圧し、給電することになりました。10000(EC40)形電気機関車はドイツのエスリンゲンおよびアルゲマイネ社から輸入され、1912(大正1)年に日本で営業用としては初めての電気機関車が使用されました。輸入機関車を手本に国産機関車を開発することが繰り返され、ED40形(鉄道省大宮工場)、ED41形(スイス・ブランボベリ機関車製造会社)、ED42形(日立製作所他)が順次使用されることになります。
こうして幹線鉄道として電化されたものの、ED42形機関車を1列車に4両用いても碓氷峠では約49分かかり、1日に66本の列車を通すことが限界で、1960年代はじめには、再び輸送力が飽和状態に達していました。このため、アプト式に変わって粘着方式による高性能電気機関車を開発し、ルートも新設あるいは一部変更し複線化するため、1961年に新線工事が着工されました。1963(昭和38)年にアプト式は廃止されアプト線を一部改修して1966(昭和41)年に複線化工事は完成します。碓氷峠専用の補助機関車(補機)のEF63形電気機関車や信越本線用本務機のEF62形電気機関車の登場によって、横川−軽井沢間の所要時間は登り(下り線)17分、降り(上り線)24分と大幅に短縮されます。
アプト式鉄道時代に使用されていた橋梁、隧道(トンネル)、電気機関車、ラックレール、変電所や記念碑が、現在も数多く残されており、当時の面影を今に伝えています。
アプト式鉄道にはじまる信越本線碓氷峠は、急勾配への挑戦であると同時に、熊ノ平の土砂災害をはじめとした度重なる災害や事故とのたたかいでもあったもといえます。
このように、日本の技術史(土木・建築・機械・電気技術史)においても歴史的に重要な信越本線横川−軽井沢間(碓氷線)は、北陸新幹線(長野行き新幹線)の開通にともない1997(平成9)年9月30日に廃止されました。近代化遺産として重要文化財に指定された「碓氷第三橋梁」をはじめとした旧信越本線碓氷峠鉄道施設や車両等は、旧横川運転区跡地にオープンした「碓氷峠鉄道文化むら」を拠点にして保存活動が進んでいます。
この原稿は、大木利治「急勾配に挑んだ軌跡〜信越本線碓氷峠アプト式鉄道跡〜」
(『技術と教育』第215号 技術教育研究会 1990年7月)を加筆・修正したものです。