技術のわくわく探検記 2000.6.8.(6.22更新)

日本ペイント明治記念館
(旧・油ワニス工場)
竣工 1909(明治42)年
煉瓦造(日本最古の油ワニス工場)
国指定重要文化財
東京都品川区南品川4丁目1番15号 日本ペイント東京事業所

 日本ペイント株式会社は、1881(明治14)年に、東京・芝三田四国町(現在の東京都港区芝3丁目3番地)で「光明社」として創業しました。1896(明治29)年に、現在地に移転してきました。この目黒川沿いの一帯には、その後に工場が建ち並び、工場群を形成するようになりました。光明社の移転は、その第1号となります。1898(明治31)年、日本ペイント製造株式会社に改組し、明治40年頃から、東京・大阪の両工場で工場の拡張を行い、近代化と生産力の増強をはかります。この建物は、その当時の工場の1つであり、1909(明治42)年に竣工した日本最古の煉瓦建・油ワニス工場です。品川区内の洋式建物としても、最も古いものになります。1981(昭和56)年、日本ペイント株式会社・創業百周年を記念し、「明治記念館」と命名され保存されることになりました。

明治記念館のおもな展示品

ボイル油製造設備
 1973(昭和48)年頃までボイル油の製造に使用されていた設備。1日の生産能力は約4トン。加熱源は時代と共に、石炭→ガス・重油→スチームへと移り変わってきた。しかしボイル油の製造の基本的な原理は同じで現在も製造は行われています。

  ボイル油は、植物油(乾燥油、半乾燥油)を加熱して、金属化合物(ドライヤー)を加えたものです。植物油を加熱することによって酸化させ、乾燥する油にします。これに金属化合物(ドライヤー)を加えて、より乾燥する性質を増加させます。このようにして製造されたボイル油は、樹脂(塗膜をつくるはたらき)と、溶剤(塗料を薄めて塗装しやすくするはたらき)を合わせ持った同時にする便利なものです。ボイル油は、塗料の製造や塗装に不可欠なものでしたが、現在は、樹脂と溶剤にそれぞれ機能が分けられており、ボイル油の使用量は年々減少してしています。

コロイドミル(分散機)
 顔料ペーストの分散を行う機械で、1957(昭和32)年製造され、日本ペイントで1980(昭和55)年まで使用されていたものです。1951(昭和26)年に米国「モアハウス」から輸入した分散機「スピードラインミル」を国産化したもので、顔料ペーストの分散を、高速回転する上下の石の約0.1mm程のすき間で行うものです。1時間あたり2トンの顔料ペーストの分散が可能です。

石材ロールミル(分散機)
 国産の分散機で、1921(大正10)年に製作されたものです。製造当初は特殊な雲磐が使われていましたが、その後スチール化されて、1972(昭和47)年まで約50年間使用された機械です。重いロールの間を顔料ペーストが通り、分散が均一に行われるようになっています。1台の原動機から動力が伝えられ、数台の機械を駆動させていたため、機械の左側に大きなプーリーが装備されています。
 石材ロールミルは、1903(明治36)年に英国より輸入されるようになり、大正初期から国産化されるようになりました。

光明社時代の亜鉛華製造の壷
 光明社の初期に使用した壷を日本ペイント創業100周年に記念として美濃焼の壷として再現したもの。当時は常滑焼きなどの壷が使用されていました。

水簸鉢(すいひばち)
 光明社創業当時に鉛丹製造作業に使用した鉢。比重の違いから、水中に入れると細かい粉は浮き、粗い粉は沈むという性質を利用したもので、火床(ひどこ、かまど)にこぼれた金属鉛と石炭殻を分離するのに使っていたものです。

おもなパネル展示
商標・看板・内国勧業博覧会関係・カタログ

「光明社」「日本ペイント」の歴史

明治時代の塗料の製造工程
「原料検査」、「予備混合」、「鍬練り(予備混合)」、「分散」、「溶解」、「調色」、「濾過・充填」、「製缶作業」、「製品検査」の各工程について解説

明治時代の塗料の原料
顔料・・・「着色顔料」「防錆顔料」「体質顔料」について解説

亜鉛華の製法

塗料なんでも事始め
大事件!日本初のペンキの落書  1854年(安政元年)ペリーが神奈川沖に再来したとき・・・
日本初の洋塗装  1859年(安政6年)渋職・町田辰五郎が米艦アンダリア号より・・・・
日本初の塗装工場オープン  1866年(慶応2年)横須賀造船所建設に当たって・・・・塗師所開設
日本初の塗装工員養成所  1869年(明治2年) 横須賀造船所に塗粧職工教育学校設立・・・・
新聞に初めて「ペンキ」という語が載る  1871年(明治4年)横浜毎日新聞に・・・・
国産1号ペンキの製造に成功  1880年(明治13年) 日本ペイントの創業者・藤田重次郎・・・・

塗料そのむかし
塗料は土地より高かった!?
Made in Japan!
塗装屋さんは船の上
ハイカラ塗装職人
木目塗り
ハイカラ職人のスラング(一般化したもの)
  カブル・・・湿度が高いとき、ワニス塗りの塗膜が白化すること。
  ワラウ・・・上塗りと下塗りのなじみが悪く、付着しない場所ができること。
  ナク・・・下塗り色が上塗りににじみでること。
  ヤケル・・・乾燥後、塗膜が黄変すること。
  モドル・・・塗膜が乾燥後、再びべたつくこと。          


国産ペイントのあゆみ

 1878(明治11)年、茂木春太・重次郎兄弟は、日本で初めて乾溜法による亜鉛華の製造に成功しました。1880(明治13)年には、亜麻仁油(あまにゆ)を用いた固練ペイント(かたねりペイント)を試作、これを翌年の第2回勧業博覧会に出品して褒賞を受賞します。当時海軍では、輸入の艦船用塗具(溶解ペイント)の国産化を試みていましたが成功には至りませんでした。当時、ペンキは全て輸入品であり大変高価(1缶12.7kgが約3円、品川の土地1坪が2円)でした。茂木兄弟の固練ペイント製造技術を中心とした塗具の製造を計画し、茂木重次郎と田川謙三(製油)、橘清太郎(光明丹製造)は共同組合を組織し、1881(明治14)年10月に東京の三田四国町に「光明社」を設立しました。約300坪の敷地と三棟の建物にはじまる「光明社」の創業によって、日本の塗料工業の歴史がスタートします。


1874(明治7)年 開成学校(現在の東京大学の前身)に製作学教場が開校(日本初の技術および化学の専門学校)。のち「光明社」の創業者となる、茂木兄弟の兄・茂木春太が、招かれて同校に勤務し、日本で初めての中等教育用の化学教科書「羅斯珂氏(ロスコシ)化学」を翻訳・出版した。また、弟・茂木重次郎も同教場に学ぶ。
 (明治初期には、化学工業の生産に必要な原料は、量・質、種類などについて全ての面で不足する状況であった。たとえば、明治維新にともなう紙幣や貨幣の生産のために、大蔵省に印刷局や造幣局が設置されたが、製造のためには、硫酸、ソーダなどの基礎原料から生産する必要に迫られた。ここで例として示した貨幣の生産とその基礎原料としての硫酸の関係について、もう少し詳しく述べると、鉱石から金・銀・銅を分離するためには、金は溶かさないが銀・銅を溶解する性質をもった硝酸を使う。しかし、硝酸は高価であるため、硝酸より安価な硫酸を用い、硫酸と硝石を反応させて硝酸をつくり出す方法がとられた。そのため金属工業にとって硫酸は不可欠な原料であった。
 こうした状況があり、技術者や化学者を多数必要としていた。開成学校製作学教場はこうした要求に応じて設置された学校である。)
1879(明治12)年3月 亜鉛華製造免許「製薬免許」取得 「製薬免許」は輸入品と同等の品質を示す
1880(明治13)年 茂木重次郎(もてきじゅうじろう)が洋式塗料「ペンキ(油顔色)」の国産化に成功
1881(明治14)年 光明社誕生 日本の塗料工業(化学工業)がスタート 海軍の専属塗料工場となる
             第2回内国勧業博覧会(東京)に出品し褒賞を受賞(ペンキ・亜麻仁油他3品)
             ペンキの存在と国産化が知られるようになり、学校建築や商店の看板に使われはじめる。
1890(明治23)年 第3回内国勧業博覧会(東京) 光明社、ワニスを出品し、3等賞を受賞
1893(明治26)年 合資会社光明社に改組
1895(明治28)年10月 光明合資会社に改組(資本金6万円)
             第4回内国勧業博覧会(京都) 光明社、ワニスを出品し、3等賞を受賞
1896(明治29)年3月 目黒川と品川用水の海運の便を考慮し、東京市外の南品川に工場を新築し移転(現東京工場敷地)
1897(明治30)年8月 特許2842号「亜鉛華精製法」を取得、99.76%亜鉛華製造(当時、世界最高の純度)
               1日平均50〜60貫目生産。
1898(明治31)年 日本ペイント製造株式会社設立
             当時の東京工場
                   敷地面積:約3395坪(約11.203平方メートル)
                   総建坪:約526坪(約1855平方メートル)
                   建物数:19棟
                   購入代価:約6981円(1坪3,3平方メートルあたり約2円)
1903(明治36)年7月 第5回内国勧業博覧会(大阪)に塗料・塗料用顔料を出品し、1等賞受賞
1905(明治38)年8月 大阪市外鷲洲村で大阪分工場操業開始(現在の大阪工場)
1908(明治41)年6月 鉄道橋梁の塗り替えをはじめとする塗装の要望に応えて、日本ペイント塗工部設置
                 正しい塗装技術が普及していなかった当時、鉄材の防錆という塗料本来の機能が充分
                 認識されていませんでした。日本ペイント塗工部は東海道線第1、第2木曽川鉄橋を
                 はじめとした橋梁の塗装を請け負い、関東、関西、北陸、奥羽、北海道や台湾、朝鮮
                 にまで派遣されました。最盛期には約800人の塗装工が従事し、大正3年〜昭和3年
                 当時には、「見習工」1日50銭、「一人前」1日70銭、「世話役」1日1円でした。これは
                 当時、米一升(1.4kg)15銭であったことから換算すると、1ヶ月分の米代が約3日分
                 の賃金でまかなえるほどの高給であったことを示しています。
                 比較のため、当時の「土工」の賃金は1日35銭でした。
1909(明治42)年 東京工場の全面的な改修が行われる。
             生産能力が3倍となり、「油、ワニス焚工場」(現在の「明治記念館」)が建設される。
1910(明治43)年 多摩川の氾濫による大水害で工場が冠水し大被害を受ける
1911(明治44)年 茂木重次郎、「亜鉛華精製法」「塗料用鉛丹の開発」「調合ペイント濾過器の研究」
             「輸出振興」等により緑綬褒章を受賞
1912(明治45)年 東京工場の全面的な改修が行われる。
             この改修で、動力の電化と、トロッコ用軌道建設による運搬の合理化がはかられた。
             この頃、国内で塗料会社の設立が相次ぐ             
1913(大正2)年  大阪地区特約店会として「大黒会」が発足
1914(大正3)年  国内市場だけでなくアジア方面へ市場を拡大
1920(大正9)年11月 経営の本拠地をを京都に移転
1924(大正10)年10月 国有鉄道50周年祝典で表彰
             小畑源之助専務(当時)の方針で東京地区特約店会である「恵美須会」発足
1923(大正12)年9月 関東大震災、東京工場は被害をまぬがれる
               震災による火傷用の医薬品として亜鉛華を無償で被災者に配布
1924(大正13)年 大阪事務所新築(旧事務所)
1925(大正14)年 東京事務所新築(旧事務所)
             ペンキ缶に初めて日本語で「日本ペイント」と表示するようになる。
             (外国のものが何でもすぐれていると思われていた時代に高級イメージを高めるために、
             それまでは、ペンキ缶の側面には社名を「NIPPON PAINT CO.LTD」と英字
             表記をしていた。)


「明治記念館」のある「日本ペイント株式会社東京事業所」


日本ペイント・歴史館(大阪市北区大淀北2−1−2 日本ペイント・本社ビル1階)


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 京浜急行「新馬場」駅で下車、「日本ペイント・明治記念館」へ行く途中、煉瓦造の塀を見かけました。天龍禅寺というお寺の塀です。明治〜大正時代に、この近辺にあった工場群(煉瓦造)と関連があるのでしょうか?ご存じの方はお知らせ下さい!