旧中島飛行機本館

所在地:群馬県太田市東本町10−1
所有者:富士重工業株式会社
年代:1934(昭和9)年竣工
形式:鉄筋コンクリート三階建
設計:
施工:

見学日:2000年1月30日

 中島飛行機は群馬県尾島町出身の中島知久平によって大正初めに設立された航空機メーカーです。
 中島知久平は、明治17年1月11日に、群馬県尾島町押切に生まれました。独学で専検(旧制中学校卒業検定試験)に合格し、海軍機関学校、海軍大学で学びました。
 海軍の技術将校であった中島知久平は、大正5年に退役し、出身地である群馬県尾島町に「中島飛行機研究所」を設立しました。「中島飛行機研究所」は後に日本で最初の民間航空機会社「中島飛行機製作所」に発展し、のちの「富士重工業」「三菱電機」「三洋電機」の基盤にもなります。
 昭和初期の軍備拡張の中で、航空機産業の立地条件として必要な広大な平坦地が確保できる太田市に、昭和9年、75000坪の敷地を確保し、大規模な航空機の組立工場十数棟を建設しました。
ここで、九七式戦闘機、一式戦闘機(隼)、四式戦闘機(疾風)などの陸軍航空機を生産していました。
 太平洋戦争中には、米軍の爆撃目標となり、1945年2月にはB29による3回の空襲を受けて工場の85%が破壊されました。この時に工場の内部は壊滅的に損傷を受けましたが、本館や工場外壁、工場の航空機用大扉は戦災をまぬがれ現在も使われています。旧中島飛行機本館は上空から見ると飛行機の形になっています。この本館の後ろに富士重工・群馬製作所の工場があります。
 戦後、中島飛行機のエンジニアたちは富士重工、プリンス自動車(現在の日産自動車および日産の航空宇宙部門)、本田技研工業などに移り、自動車・航空機・ロケットなどの設計・開発を行いました。
 富士重工が戦後最初に手掛けた「ラビット・スクーター」は、太平洋戦争で壊滅的な破壊を受けた中島飛行機の工場から、工作機械と材料を富士重工・伊勢崎工場に移し、かつて中島飛行機で生産していた重爆撃機の尾翼を試作に使って開発されたものです。国民車構想を受けて登場した「スバル360」や、先進的な技術をふんだんに採用した「スバル1000」などは、かつて中島飛行機で航空機の設計をしていた技術者(百瀬晋六氏、小口芳門氏ら)が、航空機設計技術を基礎としてつくりあげたものです。
 本田技研の創業者である本田宗一郎氏が、ホンダの基礎をともに築いた藤澤武夫氏と出会ったのも、切削工具を製造する「日本機工」を設立した藤澤氏が旋盤のバイトを中島飛行機に納入しており、また本田宗一郎氏が当時経営していた「東海精機」のピストンリングも中島飛行機に納入されており、当時この二人を知っていた中島飛行機の竹島博氏(のち通産省へ移る)の紹介であったとうエピソードがあります。(井出耕也「ホンダ伝」ワック出版部 1999.5.)

<参考>
「飛行機王 中島知久平伝 〜はばたけ、夢、大空に・・・」(ビデオ VHS 16分)
   企画:群馬県尾島町 製作:株式会社TCJ

編集後記

旧中島飛行機本館のある富士重工・群馬製作所の正門前に「伊勢屋」というお菓子屋さんがあります。何と、そこには「THE スバル」という瓦せんべい(風味?)が販売されています。お菓子の名前だけではありません。中を見てこれまたびっくり!瓦せんべいが初代レガシィ(VZ?)ではありませんか。そしてパンフレット付き。1954年2月に発表されたスバルP1からはじまる(ラビットも掲載してほしいな)歴代のスバル車が紹介されています。富士重工の方の中には出張の手みやげにこれを持っていくこともあるそうです。もちろんスバル車ファン(スバリスト)の方々には、かなり有名な一品だそうです。
 現在富士重工・群馬製作所のある太田市東本町では、町名を「スバル町」にしようという動きが地元の人たちの間で起きているそうです。

THE スバル(^^) 歴代スバル車が紹介されています!

「技術のわくわく探検記」メニューへ戻ります。

ホームページへ戻ります。