産業技術遺産探訪 2012.10.6.
きゅう みなか ぶんこう こうしゃ
旧 三中分校校舎(本棟)
きゅう さんよ がっこう こうしゃ
旧 三餘学校 校舎
「三餘(さんよ)学校」(明治15年)
「三中(みなか)尋常小学校」(明治20年)、「西五百川(にしいもがわ)尋常小学校分校」(明治25年)
「朝日町立西五百川小学校 三中分校」(1995(平成7)年閉校)
1882(明治15)年竣工 木造三階建 朝日町指定文化財
棟梁:佐竹文吉、伊藤徳太郎、白田兵吉
旧 三中(みなか)分校校舎(本棟) 朝日町指定文化財(平成9年2月25日指定) この校舎は、木造総二階造りの上部に桁行(けたゆき)・梁間(はりま)などの規模面積をやや縮小した三階部を載せた形式である。切石積みの基礎石に直接柱を立てており、壁は和風の土蔵造りで、内外ともに漆喰(しっくい)仕上げの白壁建築である。 明治15年(1882)に三中(みなか)学校として建てられ、当時としては稀にみる白亜の三階建校舎であった。和風様式を基にしながらも、三階部の丸窓など西洋建築への指向もうかがえる建造物である。 新校舎落成とともに校名を三餘(さんよ)学校と改称し、明治20年には三中(みなか)尋常(じんじょう)小学校、明治25年に西五百川(にしいもがわ)尋常小学校の分校になっており、平成7年(1995)本校に統合し閉校している。 二階天井の張替えや木羽葺(こばぶき)の屋根をトタンに葺き替えたりしているが、基本的に旧形状がよく保存されている。明治時代初期に建築された三階建ての建物で現存するものは大変珍しく、また佐竹文吉、伊藤徳太郎、白田兵吉3名の地元棟梁(とうりょう)により手掛けられ、当時の新しい建築に対処した技量が知られる作例として貴重な学校建築遺構である。 「三餘(さんよ)学校」について この出典は中国・魏の古書「魏略書」にあると言われている。 「日餘夜 時餘雨也 而年餘冬也」 (日の余りは夜にして 時の余りは雨なり 而して年の余りは冬なり) 若者は、農作業ができない夜・雨・冬の3つの「餘(余)り」を活用してこそ、修養・研鑽に精進せよ、との教訓にとらえることができる。 朝日町教育委員会 |
「木羽葺(こばぶき)」が一部残っています。
町を見下ろす高台にあり、校庭には大ケヤキがあります。
1975(昭和50)年の西五百川小学校三中分校創立百周年記念碑には、
この学校から約1000人の卒業生を送り出したことが記されています。
※1875(明治8)年 八ツ沼学校 設立