産業技術遺産探訪 2012.8.21.
おとなしいろ じゅうにごう ぶんすい
音無井路十二号分水(円形分水)
1934(昭和9)年竣工
約2kmの井路を通ってきた水が、サイフォンの原理によって円形水槽の中央から湧き出しています。円形水槽には20の分水窓が設けられていて、3つの幹線水路に決められた割合に分けられて流れ出るようになっています。
円形分水の歴史 1693年(元禄6年) 井路開削計画、1715年着手したが通水に至らず諸般の事情で中止。 1892年(明治25年) 現在の円形分水まで通水。 1934年(昭和9年) 円形分水(12号分水)竣工 1984年(昭和59年) 土地改良施設維持管理適正化事業により原形通り改修 [技術的特徴] 円形分水 [文化的特徴] イベント等 水神祭(毎年4月10日)頃 伝説 頭首工から円形分水に至約2000mの暗渠に12カ所の窓(ズリ出しの跡)があることから、12号分水と言う。 円形分水のできるまでは、3線の幹線水路に導入される水の分配で、互いに反目し合い、組合員が騒動を起し、連日のように水争いが繰り返された。このようなことから円形分水が施行され、適正な分配ができるようになった。 円形分水は知恵の結晶とも言える。 水利慣行 毎年、4月に通水を止め用水路の清掃及び年2回の草切りを行う。 水は農家の魂なり 音無井路土地改良区 |
1693(元禄6)年
緩やかな傾斜地の頂上部にある百木集落に水田耕作を可能にするため水を引く計画が発案
1715(正徳5)年
開削が始まったが、急峻な山地に隧道を掘ることや、豪雨による災害のため失敗、工事責任者である岡藩の家臣、須賀勘助は引責切腹
1876(明治9)年、岡藩士の井上藤蔵と豊後直入郡宮砥村の熊谷桃三郎は計画を再考して開削を再開した。
しかし、工事は難航し井上藤蔵は破産してこの地を追われた。
その後、熊谷桃三郎と地元民によって明治期に導水路が完成したが、3つの幹線水路への水の配分を巡って争いが繰り返される。
これを解決するため、水量の変化によっても、配分の割合が一定となる円形分水が昭和6年に設置された。
記念碑 | ||