産業技術遺産探訪 2006.12.24./12.27.

吉田芝渓

吉田芝渓(よしだしけい) 1750(延享5)年〜1811(文化8)年

吉田芝渓・翠屏の墓
(芝渓の墓は群馬県指定史跡

群馬県渋川市渋川(御蔭)

 吉田芝渓は「養蚕須知(ようさんしゅち)」(1794(寛政6)年)、「開荒須知」(1795(寛政7)年)、「救荒須知」の著者で、養蚕を奨励するために、漢字仮名まじりの養蚕書を著しました。「渋川郷学の祖」とも言われています。

吉田芝渓の門弟 木暮足翁によって建立されました。
吉田芝渓の墓
一、名称
群馬県指定史跡「吉田芝渓の墓」
二、指定年月日
昭和二十六年六月十九日
三、所在地
群馬県渋川市(御蔭)三六八八・三七二三番地
四、指定理由
群馬県文化財保護条例第三十八条の規定による。
指定等の基準第六の一の一による。
五、文化財の概要
吉田芝渓は、宝暦二年(一七五二)に中ノ町で農業のかたわら糸繭商(いとまいしょう)を営む吉田甚兵衛の長男に生まれ、名を友直といった。弟翠屏(すいへい)と共に北牧村の山崎石燕(せきえん)に学び、のち江戸に出て昌平 (しょうへいこう)の聴講生となり、天明五年(一七八五)には渋川村に来遊した平沢旭山(きょくざん)に師事した。寛政五年(一七九三)には弟の翠屏や小作人と共に芝中の地へ移住、五町歩余を開拓、この間に木暮足翁をはじめ多くの子弟を教育し、芝中の先生と呼ばれた。芝渓の実学の学風は足翁・蘭斎・藍園と受け継がれた。「養蚕須知」(ようさんすち)等があり、文化八年(一八一一)六〇歳で没した。墓は二ヶ所で東150メートルにもある。

昭和六十三年三月三十一日
群馬県教育委員会
渋川市教育委員会


吉田芝渓の弟 翠屏(すいへい)の墓


吉田芝渓の墓は3か所あると言われています。上記の墓の東側約150mに下記の墓があります。
さらに現在の渋川市元町にもある(吉田芝渓の子孫によって建立されたもの)と言われています。


吉田芝渓の墓
群馬県指定史跡
群馬県渋川市渋川

 ここの墓地は、20年ほど前までは、数多くの墓石が環状に配置されていたそうです。道祖神などの盗難が相次いだ時期に、ここの墓石も数多く持ち去られてしばらくは荒廃していましたが、その後地元の人たちによって整備されたそうです。              


 渋川市元町にあると言われている「吉田芝渓の墓」の所在地は現在確認されていません。付近には林徳寺の墓地の他にも数カ所墓地が点在しています。その中には吉田芝渓の没年(文化八年)に近いものもいくつか確認することができます。

渋川市元町にある墓地の一つでは、
文化年間の墓石を見ることができます。

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