産業技術遺産探訪 2006.12.24.

中居重兵衛
中居重兵衛の墓群馬県指定史跡
中居重兵衛之碑
中居屋重兵衛の生家跡(顕彰碑)

群馬県吾妻郡嬬恋村

横浜開港後に生糸輸出の先駆となった商人
中居重兵衛(中居屋重兵衛) 本名:黒岩撰之助 幼名:武之助 1820(文政3)年〜1861(文久元)年
著書に「処世訓子供教草(しょせいくんこどもおしえぐさ)」・・・商人の心得
「集要砲薬新書」(安政2年)、「火薬集要」(安政5年)・・・強力な火薬製造法

中居重兵衛の墓群馬県指定史跡
群馬県指定史跡
中居重兵衛の墓(附関係文書)

(指定)昭和三十一年六月二十日
(所在地)群馬県吾妻郡嬬恋村三原二六〇番地

 中居重兵衛は文政三年(一八二〇年)中居村現在の嬬恋村三原)に生まれ、通称を撰之助といった。
 二十歳のとき江戸に上り、書店和泉屋に身を寄せ、国学・儒学・医学・洋学・科学・砲術・剣術など文武の道に励み、外国に勝るとも劣らない火薬作りに成功した。
 安政元年(一八五四年)は日本橋に店舗を構え、「子供教草」を出版した。書中で「利をもって利となさず、義をもって利となす」と説き、これを生涯の生き様とした。
 安政六年開港の年、横浜一の豪華な店舗を築いて進出し、特に生糸は全輸出の半数を一手に扱い、著しく貿易を発展させた。また「桜田門外の変」で使われた短銃は重兵衛が提供したといわれている。その翌年の文久元年(一八六一年)、重兵衛は四十二歳の若さで謎の死を遂げた。
 著書に「子供教草」「集要砲薬新書」等があり、関係文書その他の資料は、生家中居屋に保管されている。
 雨と風 ふたつにわかる 柳かな    梅遅(俳号)

 平成八年十二月
           群馬県教育委員会
           嬬恋村教育委員会

中居重兵衛之碑
    建碑由来
横浜開港の功労者中居屋重兵衛は本名黒岩撰之助と称す 文政三年三月この地中居村の名主幸右衛門の子として生まれ若くして家督を継ぎ精励刻苦せるも一朝期する処あり二十歳の夏出奔し江戸の書肆和泉屋に寄食し砲術は佐久間象山に剣は斎藤弥九郎に蘭学医学は川本幸民に学ぶと言う 彼は時代を予見し尊王開国論を主張し国防のため強力火薬を発明し安政二年に集要砲薬新書の著ありまた処世訓子供教草の自筆木版の書を世に頒布し更に安政五年には火薬集要を著わせりその威力を知りし諸藩は黒船渡来時競って彼の火薬をもとむ 幕府は安政五年米英などと通商条約を結び神奈川を避け横浜村に新港を築造し開港を安政六年六月二日に決す諸藩に貿易を許すや会津上田紀伊の三藩を始め各地の荷主いずれも中居屋重兵衛の手を経て交易に乗出せり 幸い中居屋は岩瀬肥後守ら要路と親交あり逸早く横浜に銅御殿とよばれたる間口三十間の豪壮なる店舗を築造し生糸輸出の先駆者となり横浜繁栄の基を開けり 常に義を以て利と為すを信条とし得たる巨万の財を駆使しての倒幕運動支援者たりしことを幕府に探知され逮捕寸前に小舟にて脱出房州を経て江戸に潜伏中文久元年八月二日悲運の死を遂ぐ時に四十二歳の壮年なりき 横浜市にては開港九十年祭の日本貿易博覧会と開港百年祭に顕彰状感謝状を贈られまた大日本蚕糸会が第一種功績章を追贈されしも故なしとせず嗚呼中居屋重兵衛幕末に彗星の如く現われながら明治の夜明けを待たずして逝く洵に痛恨の極みなり かって徳富蘇峰氏中居屋重兵衛の人と業績につき東京大阪両毎日新聞に一文を発表さる今その一節を掲げて彼の偉大さを後世に伝える上毛は古より飛び抜けたる人物の産地である新田義貞はいふまでもなく皇政維新の先駆者高山正之の如き近くは精神日本の首唱者新島襄先生の如き何れも上毛人である其中に於てさらに毛色の変りたる一人に中居重兵衛其人がある

  昭和五十五年十一月建立

                   撰文 萩原進
                   揮毫 酒井大岳
              
中居屋重兵衛の生家跡(顕彰碑)

土屋文明句碑
朝日さす家に目ざめぬ
  世に先んじ
中居屋重兵衛
  生まれしその家
            文明


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