産業技術遺産探訪 2006.12.24./12.27.

馬場重久

馬場重久の墓(群馬県指定史跡
馬場重久顕彰碑

群馬県北群馬郡吉岡町(旧 明治村)

馬場重久(三太夫) 1663(寛文3)年〜1735(享保20)年
「蚕養育手鑑」(1712(正徳2)年)の著者、馬場鍬の考案

馬場重久の墓群馬県指定史跡

長山智遠居士
   県指定史跡

   馬場重久の墓

     指定 昭和二十七年十一月十一日
     所在地 北群馬郡吉岡村北下三二九番地の一

 養蚕は江戸時代から、上州における重要な産業の一つであった。馬場重久は寛文三年(一六六三)現在の吉岡村北下に生まれた。
三太夫と称し、医を業としながら、貧農の救済に努力した。
正徳二年(一七一二)に「蚕養育手鑑」を著して農民を指導するとともに馬場鍬「くわ」を考案して不朽させるなど、農業の改善をはかり農業発展につくした。
 蚕養育手鑑は十一カ条あり、蚕の飼育方法を説くほか、蚕種(さんしゅ)貯蔵、蚕具等を教えており、古いしきたりに頼っていた初期の養蚕業に大きな発展をもたらした。

     昭和五十六年二月

                     群馬県教育委員会
                     吉岡村教育委員会
顕彰碑 (1958(昭和33)年  吉岡町南下 諏訪神社)
顕彰碑

馬場三太夫重久翁顕彰碑    群馬縣知事竹越俊蔵篆額
衆に先んじて事にあたり恩恵を千載に及ぼす業績を残すことは独り先覚の士のみがよくする
ところであるわれらが郷土の先輩馬場三太夫重久翁こそは実に時代の先覚者として輝かしい
事績を残した人というべきである翁は甲陽の智将馬場美濃守信房の子孫で医を業としたが常
に農民の福祉を念とし若年の頃より蚕の飼育について実験研究を重ねること三十余年ついに
合理的な飼育方法を会得して蚕養育手鑑を著をし正徳二年江戸の書肆より出版して広く同志
に頒布した説きに翁は五十才であったこれは養蚕書中の古典としてわが國第二のものであり養
蚕技術の進歩向上に役立ちしところ多く昭和九年今上陛下本縣に行幸のみぎりには天覧を賜
わるの光栄に浴した翁はまた農事の改良に心を致し当時早くも後世の稲作品評会の方式をも
つて稲穂の優劣等級づけを行いあるいは手鍬に改良を加え世にいう馬場鍬を考案して耕作に
便ならしめるなどこの道の発展に寄与するところ多く享保二十年七十三才を以て世を去るま
で郷党を指導して倦むことがなかつたこれらの故を以て北下山下地先にある翁のささやかな
墓碑は昭和二十七年吉岡村唯一の史跡として群馬縣の文化財保護顕彰規定にもとずく指定を
うけたたまたま翁の偉業景仰する北下区民こぞつて翁の顕彰会を結成し広く同志の賛同
を得てここに顕彰の碑を建立しその功績を万世に傳えんとするに際し請われて建碑の由来を
撰する次第である

昭和三十三年文化の日     群馬縣蚕業試験場長日高八十七撰
                                  森田精一書

              


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