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通信ネットワークはいかに進化してきたか〜電気通信の技術史

より遠く、より速く

 情報や知識を伝達し、共有しあうことを「コミュニケーション」といいます。わたしたち人間の社会は、コミュニケーションによって成り立っています。
 人間にとって最初のコミュニケーションの手段は、身ぶりや手ぶり、そして言葉によるものでした。やがて人間は文字を考案します。文字は粘土板や骨に刻まれたり、動物の皮(羊皮紙)、パピルス、木片などに書かれたりしましたが、紙の発明によって、より簡単に情報を記録することができるようになりました。しかし、たくさんの人たちに情報を伝えようとした場合、手書きは時間的・量的に膨大な労力を必要とします。そうした限界を克服する技術として「印刷」という記録手段が生み出されました。はじめは印刷するものをそのまま木版などを使って印刷をしていましたが、やがて活字を用いた印刷が発明されました。15世紀の中ごろにドイツのグーテンベルグ(Johann Gutenberg,1400?-1468)によって活版印刷が発明され、社会に大きな変革をもたらしました。それまでは非常に高価であり、また入手しにくかった写本に代わって、多くの人たちに書物が行き渡るようになり、知識や情報が広く伝達され共有しあえることができるようになりました。

 相手が目の前ではなく、離れた場所にいる場合には、自分で直接会いに行くか、代わりの人を伝令として使いに出したり、伝書鳩などが使われたりしました。また、トーキングドラムなどのように太鼓の音によって情報を伝えたり、狼煙(のろし)や烽火(ほうか)、ほら貝、鐘、号砲、手旗信号などを使うといった方法がとられました。
 このように伝えたい内容を音や符号に変える工夫が、「通信」という技術のはじまりとなったわけです。

 社会の規模が大きくなればなるほど、たくさんの情報を伝える必要性が高まってきます。
 何とか遠くの人と情報交換をしたいという願いは、その時代その時代で工夫され、その結果、「より遠くへ、より速く、よりたくさんの情報を確実に」という情報通信手段の発展が促されてきました。

 1791年には、シャップ(C.Chappe,1763-1805 フランス)が腕木式通信機(テレグラム)を考案しました。腕木式通信機は、はじめはおもに軍事用に独占されていましたが、ナポレオン遠征以後に、この腕木式通信機による通信網がスウェーデン(1795年)、ドイツ(1798年)、デンマーク(1802年)などに拡大して、各国の産業革命に影響を与えました。1840年代以降には商業的に使われるようになりました。

電気による通信の時代へ〜それは電信からはじまった

 18世紀の中ごろになると摩擦電気を利用した通信の研究がはじまりました。摩擦起電機の発明で、電線によって遠方に信号を送るためのさまざまな試みが行われています。
 1800年、ヴォルタ(Alessandro Giuseppe Antonio Anastasio Volta,1745-1827 イタリア)によって電堆(電池)が発明されると、安定した電源が得られるようになったことから電気通信の研究に大きく拍車がかかりました。
 18世紀から19世紀にかけて、イギリスをはじめとする欧米諸国では、産業革命が起こりました。機械、電気、化学などの技術が発展し、ものづくりのための製造技術が飛躍的に進歩して、社会や経済に大きな変化が引き起こされました。
 産業革命の進行とともに、1830年代以降に建設ラッシュが続いたイギリスの鉄道や、北アメリカの西部開拓には通信技術が不可欠な要素となりました。鉄道では列車の運行状況を把握する必要があったため、電信の急速な発達を促すことになったわけです。
 また、19世紀半ば以降に著しく発達した電気技術は、それ以降の通信技術に大きな影響を与えました。
 1830年 ヘンリー(Joseph Henry,1797-1878 米国)が自己誘導・電磁誘導作用を発見し(電磁誘導の発見は1832年に発表したため、1831年にマイケル・ファラデーが発見したこととされています。)、1831年には電磁式電信機を発明しています。この他にも1832年にシリング(P.von Canstadt Schilling,1786-1837 ロシア)、1833年にガウス(Carl Fredrich Gauss,1777-1855 ドイツ)とW.E.ヴェーバー(Wilhelm Eduard Weber,1804-91 ドイツ)も電磁式電信機を発明し実験を行いました。
 1837年には、サミュエル・モールス(Samuel F.B.Morse,1791-1872 米国)が電磁式電信機である「モールス電信機」をつくり公開実験を行いました。さらに1837年には、アルフレッド・ヴェイルがモールス式電信機の受信装置を紙テープに印字する方式に改良して完成させ、電流による信号の伝達を行う有線通信をシステムとして実用的なものにしました。電信は、伝えたい文字を符号化(「−」「・」の2種類)し電気の信号に変えて送るもので、電線をつなぐことにより、離れた場所との情報のやりとりがより速く確実にできるようになり、情報通信技術は電気信号を用いたことによって飛躍的な発展をしました。また、19世紀中頃に電信設備事業が拡大し、電信の中継所も多数設置されたため「電信技師」という新しい職業も誕生しました。現在の通信システムの原型は電信によって形作られていたとも言えます。
 1846年、ヴェルナー・ジーメンスがグッタベルカの海底ケーブルを製作したことに始まり、1851年にはブレット兄弟が英仏海峡(ドーバー海峡)に海底ケーブル敷設しイギリス〜フランス間が結ばれます。1858年には大西洋横断海底ケーブルが敷設されています。こうして各国の国内回線や海底ケーブルが次々と敷設され、地球規模の電信による情報伝達時間が驚異的に短縮されていきました。
日本に電信機が初めて伝わったのは、1854(安政元)年、日米和親条約を結ぶために来日した米国使節(米国東インド艦隊司令長官)ペリーが徳川幕府に贈呈した「エンボッシング・モールス式電信機」でした。
 1869(明治2)年には東京〜横浜間で電報の取り扱い開始され、日本の電信事業が始まりました。ここではブレゲー指字電信機がフランスから輸入されて1871年まで使われました。東京の築地と横浜を電信で結んだ理由は、東京築地にある運上所(税関)と横浜にある裁判所の連絡のためで、当時は生糸の輸出や海外からの輸入品にかかわる関税上のトラブルに対処するため、2つの役所を電信で結ぶ必要性があったためでした。明治政府による電信事業は主に軍事上の目的から電信網を全国に拡大させていきました。1873(明治6)年には、電信機の国産化に成功し、また東京〜長崎間の電信回線が開通して、ヨーロッパまで接続されました。1906(明治39)年には太平洋横断海底ケーブルが敷設され、地球を1周する電信網が完成しました。なお、日本で郵便制度ができたのは1871(明治4)年で、電信より遅く、これは当時まだ飛脚などの通信手段が存続していたためと考えられます。また、通信・交通手段の発達と印刷・郵便制度の普及によって、17世紀に入ってから新聞が欧米各国に登場しました。電信技術は新聞報道にも速報性をもたらしました。

電信から電話へ

音は空気の振動によって伝わります。この空気の振動を電気の信号に変換することによって電線に伝え、再び空気の振動に戻すことによる音声の伝達を、電気通信の方法として実用化させようとする試みも行われました。
 1854年にブルサール(C.Bourseul ベルギー)が、音声によって動かすことができる振動板で電気回路を開閉し、受信側の電磁石によって振動板で音声を伝達する方法を考案しました。また、1861年にはライス(J.P.Reis 1834-74 ドイツ)がブルサールの考案を実験し、電話機を試作します。ライスによってfar-voiceを意味するギリシャ語telephonieが電話機を示す用語としてはじめて使われました。
1876(明治9)年、ベル(Alexander Graham Bell 1847-1922 イギリスのち米国に帰化)が電話機(液体送話機および電磁石式電話機)を発明し、人間の声が初めて電流に変換されて送られました。最初の言葉は「早く来てくれワトソン君!」という実験室にいたベルが隣の部屋にいる助手であったワトソンに向けて呼びかけたものでした。送信と受信の両方で電磁石と振動板をおき、音声を振動板と電磁石で電気信号に変換するという今日の電話機の原形が開発されたことになります。ベルが振動板を使って音声を電流に変えて伝える方法は、人工鼓膜の研究から発想したもので、多重通信の実験中に偶然に通信線で音声が送られたことによって電磁式電話機をつくり上げました。このころグレイ(Elisha Gray 1835-1901 米国)も実用的な電話機を発明しています。音声のような高周波の電流が電線によって伝えられるということは、当時の電気学者にとっては思いも寄らないことでした。最初の電話機の性能は感度が良くなかったり、電話線の電気信号が長距離まで届かなかったりしましたが、1877(明治10)年に、エジソンが炭素送話器を発明するなど、たくさんの人たちの改良によって電話機を使った音声による通信が実現しました。1876年、ベルはボストン〜ケンブリッジ間約3kmの通話実験に成功し、1877年にはベル電話公社が設立されました。
 電話が日本に初めて輸入されたのは1877(明治10)年で、このときに電話交換機が設置されました。1878(明治11)年には輸入したベル電話機を模した国産1号電話機が製作されましたが、性能があまり良くなく、実用的なものではありませんでした。
 1890(明治23)年には、東京と横浜の間に電話線が引かれ、東京155回線、横浜42回線が加入しました。ただし、これらの電話への加入とその使用料金は非常に高価であったため、ほとんどが役所や大きな会社が加入できるだけで、一般の人たちが使えるものではありませんでした。多くの人たちが日常的に使っていた通信手段は、安い料金の郵便や電報で、特に大都市では郵便の配達が頻繁に行われていたこともあって電話の普及はしばらくの間拡がりを見せませんでした。
当時、急ぎの連絡に使われることが多かった電報は、日本では1869(明治2)年に始まり、昭和の中ごろまで広く利用されていました。文字を電気信号に変換して電線で送り、電気信号を再び文字に置き換えて配達される電報は、手紙より速く配達され、文字としての記録も残ることから、電話にはない便利な一面が評価されていました。
 1900(明治33)年には、初の公衆電話ボックス「自働電話」が東京の新橋と上野停車場構内に初めて設置されました。(それまで一般の人たちのための公衆電話は、電信局や電話交換局の窓口に「電話所」として開設されていました。)1934(昭和9)年には、日本とフィリピンの間での国際電話が始まっています。この頃、日本では多くの機器や技術が輸入後ただちに自主製造技術として開発され、機器の国産化を次々と実現していきました。1943(昭和18)年には、全国の電話加入数が108万回線に達しましたが、太平洋戦争による空襲のために多くの通信施設が破壊され、終戦時の電話加入数は47万回線になっていました。
たくさんの電話回線を接続するための電話交換機は、交換手(オペレーター)が回線を接続する手動交換機ではじまり、自動電話交換機は1889年に米国のストロージャーが実用化し、大規模な回線接続処理が行えるように改良されて本格的に導入されていきました。自動電話交換機はその後、ステップ・バイ・ステップ式、クロスバ式などの機械式スイッチと電磁リレーを使ったものや電子式さらに蓄積プログラム制御方式などのアナログ交換機から、デジタル交換機(日本では1997年にすべてデジタル交換機へ移行しました)へと進化していきました。
 日本の電話事業は国によって始められましたが、1952(昭和27)年に公共企業体である日本電信電話公社に経営が移り、現在は民営化されています。現在の電話加入数は約6000万回線で、日本の人口の2人に1回線という割合になっています。

電波による無線通信とラジオ・テレビ放送

グリエルモ・マルコーニ(Guglielmo Marchese Marconi 1874-1937 イタリア)は、ヘルツ(Gustav Ludwig Hertz 1887-1975 ドイツ)が1888(明治21)年に行った電磁波の研究をきっかけとして、無線通信の研究を始めました。ヘルツの発振器と電波検知器であるコヒーラを使い1895(明治28)年に電線を使わない電波による通信、すなわち無線通信の実験に成功しました。そして1901(明治34)年には、3000kmの大西洋横断無線通信を成功させ、無線通信の有用性を示しました。マルコーニは「無線の父」と呼ばれており、電磁波を「情報を伝送する媒体」として初めて利用し発展させました。
無線通信を応用したラジオ放送については、1906(明治39)年に米国で世界初のラジオ実験放送が行われ、1920(大正9)年にはピッツバークにラジオ放送局が開局しています。このときには鉱石ラジオ受信機が使われました。ラジオを利用した放送の時代が幕を開けました。
 1907(明治40)年には、米国のデ・フォレストが三極真空管を発明し、急速に応用分野を広げ、さまざまな真空管が登場して、通信の分野も電子技術を応用する時代に入りました。
 日本でラジオ放送が始まったのは1925(大正14)年で、欧米諸国でのラジオ放送の開始と、1923(大正12)年に発生した関東大震災による災害時における情報の伝達手段の必要性がきっかけとなっています。1928(昭和3)年には全国中継網が完成しました。
1955(昭和30)年には、東京通信工業(現在のソニー)が世界初のトランジスタラジオ(TR55型)を実用化しました。小型・軽量なトランジスタラジオによって、ラジオ放送の利用も手軽さやパーソナル性のあるものに変わっていきました。

 音声だけでなく映像を送ろうとする取り組みも始まりました。1884(明治17)年に、ニプコウ(P.G.Nipkow ドイツ)が渦巻状に並ぶ穴のあいた走査円盤を被写体の前で回転させ、その明暗によって画像をとらえる機械的な走査方式のテレビカメラを発明しました。ジョン・ロジー・ベアード(J.L.Baird 1888-1946 イギリス)は、画像の伝送技術の研究を続ける中で、1925(大正14)年に機械式テレビジョンを使って静止画像伝送の実験を行い、翌年には動く画像の伝送実験に成功しました。1928(昭和3)年には、カラーテレビの実験にも成功しています。
1934年にウラジミール・ツヴォリキン(Vladimir Kosma Zworykin 1889-1982 ロシアのち米国に帰化)がテレビの機械的走査方式に対して電子式走査方式の研究を行う中からアイコノスコープ(蓄積型の撮像管でギリシャ語のeiken(像)+ skopin(見る)から造語)を発明し商品化しました。現在のテレビ技術の基礎を築いたのは、ツヴォリキンによる電子式テレビカメラの実用化によるものと言えます。1935(昭和10)年にはドイツでテレビ放送が開始されました。
日本でも、高柳健次郎(1899-1990)がフランスの雑誌に掲載されていたテレビジョンの記事に触発され、テレビジョンの研究を始めました。1926年にブラウン管を使って「イ」の文字を伝送することに成功しました。こうした研究が始まったにもかかわらず、太平洋戦争の影響で、日本で本格的なテレビ放送が開始されたのは戦後の1953(昭和28)年でした。一般家庭にテレビが普及したのは、それまで高価であったテレビ受像機が購入可能な価格になった昭和30年代に入ってからでした。

無線電話から携帯電話へ

 1914年に鳥潟右一、横山英太郎、北村政治郎が共同で、世界初の実用無線電話機(TYK無線電話機)を発明しました。
 1925年には八木秀次・宇田新太郎が指向性の強いアンテナ(八木アンテナ)を発明しています。このアンテナは現在、超短波の送受信、TV受信用として一般的に使われているもので、アンテナの基本原理を発見したことになりますが、当時国内では評価されず、欧米で研究が進められて太平洋戦争後に海外から日本へ技術が逆輸入されることとなりました。
 1928(昭和3)年には神戸および門司の加入者と船舶内電話との無線電話が開始されました。これが船舶無線電話のはじまりです。1953(昭和28)年には東京湾と大阪湾で通話が可能な船舶電話が登場し、1964(昭和39)年には、通話範囲が沿岸にも拡大されました。
 列車電話は1957(昭和32)年に近畿日本鉄道で始まり、1960(昭和35)年には国鉄(現在のJR)でも利用可能となりました。
 自動車電話は、1979(昭和54)年に東京23区内でサービスが始まりました。のちにショルダーホンとして車外へ持ち出せるようになります。1987(昭和62)年には、ショルダーホンが小型・軽量化された携帯電話が登場し、1995(平成7)年にはPHS(簡易型携帯電話)のサービスも始まりました。現在、めざましい普及を見せている携帯電話は、自動車電話から発展したものなのです。
 携帯電話の普及は、世界的な規模で進んでおり、特に通信料金の安いフィンランド、ノルウェー、アイスランド、スウェーデンなどの北欧の国々の普及率が高く、日本は14位(1999年)となっています。

アナログ通信からデジタル通信へ

1972(昭和47)年には紙に書かれた文字や画像を送ることができるファクシミリ通信が一般電話回線でもできるようになりました。
 電話による通信技術も、初めはダイヤル回線(パルス)だけでしたが、その後プッシュ回線(トーン)が広く利用されるようになり、通話以外にも数字情報を送ることができるため、列車の座席予約やチケット予約などさまざまなサービスに利用されています。
 そして、現在の電話回線はアナログから、通信速度が速く音声以外のデーターを大量に送ることができるデジタルへと移行しつつあります。

 1949年に米国オレゴン州アストリアとペンシルバニア州ランスフォードでケーブルテレビ(有線テレビジョン放送)が開始されました。テレビの販売に影響を与える難視聴対策として共同受信のインフラ整備がはじまり、その後、ケーブルTVは「モア・チャンネル(多チャンネル)」として発展し、1990年代の情報スーパーハイウェイ構想では双方向TVがマルチメディアの主役とまで言われるようになりました。
日本では、1955(昭和30)年にテレビの難視聴対策のためにケーブルTVが始まりました。1960年代終わり頃からケーブルTVによる自主放送や都市部でのビルなどによる受信障害を解消するために都市型ケーブルTVがはじまり、1980年になって20〜30チャンネルの多チャンネル時代に入りました。ケーブルTVの普及率は、現在の日本では、全家庭数の20%強ですが、米国では60〜80%と言われています。
また、1962(昭和37)年には米国で最初の通信衛星「テルスター1号」(AT&Tのベル電話研究所が開発した周回衛星)の打ち上げ、1965(昭和40)年には、初めての商業通信衛星「インテルサット1号」が打ち上げられました。
現在テレビ放送は、「地上放送」だけでなく、ケーブルテレビ(CATV)や放送衛星(BS)・通信衛星(CS)などの衛星放送が行われており、多チャンネル、マルチメディアの方向に進んでいます。このように電気通信技術の発達により、情報のありかたにも変化をもたらしました。それまで、情報は必要とする人に対してのみ伝えられるものでしたが、ラジオやテレビによる放送というメディアの登場によって、不特定多数の人が情報を受けたり、ケーブルテレビなどのように双方向性をもつ形態も新たに生まれました。そして放送というメディアが多くの人々に対して大きな影響力をもつことにもなりました。

コンピュータのネットワークとインターネット

 こうしたことは、コンピュータの登場によって、さらに大きなものへとなっています。
コンピュータの演算装置は、はじめは真空管でつくられていました(第1世代)。1948(昭和23)年に、真空管にくらべて小型で消費電力の少ないトランジスタが発明され、コンピュータの小型化と高性能化が進みました(第2世代)。1960年代にはIC(集積回路・1959年に発明)やさらに集積度が高いLSI(大規模集積回路)、VLSI(超LSI)と進化してきました(第4世代)。
 こうして小型化・高性能化の進行にともない、マイクロコンピュータ(マイコン)がさまざまな機器に組み込まれ機器の制御に使われるようになりました。
また、トランジスタや集積回路などの増幅作用をもつ電子部品の発明と、通信系路の改良によって通信範囲と通信能力の飛躍的な向上が実現していくことになりました。
 さらにパーソナルコンピュータも登場し情報処理や通信の分野に大きな変革がもたらされました。現在の通信ネットワークには、コンピュータが中核となって形成されています。1969年には、米国防総省高等研究計画局による「ARPAnet」の実験が開始され、現在のインターネットへ発展しました。コンピュータどうしをつなぐネットワークであるインターネットは情報化社会の新たな展開をもたらしています。
 通信技術の分野にコンピュータの技術が結びつき、海底ケーブル、通信衛星、光ファイバー(1970年に光ファイバー通信に適したガラス繊維が開発されました。光ファイバー通信のアイディアは19世紀にイギリスで考案されていました)などの地球にはりめぐらされた情報通信網は、一層拡大しつつあります。日本では1985(昭和60)年に日本縦貫(旭川〜鹿児島間3400km)「光ファイバーケーブル」伝送路が完成しています。
 現在、電話回線のシステムやインターネットに代表されるように、人間は世界中を張り巡らす網の目(クモの巣)のような情報通信ネットワークを作り上げてきました。そしてこれらはさまざまな技術を組み合わせた巨大なシステムによって支えられています。IT(情報技術)によるコミュニケーションは、時間や地理的な制約を越えたものとなりました。

ものづくりを支える情報通信ネットワーク

 ものづくりの世界においても、情報通信ネットワークを用いて、世界中の人々が知恵を出し合って製品をつくりあげています。技術開発におけるアイディアやノウハウなど、ものづくりに必要な知恵を探し出すことも、情報通信ネットワークを使うことによって驚くほど速く効率的にできるようになりました。情報通信技術の発展は、遠くはなれた人たちどうしがお互いにものづくりに参加することを容易にし、変化に富んだ付加価値のあるものづくりにも対応することができるようになってきました。

情報通信ネットワークの過去・現在・未来

 電気による通信技術の進歩によって、距離的な隔たりをほとんど感じさせることなく、また正確で膨大な情報の伝達が可能となり、通信の世界に大きな変革をもたらしてきたことを見てきました。
 人間の歴史とともにはじまった通信というシステムは、社会の要求と、さまざまな分野の技術革新によって、今後も新たな展開を見せていくことは間違いありません。通信という行為が私たちにとってどんな意味を持ち、人間の歴史にどんな役割を果たしてきたかをふり返ることによって、これからの通信について考えを深めてみることは大切なことと言えます。

(大木 利治)


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